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風が廻る場所  作者: 飛水一楽
〈虚空の章〉
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時差

 今度逢う時はもう、前の二人ではいられないと、分かっていた。

  

  ……熱い。


 快晴は沈み込む深鳥の頭と自分の胸の間に手を差し入れる。熱が高いのは明らかだった。

「深鳥? しっかりしろ!」

 深鳥は目を瞑ったまま、短く息を吐き出している。生来白い頬がその分鮮やかに紅潮している。深鳥が脱水症状起こしてるのに気づき、快晴は手に抱いたままだったその体をそっと草の上に寝かせた。腰にぶら下げていた水筒を揺するが、やはり空だった。快晴は近くの水場を探そうと、きょろきょろと首を廻らす。


 〈庭〉と呼ばれるこの草原はカルスト地形。至る所にクレーターのような凹みがあり、そのうちの幾つかは底から水が涌く美しい小池となっている。水の透明度や光の干渉、石灰岩の影響で、見た目には翡翠色の水を湛えているようだ。普通の湧き水と違いカルシウムも豊富で、快晴の今回の放浪の生命線と言ってもいい。

 快晴は目を凝らす。視線の先の先、キラリと揺れる光を見つけた。おそらく水面の光だろう。こういう時は目が良いのが幸いする。


「水取ってくる」と深鳥の耳元に囁き、立ち上がろうとした時。深鳥がうっすら目を開けて快晴にしがみついた。

「行かないで……」

 快晴はハッとし、深鳥を見つめる。

「熱がある。横に――」

「快晴がいなくちゃ、私……」

 縋りつく快晴の腕の中で、深鳥は再びぐったりとする。頬を軽く叩くが反応がない。

「……くそっ!」

 快晴は再び深鳥を横たえると、一気に水場に駆けてゆく。水筒を池にくぐらせ元の場所に戻った時には、背中が痛くなるほど息が切れていた。

 呼吸も鎮まらないうちに、快晴は深鳥の体を片手で抱えるように起こして、水を少しずつ飲ませる。こくんと喉が動くのを見て安心し、休み休み水を飲ませ続けた。時折咽せてしまうと、深鳥の体を抱き取り、背中をとん、とん、とさする。

 やがてスゥ……と耳元で寝息が聴こえ、快晴はそのままの体勢で深鳥の首の脈を取った。脈が安定しだ始めたのを知り、快晴は一息をつく。体から力が一気に抜けた。

「……っしょ」

 深鳥の体を背中に寄っかからせ、快晴は少し腰を浮かせ背負い直す。強風にややふらつきながらも、ゆらぎを通り抜けていった。






 ゆらぎを出ると外は薄暗く、朝なのか夕方なのか分からなかった。ゆらぎを抜けても続く強風、そして見覚えのある根元から二股に分かれたブナの木。


  ここは……境の森?


 行きは入らずの森から入ったはずなのに、帰りはどういうわけか天文台の近くに出たらしい。木々の頭の向こうに天文台の丸い屋根が見える。

 深鳥を背にしばらく歩いて少し開けた場所に出ると、そこには蔦に覆われたレンガ造りの建物――天文台があった。

 久しぶりの我が家を見上げる。石段を二三段上がり、見るも頑丈な(オーク)の扉に体を預け、鍵をズボンのポケットから取り出し、解錠する。金属のドアノブに手をかけたところで快晴は思わず手のひらを見た。ノブには埃が積もっており、錆びているのか手は赤黒く汚れた。快晴は首をかしげながらも、錆びた固いノブを回し、足で扉を外側に押しやった。


 中に入ると幅の広い階段を折り返し、二階の自分の部屋へ向かう。

  カチャリ。

 やや立て付けの悪い木製のドアを開けると、東向きの縦長の窓からは、弱い日の光が窓辺のベッドの上に格子状に降り注いでいる。

「年中干しっ放しだな…」

 とりあえず深鳥をソファーに預け、ベッドに被さっていたシーツを外そうとすると、途端に埃が舞った。光の中でより見えやすいというのもあるが、快晴は眉をしかめた。今度は埃を押さえ込む様にたたみ、クローゼットから新しいシーツを取り出して広げる。深鳥を再び抱え、ベッドの上に横たえる。光にうつぶし色の髪が透け鮮やかに見える。深鳥の眠りを妨げないよう快晴はカーテンを引いた。


