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12. ?月?日
ウェルテルとわたしは、結ばれない。
わたしは、アルベルトの婚約者。
そしてウェルテルは、アルベルトのピストルで命を絶ってしまうでしょう。
でもウェルテルは、わたしに会いに来る。
そして、物語がはじまるのだ。
終幕は、彼の死。
はははは……。
わたしは、笑っていた。
でも、なぜだか涙が流れている。
笑っているのか、泣いているのか。
夏に聖者となった先輩は、有名な人だったらしい。
彼女のことを調べてみた。
事務所社長と不倫関係が噂されていたり、大手スポンサーや放送局・出版関係者の貢ぎ物として、身体を弄ばれていたり……。
原因は山ほどあるのに、巷では殺人だと疑われているらしい。
なるほどね。
ウェルテルの殺気を感じたわたしならともかく、それを知らない傍観者どもに、よくそれがわかったな。
だとすれば、ウェルテルの仕業だ。
彼の手による……。
わたしは、先輩聖者が書き込んだと思われる予告文を読むことができた。
いまでは、もう閉鎖されてしまったサイトだから、それを再び見ることはかなわない。
ウェルテルも、それを読んだのだ。
ならば、再び彼に会うためには、わたしが書き込めばいいんじゃないの?
それをウェルテルが眼にすれば、むこうのほうからやって来る。
舞踏会で、ウェルテルとシャルロッテが、運命の出会いをしたように──。
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発端は、一つの小さな自殺だった。
新聞の片隅に、ひっそりと載っただけの、小さな自殺。家族や友人、まわりの少数だけが悲しむ出来事にすぎなかった。
自殺したのは、東京の上野にある名門中学校の生徒だった。そこから有名大学の付属高等学校へ進み、そのままエスカレーターで大学へ進学するというのが、お決まりのコースとなっている。のちに東大生となる確率も高い。
自殺した生徒は、どちらかといえば落ちこぼれのほうに振り分けられていた。二年生。成績が伸び悩んでいた。最近では休みがちになり、服装の乱れも気になりはじめていたという。
イジメの可能性はなかった。むしろイジメる側の生徒だったし、非行に走りはじめる兆候があったのはまちがいない。学校関係者もそれはすぐに否定した。だから、新聞の片隅でしか取り上げられることはなかったのだ。
方法は、マンションからの飛び降りだった。
六月四日のことだ。
遺書もあり、母親と友人たちへの別れの文面がつづられていた。恨み言は、どこにも書かれていなかった。
二件目の自殺も、それは静かに発生した。
同じ学校の生徒。しかも、同じ二年生──だが、クラスはちがった。二人に面識はあっただろうが、友人というわけではなかったようだ。後追い自殺をするほどの仲ではないだろうとみられている。
それが、六月一六日。
成績が伸び悩んでいたところに共通点はあったが、二人目の彼には、非行の兆候はなかった。真面目に部活動に取り組んでいたという。遺書もなく、自殺の方法も首吊りで、二件の自殺に共通点はみられなかった。
だからここでも、小さな自殺として取り上げられただけだった。
しかし、ごくまわりの人間には、二件の自殺が、はっきりとした波紋となって広がりをみせていく。
六月二四日
自殺にも、流行り廃りが存在する。
少しまえに人気のあった死に方が、練炭を使っての一酸化炭素中毒だ。
部屋や車内の隙間をガムテープなどで塞ぎ、密閉状態にする。そこで練炭を焚けば、苦しまずにあの世へいける。
ただし、この場合の「苦しまずに」という文言は、体験したことのない人間が、想像か願望でサイトに書き込んだにすぎない。高濃度の一酸化炭素を発生できなければ、一瞬で意識を失うようなことにはならないのだ。濃度が低ければ、ひどい頭痛と吐き気が、意識が落ちるまで続く。じょじょに激しくなっていく動悸とめまいに恐怖をおぼえ、途中で断念する者も多いという。
この死に方の特色として、集団で決行するということがあげられる。場所は山中が多かった。一時期、連日このテのニュースが世間を騒がせていたのも記憶に新しいだろう。
