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漫画家 木村健史の場合

作者: そらぐも

健史は一人、パソコンの前で頭を抱えていた。週末までに仕上げなければならない原稿がまだ半分も終わっていない。原稿に期限はないものの自分が決めた期限に間に合わないということはそれだけでモチベーションが下がってしまう。ちらりと時計を見たが時刻は午前10時、朝飯を食べなきゃな。っと半ば使命感にも似た何かを感じつつカップラーメンを作るために立ち上がった。


住み始めてまだ半年も経たないくらいなのにも関わらず、部屋はごみで敷きつまり、本が無造作に積まれている。テーブルの周りとベッドの上だけはきれいに片付けられており、何とか足の踏み場を確保はしているものの、カーテンの隙間から差し込む朝の日差しは先月食べたカップラーメンの残骸を照らしていた。


やかんに水を入れつつパソコンのほうを向く。また、何も描けなかった。と一人ごちり、ため息をついた。


彼はアルバイトをして生計を立てている。月に雀の涙ほどの費用で日々をやりくりをする。もうすぐ24になるこの青年は大学を出た後定職に就くことができなかった。もちろん何も考えずにただ闇雲に就職をあきらめたわけではない。就職ができない彼には一つ考えがあった。


漫画家になることだ。

これは彼の幼少の頃からの夢であり、希望であった。


小学、中学といじめられっ子だった健史は小さなころから教育熱心な親の下野球をしていたが、彼には運動神経がほとんどなかった。足は遅く、チームの中でも浮きがちになっていた。野球への興味も情熱もあったわけではない。練習という苦行に耐える毎日。特に成果らしい成果を挙げることもできず、親の期待を背に苦行に耐える日々を送っていた。


他の野球部の子からちょっかいをかけられることが多かった。彼自身も心底真剣にやっていたわけではないし、そのちょっかいすら苦行の一部だと解釈するところが健史にはあった。3人。名前すら思い出したくもないやつらがいた。


健史は幼少から漫画を描くことが癖のようになっていた、彼にとっては数学や古典までもが漫画の題材となり、そのおかげで彼は人よりも幾分か勉強ができてしまった。そのことが悪がき共の気に障ることになった。テストでいい点を取れば何をいい気になっていると殴られ、試合で負ければ、お前のせいで、お前のせいでと詰られた。


もちろん、他に友達がいなかったわけではない。しかし、陰湿ないじめの前ではどんな友情も塵芥に消えてしまう。皆、次の標的になりたいとは思わなかったし、健史にそのことで責めることはできなかった。できるだけ絡まないように、絡まれないように用心して毎日をすごしていた。


ある日、普段は自宅で書いていた漫画をうっかり学校に持ってきてしまったことがあった。様々な作品を混ぜ合わせて作られたキメラのような作品ではあったが、健史の中では当時の最高傑作と言っても過言ではないアクションとストーリーがあった。それを運悪く彼らに見つかってしまった。休み時間にクラスで晒され、大声で音読されてしまった。恥かしさのあまり席を立とうとした健史に彼らは追い討ちをかけようと詰め寄る。


健史の記憶はそこから曖昧であった。小ばかにした笑い。飛び交う怒声。振り上げられたいすは悪がきの一人へと振り下ろされる。軽蔑の視線。突然首根っこを押さえられる。苦しい。つらい。思い出せることは断片的ではあったもののしっかりと記憶していることは切り裂かれたノートをみて、飛び掛ったことだった。


中学卒業後は落書き程度に絵を描くほどで漫画を描くことはなかった。というよりも描けなかった。自己満足のために描く事もできない。


それでも、どうしても夢を捨てることができなかった彼は、その後も漫画家への憧れをさらに強めていった、高校からはアルバイトを始め、その給料の半分を漫画を描く為に使った。休日には資料集を買い漁り、文具を買い漁る。自分は漫画家になることのみが己の将来であると信じていた。どうしてもその道にしかいけないのだと決め付けて、大学卒業を迎えた頃には一通り漫画を描くことのできる環境とリハビリの終え、さらに磨いた技術があった。


後悔はしていない。といえば嘘になる。漫画家としての収入はなどほとんどないに等しい。たまに同人誌を発売するだけで、その収入も自己出版の費用のために消えていく。卒業まじかのほうこそやる気が自然と沸いてきて、漫画に向ける熱いものを机上に押し付けていたものの、だんだん衰え始めていく。今となってはネット投稿用の少し雑に仕立てたものを描くだけで心底気に入るものが描けていないのが現状である。


ある日メールが届いた。たいしたメールではない。同窓会の案内メール高校からは携帯すら替えていなかった。特に電話を取る必要も少ないし、メールなんてものはほとんど来ない。しかし、メールが来てからなかなか漫画に入れ込むことができなくなっている。メールがすべての原因に違いないと彼は確信している。