 薄明かりに満ちた部屋の中で、快晴は取り憑かれる様にしばらく深鳥を見つめていたが、室内がだんだん暗くなっていくのを感じ、時刻が夕暮れ時だと知った。

 快晴は読書用のランプを付ける。傷だらけの白い足に目を止めると、しゃがみ込み手にとる。傷を洗い消毒しなければならない。

 たらいと薬箱を取りに部屋を出ようとした時。深鳥が咳き込みながら胸元に手をやったのを見て、快晴は少し躊躇したが、深鳥の胸元に結ばれているワンピースの紐を解き、全体を緩めた。

 楽になったのか、深鳥は静かな寝息を立て始めている。

その口元に快晴は耳を近づけ、呼吸を確かめた。それから胸元のギャザーを少しだけずらし、深鳥の胸元に耳を当てた。鼓動も落ち着いている。

 離れようとして快晴は、頬に当たる仄かな胸の膨らみに気付いた。快晴は動きを止め、息を飲み下し……やがて観念したように顔を再び深鳥の胸に埋めた。


『ずっと逢いたかった…』

 深鳥の必死な表情が脳裏をよぎる。快晴は安らぎの中でそっとつぶやく。

「…………俺も」

 逢いたくて、気が狂いそうだった。忘れることなんてできない。互いの温もりを、想いを、こんなにも知ってしまったのだから。

 快晴は深鳥の額に、自分の額をくっつけて目を閉じる。接する肌を通して冷えた体に熱が流れ込んでくる。鼓動が高鳴っていく。唇が唇に触れようとしたその時——


 ジリリン!と黒電話の音。快晴は飛び起き、深鳥から離れると、足早に階段を降りて行く。

 電話など滅多にかかってこないというのに。祭のことで時々宮司からかかってくるくらいだ。やたらと鳴らされては深鳥が目を覚ましてしまう――快晴は音を遮るように受話器を取り上げる。

「もしもし?」

「くっくっく………」

  ティン。

 快晴は即座に受話器を置いた。間違いか、嫌がらせか、新手のセールスか。

 ジリリン! と再び鳴る電話。ムカッとした快晴が受話器に向かってもの申そうと口を開きかけた時。

「さっそく切んじゃねえ!」

 突然の大声に受話器をつい耳から離す。

「なんだ……那由他(あんた)か」

 電話の主が判明し、快晴はそっけなく呟いた。電話の向こうで舌打ちが聴こえる。

「お前なぁ……人がどれだけ心配したと思ってんだよ。一年も姿消しやがって」

「一年?」

 快晴は耳を疑う。庭に滞在したのはせいぜい一ヶ月ほどだ。しかし先ほどの家の汚れ具合といいーー

「…………あ」

 そしてすぐに重大なことに思い当たった。庭と現実世界の時差である。庭は過去の時空であり、時間がゆっくり流れるらしい。危うく浦島太郎になるところだった。


「……おい、大丈夫か? その歳でボケちまったか?」

 にひひと那由他の笑い声。

「予感的中だ。そろそろ帰ってるんじゃないかと思ってな。……お前だけじゃなく、深鳥ちゃんも」

 快晴は少し疲れたように「ああ」とこぼす。

「厄介な能力」

「ぁんだと?役に立つと言え。……まぁいい、今何してる?」

「深鳥を見つけた。命に別状ないけど脱水症状起こしてる。処置はした。しばらく安静にしてないと」

「……今は動かせないか。深鳥ちゃん目ぇ覚ましたらすぐ電話寄越せ。車で迎えに行ってやる。まず深鳥ちゃんを親元に返さないとな。俺から宮司と深鳥ちゃん家には話しとくから、それまでお前が責任持って看病しろ」

「分かってる」

「あと、くれぐれも変なことすんじゃねーぞ」

 快晴は微かに息を詰めた。電話の向こうで変に笑う那由他の声が聴こえる。

「…………しねーよ!」

 がしゃんと電話を切る音。「おっと」と那由他は受話器を見る。

「なんだ、図星か」


 不覚にも、那由他の声を聞いたことで現実に帰ってきたという実感が涌いた。快晴はすぐ側のソファーに腰掛けようとして、外し、そのままずるずると床にしゃがみ込む。両腕に顔を埋める。

 疲れが吹き出し、じわりと汗をかく。快晴はおもむろに自分の腕の匂いをかぐ。水浴びは一応毎日していたが、この一ヶ月湯船に浸かっていない。肌が黒ずんでいるのは日焼けのせいだろうが、土埃の汚れがきちんと落ちていないもあるだろう。快晴は重い頭を上げ、天井を見上げる。物音はしない。深鳥はまだしばらく目を覚まさないだろう。


  ……風呂、入るか。


 まずは、自分の体をどうにかしなくてはならなさそうだ。……それと部屋の掃除も。

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