透明な舟
*
見渡す限りの青だった。
青い水が眼から体内を巡り、心の中まで浸っていくような気がする。よく見るとその青はわずかに分離している。水が鏡となって空を写し取っているのだ。
とうとうと流れゆく波。河なのか、海なのか、自分が進んでいるのか、それとも止まっているのか、分からなくなる。時折映り込む雲は波に揺らぎ、光は散り、風は解けゆく。
深く息をつき、レイヴンは自分の周辺に目を配る。
「ここは……」
舟から手を延ばし、指先で水に触れる。水、ではない。不思議なことに全く抵抗が感じられない。掬うことはできるが、重さはやはり無かった。
「ここにあるものは流れ、留まることを知らない」
レイヴンははっと顔を上げた。声は近くで響いた。
「しかし人はみな手に取り、留めようとする。限りある生に全てを感じ取ろうとするかのように」
聞き覚えのある、凛とした声。だが思い出すことはできない。
声の主はいつからそうしていたのか……レイヴンから数歩先、櫂を手に舟先に佇んでいた。
「あなたは……神なのか」
見覚えのある、その後ろ姿。渦巻状の刺繍の衣をまとい、白銀の髪を結い上げている。レイヴンが最期に手を取った、おそらく、チクラの風の神――
返答はなく、とぷん、とぷん、という波音と櫂を寄せる音だけが響いていたが、しばらくして、彼は振り向いて言った。
「……吾は、人に見えるだろうか?」
逆に問われて戸惑うものの、レイヴンはその横顔をじっと見つめた。
やはり、見覚えがあると思った。声も、その風貌も……誰かに似ているのだ。近しい誰かに…………誰、だったろうか?
「これは古き世人を鏡し取った……いわば鏡し身。人を送る時はいつからかこの姿でいる」
彼は漕ぎながら、時々息継ぎを挟み、言葉を続けた。
「姿が無いと人は怯え、納得させるのに時間がかかる。……思いあまってこの河に飛び込んでしまう者もいる。そうなれば、意図せぬ時の彼方に運ばれてしまい、助け出せない」
レイヴンは改めて手を伸ばし、浸してみた。水のような〈時〉に。
彼は手を休め、舟先にそっと腰を下ろした。櫂を横倒しに舟先に乗せ、遠くを見つめている。
「この身は本来形を持たぬ。それに……遍在している。ここにいることもあるが、時に雪、雨、風となって、地上に降りてゆく。……人はそう吾を呼んでいるのだろう……そうして常に人の側にあるが、何一つ交わることはない」
櫂から手を放すと、寂しそうにその手を見た。
「吾が触れられるのは、こうして形を失った人の魂、それも仮そめのこと。皆、吾を忘れゆく」
「……あなたは、忘れられないのに?」
思わぬ問いかけに、寂しげだった横顔は驚きを見せ、少しはにかんだ気がした。
「かつて、吾に名を問うた……ただ一人、愛しき人の娘。……あの時、人になりたいと思った」
「神が……人に……」
そう口にしてから、レイヴンはゆっくり首を振った。人は神になろうとしたし、また、神も人になろうとした……そうおかしなことではあるまい。
彼は首だけをこちらに向けた。この世界と同じ色の青い眼差し。
「余計なことを話した」
そう言って寂しそうに微笑むと、再び櫂を手にした。
「この舟で次の世に送り届けよう」
こんな穏やかな気持ちになったのは久々だ。レイヴンは息を吸い込む。少しの混じりけもない空気。何もかもが透きとおり、心地良い。この体も浄化されていくみたいだ。
ふと、すぐ側を光がよぎった。それが、ソアラの笑顔だと知った。耳には、彼女の歌う故郷の子守唄が響いていた。
――そうだ、楽園は君の唄の中にあったのに。
風景を見ながらそっと呼びかける。
「……ソアラ……」
透明な舟が、悠久の時の澪を進んでいく。舟跡もやがて消えてゆく。
生きている間 人は夢をみている
うたかたの夢
死を以て夢から覚めるとき
誰もが知るだろう
夢の儚さを
そうして全てを忘れ 眠り
また新たな夢に 生まれ落ちる
止まらぬ時の流れに
神は舟を浮かべ 導き続ける
その魂が
夢と夢の狭間にだけ思い出す
そこは
空と海が一つになる処
全てを忘れる処……




