arcobaleno
―血の掟だけは破っちゃいけない。
そう教えてくれたのはあなただった、とイヴは目の前の男を見つめる。綺麗に剃られた髭に柔らかなグリーンの瞳、口輪や眼輪にはその生き様を表すように幾つもの細かい皺が刻まれていた。
おおよそマフィアには見えない、陽気なナポリの人間に見えるこの男が今回のターゲット。そして、イヴがアゴスティーノファミリーの腕利きヒットマンと言われるようになった殺しの先生でもあった。
イヴがアゴスティーノファミリーに入り、眠れない夜を一緒に過ごしてくれたのはこの男だけだった。裏切り者の娘として当然の様に暴力を受けるイヴの怪我を治療してくれたのもこの男だけだった。殺しの技を教える時はとても厳しかったけれども、ただ厳しいだけじゃない、父親にも似た感覚があった。殺伐としたあの世界で、この男と一緒に過ごす時間だけは仄かな温かみがあり、色彩があった。
イヴはこの男を好いていた。異性としてではない、本当のファミリーとして。だけれども、この男は“ファミリー”を裏切ろうとしている。何で、という言葉はいらない。この男はマフィアとして生きるには優しすぎたのだ。マフィアとして生きるには欠陥していたのだ。
セーフティをかけたままの銃口を向けて何分が経ったか、逃げる事もなくただイヴを見つめる男に、イヴはやっと、ゆっくりと、セーフティを下ろす。
かちん、と聴き慣れた音がして男は満足そうに一つ頷き、そして此処に来て初めて口を開く。
「イヴ……言っただろう、スライドぎりぎりの所を持つんだ……そうだ、上の方だ。左手でしっかりホールド……そう、いいぞ、イヴ」
まるで授業でもする様な話し方にイヴは一度目を伏せる。すると「標的から目を逸らすな」と再び指摘が飛んでくる。イヴは言われたまま握り直して、しっかりと男を見つめた。
「お前は私の大事な教え子だ、教えた通りにしっかりと撃ちなさい」
男の言葉に数度頷き、引き鉄のテンションを感じながら指を曲げていく。いつもは一瞬で終わる作業がまるで1時間かかっているかの様な錯覚を覚える。グリーンの瞳は相変わらず柔らかだった
「 、 、… …」
たん、と響いた音は男の死んだ音だけではなかった。
――――――
かつて、自分が本当のファミリーだと思っていた男が死んで既に11年が経った。男が死んだ日は綺麗な青空だったのに、お墓参りをする時はいつも雨空。鈍色の雲が重なりあい、時折雲の端が激しく光る。今にも振りそうな空を暫く見つめてから、目の前の墓石を静かに見つめる。
「…先生の所に来ると、いつも雨だね」
ぽつり、ぽつりと頭や頬を濡らし始めた雨を気にすることなくイヴは目の前の墓石にこの国では珍しいとも言える真っ白なバラの花束を供えて目を伏せる。
その間にも雨足は強くなり、雨粒が体を打ち付けイヴの体温を奪っていく。体温を吸って温くなった雨粒がまるで涙の様だと思いながら、それでも泣くことのできない自分にどこか苦しげに表情を歪める。
「…先生、私、今、殺し屋してないの」
殺し屋稼業から足を洗う事になってもう8年。男を殺した時よりも背も伸びて大人びた顔付きになったイヴは22歳になっていた。昔よりも伸びたプラチナブロンドの髪が水を吸って透明に近い微妙な色合いへと変わっていく。
「…先生、私、今、大学に通ってるの」
父の様な存在に出会い、姉や兄の様な存在に出会い、裏では見られなかった世界をイヴは沢山知った。世界がお金と銃以外で構成されている事も知った。掛け替えのない居場所を手に入れることができた。
それでも、イヴにとっての最初の家族は「…先生」今は口なき死人だった
「…私、先生の事、怒ってるよ」
男に対して初めて伝えた、感情。堰を切って溢れたような心のざわつきを感じる。が、雨のせいか、その感情もすぐに冷えて蟠りとなった。ごろごろと胸に異物が入ったような嫌な感覚にイヴは美しい眉を寄せる。
「…先生」
うまく言葉にすることもできなくなったそれは、熱い雫となってイヴの頬に伝い落ちていく。涙はこんなに熱いものだったかと、火傷しそうな程に熱く感じる涙に驚きながらも溢れる感情のまま顔を歪め、肩を震わせる。
「風邪を引きますよ」
どれほど経ったのか分からない。揺らいだ心も落ち着いて来たとき、体を打っていた雨が止まった。確認するように上を見ると真っ黒い傘が掲げられ、振り向くとよく見た兄の様な男が苦笑を浮かべて立っていた。
「…ジェラルド」
「私だけじゃないですよ」
僅かに身を避けて、後ろを見せたジェラルドに釣られ、視線を奥に向ける。そこには父の様な、否、義父となったクロード・ビショップがひらりと手を振って此方を見つめていた。
出会った時から変わらない理性的な青い瞳が穏やかに細められ「イヴ」と変わらない落ち着いた声が染み渡る。
「帰ろうか。アップルパイとレアが家で待ってる」
「…ん」
もう一度だけ墓石を見つめ。唇に緩やかな弧を描く。そして、一番伝えたかったことをイヴは思い出した。
「…先生、私、笑えるようになったよ。」