からっぽ
渡り廊下の途中、ほんの一瞬だったが見覚えのある後ろ姿が聡の目に止まった。聡は廊下を外れ、上履きのまま外に出る。靴裏を汚さないよう、あえて草地を踏みながら。
プールの裏の手すりに前屈みでもたれ込み、ぼうっとしている然青を見つける。
「然青姉」
「聡くん……」
プールの向こうの体育館からはかすかに唄が聴こえてくる。
「3年は卒業式の予行じゃ……」
「ふけちゃった」
いつも凛としている印象が抜けて、やや投げやり気味の然青。その落差が新鮮だった。
聡も然青の隣にもたれ、横から笑いかける。
「らしくないね」
「そう?」
「でも、たまにはいいと思うよ?」
ありがと、とぼそりと言って然青は体育館の方を見た。
「入学式の時……」
そう区切った然青の横顔を、聡は黙って見つめた。
「新入生の挨拶で、緊張しながら壇上を見渡したら、向こうの方で揺れてる人がいて……よく見たら幾生君なの。入学式で立ったまま居眠り。信じられないでしょ?」
くす、と然青は肩をすくめて笑う。
「揃って卒業できないなんて、あの時は思いもしなかったな」
聡は手すりを押して「よっ」と体を起こした。
「前から気になってたけど……然青姉は、あの人のどんなとこが好きなんですか?」
少しの間の後、然青は口を開いた。
「……こびない所。誰にも心開かないとこ。そういうハラハラするくらい真っ直ぐで、不器用な所が」
でも、と言って然青は自分の腕に顔を埋めた。
「時村さんは違ってた。幾生君が打ち解けてくの見て……悔しかったよ 」
「そっか……」
ふっと息をつき、聡が自分の足元に視線を落とした時。
「聡くんは、どう思ってる?」
「……え?」
「時村さんのこと。仲いいなって思ってたの」
然青の真っ直ぐな眼に、聡は困ったように頬をかいた。
「まいったな……」
「今がチャンスかも、ね」
聡はおもむろに手すりに腰を下ろした。
「正直、どうしたらいいのか。元気に見えてどこか前の深鳥さんじゃないような……そんな気がして」
然青は首をかしげた。
「そう?」
「何て言えばいいか……心ここにあらず、っていうか……」
然青はふぅん、と相づちを打つ。
「ぽーっとしてるのは相変わらずって気もするけど」
「もしかして……」
言いかけて、聡は口をつぐんだ。
――深鳥さんの心は、快晴が持っていってしまった?
黙り込んだままの聡を然青はちらっと見る。
「何か、引っかかることがあるんだ。きっと聡くんにしか分からない……そんな、簡単じゃないよね」
然青は空を見上げる。
「どうしてこうなっちゃったんだろ。幾生くんはいない。時村さんは幾生君のことを覚えてない。周りのみんなだって……卒業すればすぐ忘れちゃう」
高校進学を機に生徒の半分は千久楽を出て行く。帰って来る人もいるけれど、都市の生活が快適すぎてそのまま帰らない人も多い。
「千久楽も昔に比べてだいぶ人口減ったんだって。祭くらいしか楽しみがない故郷だもの。その舞手も今は不在……」
然青は寂しそうにつぶやいた。
「私は忘れたくない。このままじゃ幾生君がいなかったことになっちゃうから」
「然青姉……」
快晴の消息は依然つかめないまま、皆の記憶から忘れ去られようとしている。
しかし、それは快晴自身が望んだことだったのだ。
「記憶を夢に?」
聡は怪訝そうに前に座る父を見つめる。宮司は重たい口を開いた。
「守人は記憶を眠らせる力を持つ。記憶は夢になり、夢は忘れ去られる。そうして深鳥さんは快晴のことを……」
「幾生さんにそんな力が……」
聡は手を口にやり考え込む。
「それで、深鳥さんが思い出すことは……?」
宮司は首を振るう。
「……分からない」
――忘れたなら、忘れたままでいいじゃないか。
そう思ってしまう自分はずるいのかもしれない、と聡は思う。
その報いなのか、快晴に投げつけた言葉が、今も繰り返し、聡の頭に浮かんでは消える。
『あなたのせいです! 深鳥さんがこんなに傷ついたのは!』
あの時、快晴は打ちのめされたような顔をしていた。
ずっと冷たい人だと思ってた。快晴の考えや行動が、聡にはいつも理解できなかった。
けれど、地下洞から脱出する時、気を失っていた深鳥を抱きしめた快晴はとても必死で、感情的で、弱々しくて……快晴にとって深鳥が必要不可欠だということが、嫌になるくらい解ってしまった。
そんな風に自分を見失ってしまうくらい、深鳥を大切に想ってたはずなのに。
――どうして、あの人は深鳥さんを置いていった?