これは「廃り」だ。
もう時代は、動いている。
いまの流行りは、これだ。
「またこの臭いか……」
片瀬仁は、思わずつぶやいていた。
数時間前にも嗅いでいる。
現場には行かなかったが、昨夜も一件あった。
一旦は沈静化していたのだが、芸能人がこの方法で自殺したことにより、再び流行りだしていた。
どんな方法かにかぎらず、最近、自殺が多いというのは、もはや気のせいではない。時代の荒廃か、もしくは機械的な進化の賜物か……そのどちらにしろ、人の心に魔物が住み着き、そいつが囁いているとしか思えない。
楽になろうよ、と。
首吊りや飛び降りなどの古典的な死に方とくらべると、この卵が腐ったような臭いがもたらす先鋭的な自殺法は、どこか薄ら寒さを感じる。まさしくファッションと同じように、自殺にも時代性があるということか。
硫化水素。
文京区湯島。住宅街に位置する、ありふれた一軒家。近隣住民からの通報があった。
異臭が立ち込めている──。
その通報から三時間ほどまえにも、高田馬場のマンションで似たようなことがあり、現場に急行している。マンションの全住人が避難する大騒ぎだった。
そのときも、いまも、捜査一課としての正式な出動ではない。
いまは『休暇中』だ。
警察において、単独捜査はタブーとされている。強制的に休みを取らされた真意は、なにかあっても、こちらは関知しない──という理不尽なものだ。しかし、上からの指示や命令ではなく、自分の意志で動けるのは、正直やりやすい。
七日間のうち、すでに三日が経っていた。今日を入れて、あと四日。どこまでできるかわからないが、自分にできることは悔いなくやり遂げたい。
可能なかぎり、自殺のあった現場は、じかに見ておきたかった。
高田馬場では未遂に終わったが、本日二度目のこれは、未遂を過ぎた。
「あの、大丈夫?」
所轄署の捜査員が、声をかけてくれた。三〇歳ぐらいで巡査部長と名乗っていたから、年齢でも階級でも、片瀬のほうが下になる。
なぜ本庁から一人だけ来ているのか、とても疑問に思っているのだろうが、イヤな顔はしていない。むしろ、頼り無い後輩を心配する、いつもの緒方のような役どころをやってくれている。
こういう状況において、片瀬のキャラクターと、巡査という肩書は、いらぬ軋轢を避けられる効果があるようだ。
「だ、大丈夫です……」
死者の骸を見ても、かろうじて胃液の逆流はまぬがれていた。
まだ子供だったことと、どこか現実味が欠けていたからだ。
肌が緑色に変色している。
こういう死人がさまようホラー映画を観たことがあった。
これが、硫化水素自殺の特徴だ。ネットでは「きれいに死ねる」と広まったようだが、実際にはこのように人間離れした無残なものになる。正確な死因も、血中ヘモグロビンが硫化することにより、酸素を全身に送れなくなるための窒息死だ。即死ではないので、数分間は苦しみがあるだろう。
「ふう……」
身体に入った臭気を吐き出すように、片瀬はため息をついた。
臭いは漂うが、無論、人体に影響する濃度でなくなっていることは、消防の人間が確認している。すでに、まわりの住人の避難も解除されているかもしれない。
現場検証がすめば、自殺と確定するだろう。人騒がせなことも、この自殺法の特徴だが、それにしても赤の他人の命まで脅かすとは、耐えがたい憤りを感じた。
いや、まだ確定したわけではないか。
自らの意志で選んだ死ではないのかもしれない……。
片瀬は雑念を振り払って、丹念に部屋のなかを見回した。
いまだに、遭遇した男の身元は割れていなかった。撮影した写真を西新井駅で再び確認してもらったが、伊藤康文の自殺未遂で目撃された男性だという証明は得られていない。
こうなってみると、あのまま男を尾行するという手が最善だったかもしれない。
一人でしか動けない現状では、一度のチャンスを逃すということが、どれだけ大きく響くのかを実感できた。
はたして、雛形かえでたち上層の人間は、なぜルールに反してまで、自分に捜査を許可したのだろうか……。
普通では考えられない。
このさきに、どんな真実が待ち構えているのだろう。それとも、その真実に行き着くことを恐れているのだろうか?
だからこそ、知っているであろう情報を教えてくれないのではないか?
