神さまの庭
「快晴……」
口からこぼれた言葉を頭の中で反芻する。どうして、快晴のことを忘れてしまっていたのだろう。
もう何もかも思い出せる。夢の中で鳥のように飛んでいた深鳥は、光る大木の元に降り立ち、快晴と出逢った。
タンポポの唄を一緒に聴き、星の話をした。深鳥が住んでいた都市の話も。そして……この草原が、失われた場所であることも。
「夢じゃ……ない?」
深鳥は恐る恐る快晴の頰に触れた。その確かな感触に目を丸くし、快晴を見つめている。
光に透けるうつぶし色の髪が快晴の頬をくすぐった。森の深くを見るような暗緑色の眼差し。白い肌がほんのり桜色に染まっている。
快晴もしばらく深鳥を見つめたものの、やがて目を逸らした。
「今日は羽根、ないんだな」
深鳥はハッとして、急いで体をどけた。
「ごめんなさい! 痛かったよね?」
手で道着をはたきながら、快晴はため息混じりに起き上がる。
「よりにもよって〈ゆらぎ〉の前で大声出そうとするから……」
快晴の指差した方向を見て、深鳥は息を飲んだ。
虹色の淡い光を放ちながら、景色の一部がぐにゃりと歪み、炎のように揺れている。知らずしてあそこを通り抜けたのだ。
「あれが……ゆらぎ?」
深鳥の視線を受けて、快晴は答える。
「時空の〈ゆらぎ〉……ほころび、って言ったら分かるか?」
深鳥はこくこく頷く。ゆらぎの中に時折、異なる景色が見え隠れする。それは深鳥がさっきまでいた入らずの森のようだ。
「ところで……どうしてお前、千久楽にいるんだ?」
快晴の指摘に深鳥はきょとんとする。
「たしか前、都市にいるって……」
深鳥ははっとして手を叩く。
「そうだ私、引っ越してきたの。この春休み中に」
「引っ越し……?」
快晴は眉をひそめる。
「神社の近くに私のお祖母ちゃん家があって……そこでお世話になってるんだ」
快晴はああ、と思い出したように顔を上げた。
「時村さんのところか。そういえば宮司、そんなこと言ってたな……」
頭を掻きながら快晴は歩き出そうとして、振り返る。
「そろそろ平気か……あれをくぐれば帰れるから」
快晴はゆらぎを指差して、その場を離れようとした。
「あ、待って」
深鳥は快晴の道着の端を掴んだ。
「これは夢……じゃないんだよね?」
深鳥は混乱しながら問いかける。快晴はそっけなく答える。
「……さぁな。ここはおとぎ話に出てくるくらいだから……夢か幻かもな」
深鳥はじっと快晴を見る。快晴は頷き、再びゆらぎを指し示す。が――
おとぎ話? と深鳥が首をかしげた。
「……」
快晴は固く目を閉じる。予想通り、質疑応答のループである。
深鳥は食い入るように快晴を見つめる。このまま戻りたくはない、と深鳥は思った。目の前の少年に尋ねたいことが山ほどあったからだ。
返事の代わりに快晴は溜息をつく。
「昔から森で人が消えると〈神隠しに遭った〉って言われる。……森は神の住処、らしいから。……で、無事戻ってきた人の証言では、森に見知らぬ草原があったとか、そこから美しい歌声が聞こえたとか」
快晴がすっと下に目を向ける。足元からくすくすと笑い声。幼な子のようで、紛れもなくタンポポの声である。
「その話、思い出した!」
深鳥の顔がぱっと明るくなる。
「その不思議な場所をその昔、誰かが〈神の庭〉と言いだした…………おわり」
快晴は目を閉じ、腕を組む。もう何も聞いてくれるな、ということらしい。
「そっか……ここは、神さまの庭だったんだね」
快晴の答えに満足し、深鳥は嬉しそうに微笑う。
すると、耳に鈴振るようなささやきが聴こえ、深鳥は足元のタンポポにそっと耳を近づけてみた。
「分かったならとっとと――」
快晴がうっすら目を開くと、しゃがみ込んだ深鳥がじーーーっと見上げていた。
「また来ても、いい、かな?」
快晴は不機嫌そうな声で拒む。
「だめだ」
「でも、タンポポが遊ぼうって」