本当はその答えに聡はとうに気づいていて、だからこそ深鳥に対して躊躇しているのかも……しれない。
「深鳥さーん」
聡が廊下の窓から手を振っている。
「聡君?!」
深鳥は思わず席を立った。
「本借りに来ました。高等部の図書室の方が揃ってるんで」
聡はバイバイの代わりに本を振った。その場にいた皆が一斉に深鳥を見る。
「彼?!」
「年下君かぁ。いいな深鳥ちゃん~」
クラスメイトがわいわい茶化すのを、蒔は複雑な心持ちで見ている。
刻まれていく新しいリズム。戸惑いの時期は過ぎ、平穏で……幸せな日々だ、と聡は廊下を歩きながら思う。一年前のレイヴンの一件以来、余計そう感じるのかもしれない。
ただ一つ、快晴の行方が心に引っかかり続ける。快晴の失踪からも一年。深鳥は高校生に、自分は中学二年に進級した。
快晴はそのうち帰ってくるのだろうか? そもそも、生きているのか死んでいるのかも分からない。
聡は首を振るう。確かにいたのに、その実感さえ日に日に失われていく。覚えた怒りや嫉妬、強い感情さえも。……なんだろう、この重苦しい気持ちは。
世界はいつだって元に戻ろうとする。空いた穴は塞がれる。次々人はいなくなり、次々生まれてくる。壊された家はもう……思い出せない。
聡は時々思ってしまう。幾生快晴なんて人間は、本当はいなかったんじゃないのか。
ただ夢を見てただけじゃないのか? と。
こないだの雪がまだうずたかく道端に残っている。
「深鳥さんが千久楽に来て、もうすぐ二年ですね」
御用達のパン屋でお昼を調達してから、聡は自転車にまたがり、深鳥を後ろに乗せて、滑らかに坂を下って行く。月に数回、恒例になった千久楽の散歩。森の向こうに丸い屋根が顔を出しているのを深鳥は目に留め、聡に尋ねた。
「あれは?」
雪下ろしをする人がいないのか、まだ所々雪を被っている。
「ああ、天文台ですね。あそこはもう使われてないんです。森の中にあるし、遠いし、わざわざ行く人もいないですよ」
このまま行っても境の森に入ってしまう。天文台に向かって小径が延びてはいるが、人通りが無いため、一面雪がきれいに残ったままだった。
引き返しますね、そう言って聡がハンドルを切ろうとしたので、深鳥は一度降りて、再び乗り込もうとして後ろを振り返った。
「……なんだか、寂しそう」
天文台はがらんと抜け殻のように、主の帰りを待ち続けているように思えた。
――また、だ。
深鳥は急に足を止める。
「深鳥さん?」
「何か大切なことを忘れてる気がするの。おかしいよね、こんなの」
『深鳥、疲れてるんだよ~』
心配そうに、ぽんぽん、と肩を叩いてくれる蒔。
『あなたまで忘れちゃうの?』
怒りと悲しみに満ちた然青の眼。
深鳥が思い詰めていた時。こつん、と音がした。
「あ…」
深鳥の足元に転がる形代を聡が拾う。
「組紐、そろそろ替えた方が良さそうですね。ほら、前にも結んだ跡がある」
聡は笑いながら結び直すと、深鳥の首に掛けようとした。
「聡君、前にも同じこと……あったよね?」
「え……?」
聡の手が止まる。
「これね、もらったのに……ちっとも思い出せなくて」
