忘却
深鳥の目覚めを知り、皆が駆けつけた。
眠りについてから一週間経っていたので、両親が深鳥を自宅に引き取ろうと準備していた矢先の出来事だった。
体力が落ちているものの、体調に特に変わった様子は見られない、との医者の診察もあって、深鳥は両親に付き添われながら、その日の夕方には自宅に帰って行った。
平穏な日々が続く間もなく、ソアラはエールへ帰ることを決めた。
後ろ髪ひかれる思いはあるが、深鳥も自宅へ戻り、ここで自分のできることは終わったのだと思った。ドクターを失った悲しみから未だ立ち直れずにいる自分もいた。
出立当日、宮司、聡、快晴、深鳥とその両親が駅のホームまで見送りに来た。
車窓越しに深鳥と別れのハグを交わすと、空気の抜けるような音とともに扉が閉まり、電車がゆっくり動き出した。皆に向かってソアラはめいっぱいに手を振り続けた。
「達者でな!」
そう言って隣の窓から手を振る那由他を見てソアラは小さな悲鳴を上げた。
なゆ兄!と聡が指差した。快晴が呆れて首を振った。
「姿が見えないと思ったら……」
Arcの件もさることながら、女の一人旅も心配だし、途中まで送りに行く、との置き手紙があったらしい。
長い冬休みの間、深鳥はしばらく二階の自分の部屋で療養していた。柿の紅葉も終わり、実はほとんど落ちて、枝先に残ったものを鳥がつついている。
窓に映る風景は日に日に色を失っていく。虫の音が聴こえなくなり、鳥の声は鋭くなり、透明度を増した風と、それとは逆に漫然とした空が、早くも雪の訪れを予感させた。
深鳥の両親は二人とも仕事に出かけ、祖母だけが一階で昼食の片付けと夕飯の仕込みをしていた。
「あら……」
台所の窓から、家の前で立ちすくんでいる快晴を見つけた祖母は、勝手口から急いで顔を出し、快晴を招き寄せた。
上がって、と言われたものの、「ここで」と快晴は縁側に腰掛けた。
お茶の用意をしながら、祖母は持ち前の柔らかな口調で話しかける。椀とお菓子を快晴の前に差し出すと、快晴の隣りに祖母も腰を下ろした。
「あなた、姿勢がいいわね。やっぱり武道をやっているだけあるわ」
快晴は椀を取りながら思わず祖母の顔を見る。
「深鳥がね、あなたのことをよく話しているの」
快晴の顔が仄かに紅くなった。
「そう、ですか」
快晴は一口、お茶をすする。
「どんなこと話しているか、知りたい?」
面食らう快晴を見て祖母はふふと笑う。
「もしかしたら、あの子から聞いているかもしれないけれど…私たち家族はずっと離れて暮らしてきたの」
あの子の両親から手紙をもらった時は何も考えられなかった…あの子が〝ひぃな〟かもしれないと……女の子として生まれたのに、普通の幸せを失ってしまうのかと思ってね。不憫で仕方なかった。
「…でもね、それが今、急激な変化を起こしてるみたいなの。」
朝起きる度、季節が移る度、あの子は変わっていくのが私にはちゃんと分かった。あの子はきっと、自分では気付いてないだろうけど、なんていうのかしら、きらきらと朝露に濡れた蕾みたいに、いじらしくて、優しい光にくるまれているような気がした……
「きっと、あなたのお陰ね」
微笑む祖母。それはどこか深鳥をほうふつとさせた。
話し声を聞いて気になったのか、深鳥が階段を降りてきた。客人の姿を見つけると、驚きながらも目を輝かせた。
「快晴!」
お茶を飲み干してから、快晴は深鳥を連れ出していいかと祖母に尋ねた。家にいるばかりでは体もなまるから、と祖母は気持ちよく送り出す。並んで歩く二人の背中を見つめ、祖母はしばらく玄関に立っていた。
辺りの気配はすっかり冬めいてきている。
二人は言葉少なく歩いていたが、森に入り足場が悪くなると、快晴が深鳥の手を取った。
