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ヴィルヘルム様
ヴェッツラーは昨日をさがして。
1. 六月二日
意識のすみで、だれかが囁く。
生きていても仕方がないと……。
いっそ死んでしまえば、どれだけ楽かと──。
(足を踏み出してしまえ)
二度と戻れない領域とは、なんと甘美なものなのだろう。
このいざないは、麻薬だ。
一度、魅せられたら、どうすることもできないほどに、罪深い。
さらば、われ。
さらば、われ以外のすべて。
待っているものは、無。
永遠の無。
(さあ、足を踏み出すのだ!)
『六番線、電車が通過いたします──』
アナウンスが合図のように、南波は歩きだしていた。
月曜。朝のラッシュが過ぎたばかりのホーム。都心に向かう上り方面ということもあって、人の数は、まだそれなりに多い。
ほかの乗客は、やって来る列車には無関心だ。あたりまえだ。この駅を素通りする特急なのだから。
しかし南波の動きは、あきらかにおかしかった。
白線を越えても、足は止まらない。
東武伊勢崎線西新井駅──。急行や準急も停まる駅だが、特急だけは停車しない。事前に調べていなければ、このチャンスをものにすることはできなかっただろう。
流線型の先端が、すぐそこまで近づいていた。
(踏み出すのだ!)
警笛が耳障りに響く。
足を踏み外した瞬間、南波は、その感覚におぼえがある、と思った。死は、そのあと静かにおとずれるものだ。
「待って!」
ふいに、利き腕をとられていた。
眼前すれすれを、白に青系のラインが入った車体が、左から右に流れてゆく。
踏み出したはずの足も戻っていた。
「あなたが、《赤いイルカ》さん!?」
南波の腕をつかんだ少女が言った。
一人だけに聞かせるつもりだったのだろうが、通過する特急の騒音に負けないようにするためか、たんなる興奮のためか、声はまわりにも漏れていた。
NGワードだ。
「逃げないで! わたしと話をしましょう」
女性とは思えないほど、生命感あふれる力強さだった。左腕一本ということが信じられない。
高校の制服。六月の蒸し暑い日なのに、長袖のブラウスを着ていた。
すぐに、同類だとわかった。
「オレじゃない」
南波は、少女の眼をまっすぐ見つめながら答えた。正気なのをわかってもらうためだ。
「ウソ。あなたでしょ、ネットに書き込みしたの!」
「どうしたんですか!?」
そこに、駅員が駆けつけてきた。まわりの乗客のだれかが呼んだのだ。
この駅は、両側に電車が発着することのできる島式のプラットホームで、都心に向かう五・六番線ホーム、埼玉方面への三・四番線ホーム、そして大師線という単線用の一・二番線ホームが存在する。
騒動により、五・六番線ホーム上は、ささくれだった空気に包まれた。
「あの人が飛び込もうとしたんです!」
五〇過ぎのおばさんが、南波を指さしながら大声をあげている。親切心から、迷惑なお節介を繰り返すタイプだ。この世の終わりのようにパニックをおこしている姿は、どこか滑稽だった。
「はなしてくれ」
少女の手を全力で振り払い、南波は騒ぎなどないことのように、周囲を見渡した。
ポイントの見立てに、まちがいはない。確実に死のうとするのなら、電車が入ってくる方向の一番端が望ましい。しかし、ホームのそんなところに立っていれば、駅員に警戒されてしまう。
電車の入ってくる側ではあるが、ほかの乗客もいるこの位置が、考えられうるベストポジションだ。ターゲットがこのなかにまぎれているのならば、『NGワード』を耳にしていることになる。様子は、歴然のはず。
と──。
若いサラリーマン風の男と眼が合った。
どこにでもあるようなスーツ、どこにでもあるようなネクタイをしめた、どこにでもいるようなサラリーマンだ。
相手は、あきらかにうろたえていた。
サンプルのように、わかりやすい反応だった。
「ど、どこへいくの!?」
南波は、少女や駅員の制止を無視して、そのサラリーマンを追いかけた。
五番線に電車が入ってきたのは、そのときだった。今度のは、通過する特急ではない。停車のためのブレーキから、危険を回避する急ブレーキにすぐさま切り替わった。
「うおおお──ッ!」
サラリーマンが、つらなる鉄の塊に吸い寄せられていく。その叫びは、決死の声か、はたまた歓喜の雄叫びか。
(これで、楽になれる!)
そんな感情が、伝わってきたような気がした。
南波は人をかきわけて、そのあとに続く。
〈かわれ〉
血が沸騰しているような鼓動にまじり、囁くような、うちなる声を聞いた。
〈もう失敗は許されない〉
返答する時間はなかった。
世界をつんざくような声を響かせて、南波は宙に飛び上がっていた。
「かーみーかぜ────ッ!!」
* * *
電車の前面にサラリーマン風の男性が激突するのと、どちらがはやかっただろう。あとを追った男が空中で抱きついたではないか。
そこまではわかった。そこからは、二人の姿が視界から消えた。
ホームからそのさまを目撃した人々は、二人の無事な姿は想像できなかったはずだ。速度はなかったので、死ぬまでにはいたらないかもしれない。とはいえ、かなりの大怪我は見込まなければならないのではないか。
少女も──北川雪耶も例外ではない。
急ブレーキも間に合わず、一両目の車体が雪耶の前を大きく過ぎてから、やっと完全停止していた。
車窓に、自分の強張った顔が映っている。
整った容姿。女の子らしい可憐さよりも、どこか冷めた瞳が印象的だ。長いストレートの黒髪が眉毛の上できれいにそろえられている。
制服を着ていなければ、少女には見えない。
「どう……なったの?」
雪耶は、だれに問いかけるのでもなく、言葉をつぶやいた。
駅員が線路に下りて、二人の安否を確認している。
すぐに電車がバックをはじめた。
先頭車両が雪耶の位置よりもさがると、となりあった後ろの線路上に立っている二人の男の姿が見えた。間一髪、助かったようだ。下り電車が来なかったのは幸いだった。
さきに飛び込んだ会社員のほうは、足を怪我したのか、あとに飛び込んだ男に寄りかかるようにしている。
(あの人が……助けた?)
雪耶は男の顔に、じっと視線を合わせた。
飛び込み自殺をはかった相手を追いかけて、自身も電車にむけて飛翔する。無謀なことを迷う様子もなくやってのけた──それにふさわしい精悍な表情をしていた。
最初に見たときは、少し丸みをおびた目許がやさしい印象をあたえていたが、いまはやはり攻撃的に尖っている。
年齢は二〇代半ばほどだろうか。三〇まではいってないだろう。
ジャケットこそ羽織っているが、ネクタイもしていないし、サラリーマンや公務員のような堅気には見えない。
「怪我はありませんか!?」
駅員二名が、彼らを気遣っていた。
男は、無言だ。助けられたサラリーマンからも、言葉はない。
雪耶はそこで、不思議な感覚に襲われた。
男の身体が、一瞬だが見えなくなったような……。
ほんの一瞬。
いや、男は消えてなどいない。当然だ。なのに、そう感じた。
(……)
正体不明の男が、支えていたサラリーマンの身体を駅員たちに託すと、まるで逃げるように、むこうの四番線ホームによじ登った。
雪耶の眼には、正直、愚鈍に映った。いま華麗な跳躍をみせた男とは思えないほど「やっと感」あふれる登り方だったのだ。
「き、きみ!?」
駅員の声も聞かず、男はホームから階段を駆け上がっていった。