「いいから戻れ。ここはお前の来る所じゃない」
有無を言わさない物言いで深鳥を黙らせ、快晴は背を向け歩き出した。
夜空を梳いたような快晴の髪を、風がさらさらとかき鳴らしていく。
『ここは失われた場所なんだ。存在すらしてないのかもしれない』
かつての夢の中で快晴はそう深鳥に告げた。しかし、足をくすぐる草も、吹き寄せる風も、降り注ぐ光も……確かに今、この体に感じている。
依然座り込んだままの深鳥に、快晴は仕方なく戻った。
「ここは……あるかどうかも分からない。長く留まると帰れなくなるかもしれない」
深鳥の前に立つと、快晴は膝を抱くようにして屈み、深鳥を覗き込むように見つめる。
「それとも……ここに閉じ込められたい?」
優しい声音が耳に忍び込む。反対に快晴の眼は鋭く、でもどこか寂しげで……深鳥はどっちを選べばいいのか分からなくなってしまう。
「……なんて」
快晴はおもむろに立ち上がり、深鳥の顔の前に手を差し出す。少しのためらいの後、深鳥がその手を取ろうとすると、快晴が先に深鳥の細い手首を掴み、軽々と深鳥を掬い上げた。
快晴のすぐ後をついて深鳥がゆらぎを通り抜ける。風圧がすごく、息もままならない。が、その間わずか3秒。
追い風に押されるように元の場所――入らずの森に二人は弾き出された。
深鳥はふぅ、と息をついた。快晴は「じゃあな」とそっけなく言って、踵を返す。ゆらぎにかき消されていく背中に深鳥はありったけの声で呼びかけた。吹き付ける風の音に負けないように。
「あるよ……!」
今までより一番大きな声だった。思わず快晴は振り返り、そして目を疑う。深鳥がゆらぎに踏み入ってきたからだ。
ひどい向かい風の中、深鳥は手を伸ばし、やっとのことで快晴の袖を掴んだ。風の抵抗をなんとか逃れ、再び庭へ抜けた。
「……何やってんだ、お前」
三つ編みが、風に揉みくしゃにされてしまっている。深鳥は掴んだ袖をしっかりと握りしめた。
「確かにあるの。今、ここに。あなたも夢じゃない。だって……」
深鳥はそっと快晴の手を取り、自分の頬に当てがった。
「こんなに冷たい……」
快晴は目を見開いたまま動きを止めた。
触れる頬の温かさ、柔らかさ、滑らかさ――あらゆる感触が瞬時に、手のひらから全身へと流れていく。そして、胸の辺りで生じた、わずかな淀みと――。
得た温もりをさらうように、快晴は手を抜いた。
「……勝手に、しろ」
ぱぁっと深鳥の顔が輝いた。
「ただし。前も言った通り、この場所のことは誰にも言うな。それと……絶対見つかるな。危うく聡に知られるところだった」
「あいつ……?」
「神社の息子。えらく耳がいい」
快晴は置いてあったバッグから小さなメモとペンを取り出し、さらさらと書き出した。
「森には人除けの鈴が張り巡らされてる。つまり、人が通りやすい場所ほど、多くの糸が引かれて足を掛けやすくなる」
「どうしてそんなものを?」
深鳥の質問に快晴の目が据わる。
「入るなと言われる場所に人は入りたくなるから」
深鳥は身をすくませ、急いで図に目を向ける。
快晴の持つペン先がうっすらと線を描き、大きな矢印が現れる。
「ここに来るルートは森の入り口からほぼ最短、けもの道だ。糸が引かれてない代わりに足場は良くない。……いいか? 絶対怪我はするな。木の根は苔が付いてて滑りやすいから乗らずに越える。枯れ枝とかツタが足に引っ掛かるから足元をよく見て歩く。でも枝が目に刺さらないよう目の前にも注意して――」
視線を感じ顔を上げると、深鳥がこっちを見てにこにこしている。快晴は眉をひそめる。
「……何?」
「ううん、快晴は物知りだし……優しいね」
無言のまま快晴はうつむき、破ったメモを深鳥の前に突き出す。
「二度と書かないから」
そう言って深鳥の方は一切見ずに、バッグを手に快晴は歩いて行ってしまった。
遠野のお伽話にあるマヨヒガ(迷い家)と共に出てくる「桐の林」が「庭」のモデルです。