入らずの森で
「足下気をつけて下さいね」
ところどころ根が張り出し、膝くらいまで高いものもあるので、深鳥と聡は協力しながら乗り越えていくと、やっとなだらかな場所に来た。そこからまた更に奥へ進む。
明るい森の中を二人は色々なことを話しながら歩いた。会ったばかりなのに気が合うのかすぐ打ち解けた。
「聡君も四月から同じ中学校なんだね。良かった……たくさん人のいる所って慣れなくて心配だったんだけど……心強いな」
ふわりと笑う深鳥。そのくったくなさに聡も笑い返した。
「僕も。三年生にお姉さんがいるみたいで嬉しいな。たまに顔出しますから」
「うん!」
風が吹き、耳に細波のような音が広がる。二人は合わせた顔を上に向けた。
土の上で光が揺れる。頭上を覆う緑のドーム。敷き詰められた葉の隙間から光が溢れている。その中を縫うように無数に分かれる枝は四方八方から手繰られて束になり、やがて一つに集約される。
そこには大人が何人も手を繋がないと囲みきれないくらい、あまりに太くていびつな幹のブナが鎮座していた。
その体に合わせ、注連縄もさらに大きい。根のほとんどはその巨大な体を支え、たくさんの水を貯えるために地中深くに降ろされているのだろう。地上にあるものは這ったり波打ったりして自然の要塞を構えている。
――なんて大きなブナ……
深鳥は首を反れるだけ反って森の主をじっくり見渡した。見ても見ても飽きない。しまいにはよろけてしまい、聡が慌てて深鳥を支えた。そしてまたお互い笑った。
「これが神社の御神木のブナの木。世界最古級だったりします」
へぇ……と感嘆の声を漏らす深鳥。そんなにも古い木の前にこうして立っているなんて。なんだかとても不思議な気分だ。この三、四歩の距離の間に、どれほど膨大な時間が隠されているのだろうか。考えてみようとしただけでくらくらする。
「深鳥さん、こっち」
聡は深鳥の手を引っ張り、さらに先に連れていくと、そこは森の終わりで、代わりに千久楽全体が見渡せる展望のいい高台だった。
ふいに背後から強い風圧がきて、二人の体を押しやりながら空に抜けていった。深鳥は髪を押さえていた手を離し、ふぅっと息をついた。
「すごい眺めですよね。ほら、見てください」
聡が指差した方向に、地平線が瞬きするように煌めいた。
「見えるか見えないかだけど、あれが海です。今から数千年前はこの辺まで水に浸かってたそうです」
「海……」
とくん、と一つ鼓動が鳴った。
今、何かを……深鳥は思い出した気がした。しかし、風前の灯火ですぐに消えてしまった。
緑に埋もれた町、その中を一筋、線路が貫き、遠くへ延びて消えていく。ところどころ小さな森があり、せせらぎがあり、田んぼのパッチワークが広がる。
澄んだ水色の空にくっきりと映える白亜の風車。三つの羽根でゆっくりと空をかき混ぜている。
「すぐそこの草屋根が深鳥さん家。あのグラウンドがある所が僕たちの中学校。向こうが駅で、白い風車の下が風力発電所。あの近くに美味しいパン屋があるんだ。僕の好きな明太フランスとか特に絶品で……あ~~教えたいとこがありすぎる……そうだ!」
ぽんっと手を打つと、聡は勢い良く振り返った。
「今度放課後に街めぐりしませんか? 自転車でぐるーっと」
深鳥の顔がぱっと輝いた。
「うん、行きたい!」
二人が戻ると、聡の母がお茶とお菓子を用意してくれた。祖母達は先に帰っているとのことだった。
「道は分かる?」と聡の母が尋ねると、深鳥は笑顔で頷いた。高低差はあるものの、距離的には迷いようもないくらい近いのである。
集会所(聡の家でもある)の縁側で、お菓子を食べながら聡の家族と談笑した後、お礼を言って玄関を出た時だった。深鳥の前をふわっと何かがかすめた。
「……綿毛?」
それは淡白く光りながら、いくつもいくつも風に乗って飛んでくる。入らずの森の方からだった。入ってはいけないと知っているのに、深鳥の足はなぜか森の方に向かっていた。
『オイデ』
『オイデ』
呼ばれた気がした。耳に触れるような小さな声に導かれ、風の吹いてくる方……森の奥へと深鳥は吸い込まれていった。
気がついた時には周りは似たようなブナ林ばかりで、来た方向さえ分からなくなっていた。
「私……なんでここに……」
さっきは聡がいてくれた。でも今は――深鳥は心細さにぶるっと震えた。
どこからともなく笑い合うような声が聴こえる。深鳥はびくっと辺りを見渡した。さっきとは違って、森は表情を変えているかのようだ。
「引き返さなきゃ」
その時だった。足に何かが引っ掛かったかと思うと、チリン…と一つ鈴の音が鳴った。
途端、カラン…コロン…チリン…リィン…といった具合で、色々な鈴の音が追いかけっこするように次々と鳴り、幾重にもなって森中にこだました。それを聞くうちに視界は揺らぎ、頭がくらくらして深鳥は立っていられなくなった。
「誰だ?!」
険しい声が響く。そしてまたこだまする。
――聡くんの…こえ……
深鳥は反響を遮るように耳を塞ぐ。なんとか立とうとし、声を上げようとした。
「聡く――」
次の瞬間、何ものかに後ろから口を塞がれ、肘を掴まれ、ぐいっと引っ張られた。ふらついていた足は崩れ、その勢いで深鳥は地面に倒れ込んだ。
びゅん、と突風が髪をひるがえす。自分を取り巻く空気が一変したのを深鳥は感じた。
「ん……」
転んだ直後のように思考が働かない。……たしか森に入って、鈴がいくつも鳴って……聡の声に応えようとしたら、何かに引っ張られて………
「……?」
土、ではなかった。頬に触れているのは布のようだった。濃紺で洗いざらしの、少しごわごわした……
「……てぇ……」
その声にパッと目を開いた深鳥は、おそるおそる下を見た。そこには一人の少年がいて、同じように見上げている。その青みがかる、澄んだ眼を見た時、深鳥は全てを思い出した。
夢の向こうに広がっていた不思議な世界のこと。そこで出逢った少年のことを。
「快晴……?」
雲一つない、青い空の名前を――