冷たい指が白い指に絡まる。深鳥は快晴を見たが、それからというもの、快晴は振り向こうとしない。深鳥も俯いたまま、手を引かれていった。
庭に着くと、久々の眺めが一変していることに深鳥は驚いた。
色褪せた草原。朽ちた枝葉が屍のように散乱する。まるで死の世界だった。
風の中に綴じられた、すでに朽ちたたんぽぽ達の声。
『オヤスミ ミドリ』
『オヤスミ』
『マタ アオウ』
「うん…………また………」
深鳥は声を詰まらせ、顔を手で覆う。
「根は冬を越して、また春になったら新しい葉を出す。……だから、また会える」
快晴は深鳥の頭を撫で、そっと抱き寄せた。
辺りに白いものが舞う。綿毛に見まがうそれは……快晴は深鳥を見る。その視線を受けて、深鳥は自分の背中をそ~っと見る。急いで首を振るうと、快晴は上を見上げた。それは降り初めの雪だった。
「どうりで冷えると思った」
温もりを宿しているはずの体は、すでに体温を失い始めている。
舞う雪と共に、胸をよぎる一つの予感。両刃の想いとなって心の内に見え隠れする。
自分が死ぬことより、大切な人を失う方が怖いのだと知った。深鳥が、生きていてくれればそれでいい。もう二度と、あんな危険にさらしたくない。
快晴は顔を上げたまま、ゆっくり息を吐き出す。息はけぶることなく宙に溶けた。
――今なら分かる、父さんの気持ちが。
「快晴?」
深鳥の腕を掴むと、快晴は体を離す。不思議そうに見上げる深鳥。風が険しくなる。
「ーーー」
風の中で快晴が何かを告げた。深鳥が不安そうに見つめる。そして、意味を悟ったのか、次第に悲しげに、弱々しく首を振るう。
深鳥は快晴に抱きついた。離すまいと強く。
「…………どうして、忘れなきゃいけないの?」
大きな手が優しく、頭を撫でる。深鳥は快晴の胸の中でそっと顔を起こした。交わされる眼差し。瞼がゆっくり落ちて……気が遠くなっていく。
――そう、あの時も……
迷い込んだ夢の向こう、夜明けに染まる草原で出逢った。たんぽぽの唄が響く中、快晴の腕の中で羽根を休めた。そして、快晴はこう言ったのだ。
『これは全て夢だよ……………忘れるんだ』
そうして深鳥はすべてを忘れてしまった。快晴の温もりも冷たさも、快晴という名前も……
「……やぁ……っ」
深鳥は精一杯の力で快晴を拒んだ。しかし、押していた両手はいとも簡単に外され、行き場を失った体は引き寄せられ、そのわずかに残った空間も埋めるように、唇が唇を塞ぐ。
驚きも束の間に、言いようのない恍惚が一瞬に体の内に広がり、浸透していく。まるで乾いた土が水を吸い込むような自然さで……満ちて初めて、求めていたことを知った。
指一つ動かせず、体に力が入らない。腕という檻の中、なすがままに、自由を奪われる。
吐息と共に重なり続ける唇。息をするのも忘れてしまいそうになる。心がみるみる透きとおって、空っぽになる。
深鳥はただ、快晴の唇の感触だけを追っていた。……みずみずしく、柔らかい。
冷たい空気の中、熱を帯びる体たち。深鳥の眼に映るのは、落葉し、オブジェのように絡まり立つブナの枝分かれ。この上なく真っ白な雪空。深く吐いた息がけぶり、視野をいっそう白濁させる。
けれども、深鳥が最後に見たのは青い空だった。
少年の眼の奥深くに広がる、失われたはずの空。研ぎすまされ美しい、あの風神の眼のように。
見てはいけないと、分かっているのに……見ていたい。このまま心をさらわれ、命をさらわれたとしても。
「ん………」
甘い甘い毒が唇を伝い、意識を冒してゆくようだ。体をむしばみ、麻痺して、もう何も感じない。
まどろむ世界、滑り落ちる手。
――かい……せい………
あなたへ、堕ちてゆく。




