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風が廻る場所  作者: 飛水一楽
〈虚空の章〉
83/116

糸紡ぎ

 *


 素木(しらき)の床の上に、幾何学模様に編まれた布が敷かれた。その上には(つや)やかに磨かれた木の糸車。それから、水の半分入った木桶。縁に掛けられた手ぬぐいは体を冷やすためのものだ。

 紫野いわく「風が宿ると体が熱く、苦しむかもしれない」とのこと。


 紫野と深鳥は準備を終えると、袖や裾に刺繍の入った簡素な麻の衣に着替え、風紡ぎの儀に臨む。

 傾きかけた陽射しが満ちる静寂の中、二人は部屋の入り口に向かって膝を立て、組んだ両手を胸の前に突き出す。――これが千久楽に伝わる、祈りの形である。


 二人は祈りを解くと向かい合って座った。

「あなたがこれから習うのは(つむ)ぎ唄。古語は……もう手ほどきを?」

紫野の質問に深鳥はおずおずと頷く。

「快晴に何度も教えてもらって……やっと」

 ふと見た傍らの糸車に、いつかの練習風景が蘇る。





 唄を口ずさむ快晴と、一人分空けてじっと耳を傾けている自分がいる。快晴に倣って音を再現する。出来るまで繰り返し――終わらない伝言ゲーム。

 二人とも止めるきっかけを失っていた。互いの声が寄り添う恍惚の中で。

『カラカラカラ………』

もしあの時、風で糸車が回らなかったなら――





「深鳥さん?」

 紫野の声に深鳥は慌てて振り返る。その頬がほんのり紅い。さぞ快晴に怒られたのだろうと思い、紫野は励ますように深鳥の肩をぽんぽんと叩いた。

「何度も聴いて、口ずさんで覚えるのが口承というもの。最初はみんな辟易する」


「ひとまずやってみましょう」と紫野は深呼吸し、唄を口ずさみ始めた。一通り聴いた後に深鳥も復唱するものの、たどたどしい。


 唄を何周か繰り返した時、思いついたように紫野はうたうのを止めた。

「拍子を取ると覚えやすいかも」

 紫野は手拍子を始め、最初から唄い始める。そこへ深鳥も加わり、輪唱状態となる。


「×××× (手拍子) ×× (手拍子) ××× ××××………」


「××× (手拍子) ××××× (手拍子) ×××………」

 

 ……




 古語の響きは謎めいて、言葉というより音楽のようだ。

 例えばそれは、森の中に棲む生き物のうごめき。木々のさざめきや水の滴り。自然界にあまねく音を人が模したような。


 今まで静穏状態だったのが、辺りに空気の流れを感じる。風が次第に寄り集まってくるのが分かる。紫野は希望を込めて深鳥を見つめた。


 ――やはり、彼女には素質がある。


 頬を掠める感触に深鳥ははっと我に返る。風が吸い込まれるように渦を巻いて、懐にまとまっていく。そう思えば、雲のようにふわふわ浮いて、時折ちらちらと光を反射する。深鳥は呆然とその様を眺めている。


 ――きれい……


「これが風……」

 深鳥の呟きに紫野が口を開く。

「あなたは唄を通してあらゆる名を知った。不思議なことだけれど、人は名を知ることでその存在を感じたり、見えるようになる」


 語り部たちは言う。古の言葉には一語一語に意味があり、そのいくつかに神々が隠れている。その名を明らかにし、奏でる唄には呪力が宿る。珠を連ねた首飾りのように。


「それだけうたえれば大丈夫」

 紫野が笑うと、ホッとしたのか深鳥も笑顔になる。

「次はこれを紡いで糸にしましょう」


 風の綿を深鳥から受け取ると、紫野は慣れた手つきで綿の一部を指先でつまみ、少しずつ引き出していく。繊維が連なり、辛うじて糸状になっているのを、30cm程になったところで紫野は引き出すのを止め、その糸を捻って止めた。


「紡ぎ唄を」

 紫野に言われ、深鳥はうたい始める。紫野は紡ぎかけの糸を(つむ)に繋げて、左手で綿を持つと、右手で糸車を回す。すると、カラクリみたいに錘も同時に回り、引き出した糸に()りがかかる。

 綿から糸を引き出して、依りをかけて錘に巻き取る、を繰り返す。その一連の動作がスムーズで、深鳥は興味津々に紫野の手元を見ている。自分もやってみたいという気持ちがむくむくと動き出す。


「深鳥さん、このまま引き継いで」

「はい!」

 深鳥の手にすばやく錘が手渡される。紫野に背後から補助されながら、深鳥は見よう見まねで糸車を回し始めた。


  …カラカラ……カラカラ……


 規則正しく刻まれるリズムが、ゆりかごのように心地いい。そこへ紫野の声が重なる。深鳥も合わせて声を乗せる。ふわりふわりと浮いては沈む、儚く美しい調べ。

 ずっときいていたくなる。ずっとうたいたくなる。懐かしい子守唄のように。


 ――ううん。


 深鳥は眼を閉じ、耳を澄ませる。

 その唄はもっと、遠くから響いていた。遠い遠い、時の向こうから――


 ――眠く…なってくる……





「深鳥さん?」

 紫野が異変に気付き、肩に手をかけるが、深鳥は目を閉じたままうたいつづけている。唄に取り憑かれたとでもいうのか。

 紫野は深鳥の襟足に指をそっとかけ、覗き込む。


 ――少しの痣も出ない。体に風を宿しているはずなのに。


  カラカラカラカラ……


 深鳥の手は次第にハンドルから離れ、糸車がひとりでに逆回転を始める。錘もどんどん膨らんでいく。

「深鳥さん!」

 遠ざかる意識の向こうで、紫野の呼ぶ声がかすかに聴こえた気がした。

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