死より生まれくるもの
風の神――その御名は風の音に在るという。
姿形を持たないこの神は、祀られた黒面と簓をまとって、時々里に降りてくる。
いつから居たのか。どこから来たのか。
なぜこの地に留まったのか。
その謂れは、誰も知らない。
――「チクラビトについての考察」より
*
リィン……と鈴の音がして、那由他は思わず森の方角を見た。居たはずの場所から、風神は忽然と姿を消していた。
――いない?
狐に摘まれたように、那由他は辺りを見渡したが、深鳥の声が聴こえ、すぐに現実に引き戻される。
「かいせいー!!」
ようやく出た声は、悲鳴となって空気を切り裂いた。反動で息を吸い込んだ途端、むせ返るような血の匂いがして、深鳥はくらりと目眩いを覚えた。
遠のきかけた意識を、唇をかんで繋ぎ止める。深鳥は血にまみれた両手で快晴の顔を包み起こした。半ば開きかけの眼は虚ろで、その唇から息がこぼれることは、なかった。
「…い……や……」
深鳥は震えた腕で快晴を抱え込んだ。恐ろしさに体が冷えきっている。
嘘だ――深鳥は頑なに目を閉じた。きっとまた、二人で同じ夢を見ているに違いないと思った。
深鳥は快晴の背中をさすりながら「起きて」と何度も呼びかける。しかし、快晴の体は人形を抱いているかのように動かなかった。
その時、いくつもの人の気配がして、深鳥はおもむろに顔を上げた。
宮司、聡、那由他、名倉 爺がいた。そして……紫野の治療をした町医者の熊井先生も。
「深鳥さん……」
聡が恐る恐る声を掛ける。深鳥は怯えたように快晴を抱き続けている。血の気の引いた表情。さいなまれた眼で……聡はたじろいだ。いつかこんな深鳥を見た気がする。そう、あれは快晴が行方不明だった時。深鳥がどこかに消えてしまいそうに思えて……
熊井先生がのっそりとした動作で快晴の前に屈んだ。だらりと垂れた腕を取って、脈をみる。首筋にも指を当てたものの、先生は首を振った。そして開きかけた快晴の瞼を指でそっと下ろした。
「そん…な……」
傍らで聡が呟いた。
「嘘だろ……おい、快晴!……快晴!!」
那由他が来て、快晴を揺さぶりだした。
その向こうで、呆然とうなだれる宮司と、名倉 爺が腕を押さえながら嗚咽している。
周囲の反応が一縷の望みを打ち砕く。
惨い現実を前に、深鳥は上手く息が出来なかった。周りの風景がさめざめと色褪せていくのを感じた。
夢なんかじゃない――深鳥は力無く、快晴の肩にもたれた。
快晴は自分を庇って、そして――命を落としたのだ。
罪の意識に深鳥の心は閉ざされ、沈んでいった。何もかも遠くなる。呼び続ける聡の声も――
辺りはひっそりとして暗く、風の音だけが冷たく澄んで聴こえた。ひとりぼっちで、夜の森にいるみたいに。
傍らに眠る快晴を、深鳥は静かに見つめた。そっと髪を撫で、快晴の耳元で呟く。
「……私も行くよ」
涙がとめどなく頬を伝っていく。快晴の頬をも濡らし、血と混じって滴り落ちる。
「どこまでも、一緒に」
風に混じるかすかな音色。聡は自ずと耳を立てた。
「×× × …… ××× ×………」
澄んだ声が口ずさむ、古き世の調べ。それは――
「だめ――深鳥さん!!」
深鳥を止めようと聡は手を延ばした。瞬間、涌き上がった風に弾かれ、聡の体は地面に転がった。呻きながら聡は体を起こしかけ――目の前で起こる奇異な現象に目を見張った。
見えないはずの風が今、聡には見えていた。浮遊する旋律が風を紡いで、風は幾重の糸になって、淡い光を帯びながら、深鳥と快晴の周りに漂っている。
時折しゃくりあげながら、なおも深鳥は風紡ぎ唄をうたい続ける。
「× ×× ×……××× ×………」
深鳥の胸元で形代がしらじらと輝きだした。そして、ひび入る音とともに、快晴の背に刺さった刀がたちまち微塵と化した。
「!」
聡は思わず息を飲んだ。破片はきらきらと風に舞い上がり、光の粒となって辺りに注ぐ。……光の雪が降っているみたいに。
そこに居た誰もが不思議な光景に目を奪われる中、深鳥は快晴の変化に見入っていた。黒髪の色が抜けて……透き通ってゆく。首筋の痣が、蔓を伸ばすように快晴の頬に染み出て、流紋型を描く。そして――ゆっくりと開かれる眼が青く深く、深鳥を捉えた。
「かい…………せい……?」
白銀の髪は老翁のよう。けれど深鳥を見つめる面持ちは若いままに……目覚めた快晴の姿は、異様と呼べるほど変わり果ててしまっている。
深鳥は呆然とその姿を見つめた。快晴と同じ顔なのに……快晴じゃない。あたかも鏡に映ったもう一人の快晴といったように。
吹き渡る風とともに、体の内がざわめいていく。
「あなたは……誰?」
深鳥の問いかけに、彼は……快晴がそうするように、寂しげに微笑った。