(あの文字は、ない……)
部屋のどこにも、不審なものは見当たらなかった。過去二件──伊藤康文と山本武司の件とは関係がないようだ。
死亡したのは、この家の住人で、一人息子の中学生だった。名前は、菊地和彦。二年生一四歳。学校は上野にある。
二階にある自室で硫化水素を発生させた。机にはパソコンがあり、ネットでやり方を検索したのだろうと推測される。部屋の扉には『有毒ガス発生中』の張り紙がしてあった。一連の硫化水素自殺・および未遂でもよくみられるものだ。
机の引き出しからは、遺書もみつかっていた。
覚悟の自殺だったことは疑いようがない。
この一件に関しては、殺人の線はないだろう。
「イヤ──ッ!」
部屋の外から、母親の泣き崩れる声が聞こえてくる。
遺族の悲しむ姿は、神経にこたえる。
胸をえぐられるようだ。
「ったく……迷惑な死に方しやがって!」
捜査員のだれかが、舌打ちしながら、そう暴言を吐いた。もしかしたら、母親の耳にも届いてしまったかもしれない。
片瀬は、身体が熱くなるのを感じた。
「なにを言った!?」
急に、片瀬が声を荒らげたので、ほかの捜査員たちが眼を丸くした。
「いまの言葉は、声に出して言うことか!?」
「な、なに怒ってんだよ!」
困惑したように、一人の捜査員が言った。どうやら、彼が発言者らしい。
片瀬と同じぐらいの年齢だった。
「遺族の気持ちは考えられないのか!?」
「チッ、本店の人間だからって、なに偉そうにしてんだよ! 迷惑だから、迷惑って言ったんだ!」
「あなたは、それでも警察官か!?」
こんなに乱暴な言葉づかいで人にからむのは、いつ以来だろう。
「な、なんだと……!」
暴言の捜査員は、怒りに顔を真っ赤にして、いまにもつかみかかってきそうだ。
「や、やめろって、二人とも……」
困り顔で、最初に声をかけてくれた巡査部長が、仲裁に入った。
態度の悪い捜査員は、それでなんとかとどめたようだ。
片瀬も、必死に気持ちをおさえた。
こういう品格のない警察官は、正直、少なくない。
国家権力を自分の力だと勘違いしている人間。善良な市民に高圧的な態度で接する者。えてして、そういう輩は、自分より力を持っている者には弱い。
ちがう。
権力とは、弱い人間のために使うものだ。
警察の力も、弱い者たちのために行使しなければならない。
それが、片瀬の警察官としての正義だ。
上の命令は絶対という警察社会の風習が、つけあがった警察官を生む土壌になっていると片瀬は考えていた。
上だけを見て、下をおろそかにする。
この捜査員と同じだ。
弱い者のほうに眼を向けろ──。
声に出してしまいそうだった。
厳密にいえば、片瀬は警察官にはむいていないのだろう。それでも、同じ考えの人間を知っていた。
あの人は、いつかの約束を覚えているだろうか?
かつて、片瀬は警官が嫌いだった。
横柄に振る舞う警察官ばかりだと信じていた。
ある人に教えられた。
横柄な者と、一般市民に親切な者──警察官とは、両極端に分かれてしまうものなのだと。
横柄な者は、徹底的に横柄だ。
親切な者は、徹底的に親切だ。
だがどちらにも長所があり、短所もある。
暴力団組織を捜査するのに、親切な警官では舐められる。道案内をするのに、横柄な警官でも都合が悪い。
適材適所だよ、とその人は言った。
それができていないから、警察の評判が悪いままなのだよ。
いつか、私が組織を変えてみせる。
そして、言った。
君の真っ直ぐな正義感は、警察官にむいているな。
少年時代の片瀬は、反抗心から、その人を睨みつけた。
君に、本をプレゼントしよう。有名な刑事のドキュメンタリーだよ。その刑事は、けっして親切な警察官ではなかった。むしろ、横柄だった。しかし凶悪犯を追い詰める姿勢は、君が読んでも感銘をうけるだろう。
なってくれ、君が。
弱者にはやさしく。
凶悪犯には厳しい。
そんな理想の警察官に──。