出席したい気持ちでいっぱいであっただが、今の自分を同期に見られるということがどうしても耐えられない。どうせみんな華々しい私服で身を飾り、高いバックを引き下げて、首まわり、腕周りにきらきらの時計やらなんやらをつけて大人を演出している。そのオシャレな空間に自分はいたたまれなくなるだろうし、表では漫画家になる夢を褒め称えながらも、裏で人を小ばかにして少し仲間内で盛り上がった後に忘れられるんだ。


と、陰鬱で、猜疑心に満ち満ちた被害妄想を断ち切ることはできなかった。欠席の連絡したが、なぜかそのことが気になってしまいどうしようもない。特に未練もくそもない、なぜか気になる。いや、行かないことによってどうしようもない被害妄想が暴走している。そのせいで気は散り、気分はいつもよりもかなり沈みこんでいるのであった。


朝食を食べ終わり、ふうと一息つく。最近は朝早くから朦朧とした頭を揺り動かし、ペンを握ることによって何とか描いている状況だ。これ以上絵は描けないことはなんとなく日々の成果で想像はしていた。机に座っていても仕方がない。健史はすくっと立ち上がり着替え始めた。


漫画が行き詰まり、身動きが取れなくなったとき、考えがまとまらずどうしようもないときに唯一と言っていいほどにできる気晴らしのようなものが歩くことだった。最近は特に町をふらふらと歩き回ることが日課になっていた。ただ歩くだけではない。公園で、道端で、学校で、呉服屋で、ファミレスで、競馬場で、話している人を見ることが好きだった。違うはずの人々に勝手に共通点を見つけ出し、十人十色は間違いだと証明し続けた。ただ傍観者となることに喜びを感じていた。毎日違う町を歩き回ることで様々なパターンを見つけることができた。


人にはパターンがあるというのが彼の自論だ。どんな人間も大抵何かしらの癖がある。その癖を見ていると人の感情がなんとなくわかる気になった。その癖でどのような人間かを過去の人物から当てはめて人格のパターンを作る。その癖が出るタイミングが食べる時、話す時、そして歩く時に現れると感じていた。そして勝手にパターンをつけることで、社会と言うよくわからない虚像に釘を刺していた。誰もが決まった法則で意思決定を行う世界。それが彼の生きる世界だった。


ふと通りかかった花屋の女性が気になった。どこにでもいるパターンだと健史は瞬時に見抜くことができた。接客時に見せるはにかんだ笑顔も彼女の人柄をよく表している。明るく元気な町娘気質。身を粉にして働く姿から、生真面目な完璧主義が見て取れた。だが、なぜか目を離すことができない。彼女には他の誰にもない凛とした何かを感じてしまった。今まで見たことがない、いや、しかし何か懐かしい、何か芯のあるものを感じ取ってしまった。彼女を観察することに決めた。というよりも、彼女のことをもっと知りたい、知らなければならないという食欲に似た感情が健史を侵食していた。


彼女は実によく働いていた。たくさんの荷物を運び、接客し、水替え、その行動に無駄がなく、洗練されていた。ところどころに彼女の些細な気遣いが見て取れた。1日中彼女を追うわけには行かなかったものの長い時間を観察に使っていた。しかし、なにか違う。何かのピースが足りていない。まだパターンの型にうまくはめることができなかった。なぜか懐かしさ、侘しさを感じる。

この感覚に健史自身は戸惑っていた。


自分と何が違うのか。それが健史の最初の出発点だった。時間が過ぎ、帰る道すがら彼女と自分とは何が違うのかを見つけることにした。ただただ人間的に健史に欠けている、彼女を輝かせるもの。あの凛とした芯のある感じは自分にはなかった。ただそれがなんなのかがわからなかった。彼女のことをもっと知ることでしか見つけ出せないのだと、そう考えた。


途中、コンビニで夕食を買った。いつもなら酒を買い酔ったまどろみに任せ寝付くのだが、今日に限ってはその気が起きなかった。というよりも彼の中では不思議な化学変化が起きつつあった。


夜、健史も思いもよらぬ行動を起こしてしまう。漫画を一晩中描いたのだ。ただただ黙々と。ペンが勝手に進んでしまう。ストーリーが同時進行で綴られていく。台詞が、人物が、背景が、すべて目の前の出来事であるかのようにしっかりと確認できた。生き生きとしたそれらが反響し合い、闘争し合い、和解し合うことで1から作られたはずのその苗は大樹へと変化していった。