「それは……」
聡は言葉に詰まる。深鳥はすがるように聡の両腕を掴んだ。
「聡君、何か隠してる? 何か知ってるの?」
沈黙がしばらく続いた。さわさわと髪を揺らす風。
冷たい。そう思い聡がふと視線を移すと、深鳥の目から涙が次々と溢れ出ていた。聡の驚く表情に、深鳥ははっとして顔を覆う。乾いた風が触れ、濡れた部分がひやりとする。
『泣くな……』
誰かが、冷たい指先で涙を拭うかのような、錯覚。一瞬、夢のきれはしが目の前をよぎった。
「不安なの」
夢を見る。いつも同じ夢。きっと、とても大切なことだった。
「誰かいたの。側に誰かが……分からない……いつも自分の中のどこか、からっぽで……思い出せないの」
聡は深鳥をなだめるように抱き寄せる。
「大丈夫」
ぽんぽん、と深鳥の背中を優しく叩く。深鳥は顔を上げる。
「何かきっと、夢を見てたんです。長い夢、だったのかもしれない」
「長い……夢?」
「それで、何となく不安なんです。目が覚めても夢の感じがまだ尾をひいていて。でも……」
声がかすかに震えた。
「だからこそ、忘れて良かったんです。思い出さなくていいんですよ。僕が……ずっと側にいますから」
気がつくと、辺りには雪が舞い始めていた。
「これじゃ濡れちゃうな……傘取ってきます。途中まで送りますよ」
聡の提案に、深鳥は胸の前で両手を振った。
「近いから大丈夫だよ」
聡ははにかむように笑う。
「迷惑でなかったら、もう少し一緒にいたいんです」
そう言われ、深鳥の頬がほんのり紅くなった。
「軒下にいて下さいねー!」
遠ざかる聡の背を見送った後。深鳥は息をつき、辺りを見渡す。息が白くなる。見上げた深鳥の頬に何かが触れた。
――雪。
辺りを白く染めていく。綿花のようなひとひら。凍てついた土や枯草を閉じ込めていく。全てを隠し、しんしんと静寂が満ちてくる。
深鳥は上を見たまま、ただ立ち尽くしている。何かが、再び心をよぎった。
雪の欠片が唇を掠める。冷たさにじんとする。かじかんだ反動で仄かな熱が唇に宿ってゆく。
深鳥はそっと指を唇に当てる。感覚が、鮮やかに蘇っていく。
『……深鳥………………みど…り………』
自分を呼ぶ声がする。何度も、何度も……重なる唇は甘く、こぼれる吐息は白く、雪がかった前髪の向こう、まどろむ空は、深鳥の心をいつもそっと、溶かしていく。
涙がぽたぽたとこぼれ落ち、地面を濡らした。
「深鳥さーん、風邪ひいちゃいますよ」
聡が傘を片手に駆け寄ってくる。
「深鳥さ……」
そう言いかけて聡は出しかけた手をを引っ込めた。息を飲む。深鳥の背に淡く光る羽根が揺らいでいた。
かいせい、そう彼女の唇は動いた。
見てはいけないものを見たと聡は思った。あの時、深鳥の背に羽根を見た時も……
きっとあの時、深鳥はソアラに嫉妬していたのだ。
自分でも気づかないくらい快晴のことを思い詰めた――だから……
聡は唇をかんだ。口の中がほろ苦い。
――まるで羽衣物語じゃないか。
男に隠された羽衣を見つけた天女は、その羽衣をまとうと、男の手をすり抜けはばたいていく。白い鳥のように。
あの空を、思い出したのだ。




