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風が廻る場所  作者: 飛水一楽
〈虚空の章〉
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風の繭

 

 ふぁさり。


 羽ばたきの音に深鳥は目を開けた。

「!」

 自分のいる場所を認識しジタバタする。足元に地面がなかったからだ。

「わ、わ、わ」

 (あるじ)の動揺をよそに、背中の羽根は揚々と風を受けている。いつまでたっても落ちる気配がないので、深鳥はようやく体の力を抜いて、辺りへ注意を向けた。


 天頂に留まる闇から、地平に向かって藍色、青色へと変化する空。消えかけた星。その側で白く化石のように残る月がある。


 ――私、鳥になってる……?


 上空の冷えた空気と地上からの仄かな熱で、うっすらと霧が生じている。その切れ目から垣間見える森の海は、まるで空の沈殿物のように暗然と下に在る。湿った森の醸す大気の匂いを、深鳥は懐かしく思った。



『… … …… …』

 空気の隙間を縫うように聴こえてくる唄がある。

 深鳥は唄声の方へ羽根を凪いだ。速さの中にいるのに不思議と怖さはない。風そのものとなったみたいだ。


 ビュッと耳元を抜ける風。乱舞する髪が生き物のようにしきりに顔に覆い被さってくる。ままならない髪を懸命に押え、深鳥は地上のある一点を捉えた。


 深鳥の体は、滑らかな弧を描きながら空中を落ちてゆく。夜明けの丘の上、誰かが舞いながらうたっている。


 ――誰?


 髪を留める朱塗りの櫛、軽やかな薄布を体に添わせ、赤の縄紐で結い留めている。その装いはまるで天女のよう。


 深鳥は裸足で地面に降り立つと、ふかふかとした草を踏みしめながら後方から近づいた。


『×× ×××× ××× ×』

『××× ×× ××× ××× ×』

『××× ×××× ××× ×』

 ……


 それは、おそらく古の言葉だった。紫野と自分がうたい合った唄と同じーー意味はとうに失われたと快晴は言った。誰も知らないし、深鳥が知るべくもない。それなのに。


 深鳥が今まで使っていた言の葉は、繋がれていた枝を次々と離れ、一枚一枚の葉となって頭の中を浮遊する。

 世界が切り替わるのを感じた。解らなかった唄の意味が、自ずと心の中に降ってくる。


『 空から 風の衣まとい 里へ降りて 遊ぶ 

  美し神 今宵 人となり 吾とともに 眠る 

  夢隠り 君の名問えば 紡ぎし糸 結ぶ ……』

 ……



 虚空を仰ぐその人は、うたうのを止め、羽擦れの気配に振り返った。翡翠色の眼で――深鳥は声を上げるのも忘れ、目の前の少女の顔に見入ってしまう。


 額の中心と目の下に施された朱の模様が白い肌に映える。うつぶし色の後れ毛が、浮き出る鎖骨と華奢な肩をまばらに隠している。

 光を得て緑味を帯びた眼が、同じようにきょとんとこちらを見ている。


 恐る恐る近づく手が、合わせ鏡のように重なる。


 ――あなたは………………私?




 *



 別室にいた聡は、突如涌いた風の音に反応し、顔を上げた。

 一瞬のうちに風が四方へ広がり、紫野は弾かれて後方に飛ばされる。

「……………っ……」

紫野は起き上がりかけ、お腹に手をやる。目を見開く。深鳥の背に羽根が咲いていたのだ。

「あれは……、…………」


 風が無数の糸になっていくのが見えた。深鳥の指先から四肢にみるみる絡みつき、やがて球体状に深鳥の周りを包んでいく。


 タンポポの綿毛にも似た、糸で編まれた球体。それは、まだ幼い深鳥が七つまでいた場所だった。羽化を待つ(さなぎ)の……そう、まるで繭のような。


 ドクン、と鼓動が強く打つ。紫野は固唾を飲んだ。障子がカタカタとなり続けている。

 無尽蔵に放出される風の、その始点にいる存在。

 自失状態の深鳥を後ろから捕らえる、透けた腕の刺青。深鳥の頬にかかる白銀の髪の隙間から青い眼差しが愛おしそうに深鳥を見ている。

 自分が最も畏れた、それが誰なのかを――紫野は知っている。


『もしも風神に会ったら、見てはなんね、触れたらだめだ』

 語り部の言葉が耳に響く。紫野は懸命に向かい風に手を延ばした。

『命を取られっぞ』


 ――神よ、その子を連れて行かないで………!





 快晴は力を込めて、一気に障子を開いた。

 室内の空気が風圧となって押し出される。よろけるも、なんとか部屋に踏み入ると、紫野の横を突き進み、繭の中に手を入れ、深鳥を引き戻そうとした。その時ーーその手首を突然掴まれた。人の手とは思えないほどの冷たい手で。


 細くうなるようだった風の音が聴こえなくなる。快晴は見た。引き寄せられるように風神の顔をーー見てしまった。合わせ鏡のように、自分を見据える美しい眼を。自分とそっくりなその風貌をーー






「深鳥さん、しっかり!」

 紫野の声に快晴は急に現実に引き戻される。紫野が深鳥の頬をパチパチ叩いているのを呆然と眺めていた。そして、頭の中が霧がかるように、直前の出来事を思い出せなくなっていた。

「水をくれ!」

 鬼気迫る声に、快晴はハッとして手元の桶を紫野に渡した。紫野は桶を受け取ると、ためらいなく深鳥の顔に向かってかけた。深鳥が眉間を歪め、咳き込み始める。


 腕の中の深鳥を、紫野はぎゅっと抱いた。

「紫野……何があった?」

 立ち竦む快晴の肩に手をかけ、那由他が顔を出す。その向こうに聡もいる。声低く紫野は呟いた。

「この子の心が、さらわれてしまう……」



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