夜書くことは間々あった。バイトのあと、家事の後だって描きたいときに描いてきた。しかし一晩中描いたことはなかった。いつもならば途中でぱったりと筆が進まなくなる、まるでガソリンが切れた車のようにふらふらと速度は落ちていき、止まる。しかし、その夜は違った。止まらない、いつまでたっても止まらない筆に健史自身が戸惑った。やっと止まったころにはもう朝日が高く上がり、時計は午前11時を指していた。まだ完成というには程遠いものではあったもののその一つ一つの場面は強烈で人の目を惹く作品であった。


再びあの花屋に寄ってしまった。向かいのコンビ二で立ち読みをするフリをしながら彼女を観察していた。自分のことをストーカーか何かかと思う。気色が悪い。人の目は気になっていた。花屋の店主らしき人物はこちらをガラス越しに監視している。目の前を通る主婦連中のこちらを見る目は冷たい。しかし、自分には花屋など立ち寄る理由などないし、何かを買うにしてもおき場所がない。話しかけることができない以上この行為は仕方ないことなのだ。そう考え、言い聞かせた。

2時間ほどそのコンビ二で立ち読みをして家へと帰る。なぜか筆が面白いほど進む。健史はなぜココまで筆が進むのか理解できなかった。しかし、彼女から何かしらの作用を受けていることは容易に想像できた。


気がつくともう16時を回っていた。

つかの間の休息もほどほどに彼は早々に家を出た。


健史は古本屋でアルバイトをしている。彼の仕事のほとんどはレジのかたわら請求書チェックや注文リスト作成することであった。入れ込むような仕事がない分彼女のことを考える時間があった。自分がなぜ彼女に固執しているのかがわからない。それに、漫画に打ち込むことができることも。そのことを不思議に思っていたが、それ以上にあの輝きが気になっていた。どこかまぶしい、それでいてなにか懐かしい感じに健史は高校時代片思いであった清美という女のことを思い出した。


帰宅後すぐにアルバムを開く。懐かしい面々にはにかみつつ清美の名前を探した。

清美は彼にはじめてまともに口を利いてくれた母親以外の女であった。


高校にあがり、彼は吹奏楽部に入る。なぜ吹奏楽部なのか、それは健史にもわからなかったが、入学式で聞いた校歌の演奏に感動し、入部をすることに躊躇はなかった。そこで初めて清美と出会った。楽器は彼と同じサックスで、いつも元気はつらつな男勝りな子であった。過去にも吹奏楽部でサックスを吹いてたため健史とは比べ物にならないほどきれいな音色を輝かせていた。一目惚れだった。もちろん憧れもそのなかにあったと思う。それでも彼は清美に会うためだけに部活に顔を出していた。


純粋だった。単純だった。ひ弱で乱暴だった。そんな日々が流れていく。


なぜそんなことを思い出したのかわからなかった。ただその中に、彼女の中にある光のヒントがあることはなんとなくわかった。



あの輝きは、あのまぶしさはなんなのだろう。わからなかった。ただ純粋に尊敬、嫉妬の念に苛まれていた。自身の考えが正しいのであれば、自分には一番欠けているものが彼女にはあった。思考のもやの中であの花屋が


ふと顔を上げると花屋に居た。いや、いつの間にやら来てしまった。目の前には彼女。少しどぎまぎしながら床のほうに目を向ける。ガーベラ、パンジーなど見たことのある花ばかりが並べられている。色とりどりの花を見てまわる。


一つのバケツの前で健史は座り込む。


一見雑草にも見える無数の葉の隙間から小指の先ほどしかない小さな花がたくさん咲いている。目を奪われた。なぜか視線をはずせないほどに彼にはこの花は魅力的に見えた。

きれいですよね。と、囁かれる。真横には彼女が座り込んでいた。この花は?と何かを返そうとするが目が離せない。小さいながらも生き生きと、呼吸をしているように思われた。


タネツケバナって言うんです。彼女は続ける。彼女は笑った。


健史にはこの花が今までどんな気持ちだったかわかる気がする。

必死だった。周りに囲まれもみくちゃにされながらも生きる。例え日が当たらずとも、回りに邪魔されても。


この花は自分ではないだろうか。


不意に自分に一番足りないものを自覚してしまう。この小さい花に魅了され、今までなんとなく見ないようにしていたのに、健史は、はっきりとそれを確認してしまった。



頭を上げるとそこは自室だった。睡魔に惑わされた筆先はかわいそうなほどくよくよと行き場をなくし、泳いでいた。


翌日から彼の日課はなくなった。ただただひたむきに彼は漫画に打ち込んだ。そうすることが苦痛であると感じることがなくなったし、やめる理由をみつけるほうが難しいとでも言うかのごとく、彼は作業に熱中していた。もう彼女に会うことはないだろう。顔もよく覚えていないあの女性に次にあったとしても気づくことはないかもしれない。それでもよかった。もうよかった。

おつかれさまでした。

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