鏡の向こう
幼い姿の快晴が迫り来る闇から逃れようとしている。振り向くと、闇がその触手を延ばし、快晴の首を締めた。
必死に抗う快晴の前で、闇は父親のシルエットに変わってゆく。
――いやだ…………死にたく、ない……!
絞るように出た自身の声に、ハッとする。
――僕は………俺は………………
すうっと呼吸が楽になる。辺りを風が吹き渡り、みるみる闇が退いていく。同時に圧迫感が消え、快晴はゆっくり立ち上がった。
――父さん、ごめん……そっちには行けない。
念じるように目を閉じ、快晴は自身の心の中に告げた。
――俺は……深鳥と生きたい。
いつの間にか足下は水に浸かっていた。辺りを綿毛が浮遊している。そこは化石の森のようだった。
光の降る中に佇んでいると、どこからか声が聴こえる。
「……カイセイ……」
誰かが呼んでいる。膝をつく。水鏡に顔を近付ける。
「父さん?」
水の向こうに揺れているのは――
リィン ……リィン ……
白銀の髪、頬に浮かび上がる流紋。快晴を同じように見返す青い眼がそこにはあった。
歌垣の時にも遭遇した、人ならざるものの姿が。
――風の神?
快晴は手を延ばす。すると水の世界からも手が延びてくる。水面に接する二つの指の先が、互いを打ち消し合うように溶けていく。
トプン……
快晴の姿が水面下に消えた。
那由他は異変に気付く。ピクシーが奇声を上げて収縮していく。光の粒に変わっていく。聡は耳を澄ませる。子供の笑い声がこだまする。
「子供達が……浄化されていく」
快晴の姿があらわれる。手をつき体を起こした。
「カイセイ!」
ソアラが安堵の表情を浮かべる。ゆっくりと目を開く快晴。しかし那由他はなぜか鳥肌が立っていた。
――なんだ? この感じ……
「消滅させるとは………ね」
レイヴンから表情が消えた。
「何を――」
レイヴンを捉える表情に、敵意は微塵もなかった。何の感情も読み取れず――快晴のものでありながら、その眼差しも、声も、快晴のものではないように感じられた。
「見送った……全てが生まれ、いずれ還る場所へ」
快晴はぼんやりと宙を仰いだままでいる。
「人が生まれる時に忘れ、この世を去る時また思い出す」
笑みとも溜息ともつかぬものが、レイヴンの肩を揺らした。
「なら……私は永遠にそこにはたどり着けないわけだ。なるほど、それが君たちの崇める神の世界なのだな」
聡は息を飲む。溶け落ちた快晴の衣から見える筋。みみず腫のように青味を帯びて浮き出ている。快晴の首から腕、おそらく全身を巡るだろうおびただしい程の流紋。
フゥ、と快晴が息を吹くと一筋の風が流れる。吸い寄せられるようにレイヴンの手から刀が離れ、快晴の手に戻ってきた。初めて見るように刀を見る。
「神の世界……それは幻。死を恐れる人の心が引き起こす錯覚だ!」
レイヴンは素早くパルス銃を持ち、快晴の心臓を狙う。しかし引き金を引く間もなく、ものすごい風圧で弾かれる。全身から血が吹き出した。体の至る所が裂傷を負っている。
「かまいたち……」
那由他は唖然として呟いた。
「あいつ………風を操ってやがる」
聡が息を吞む。
「あれって……御神刀の力?」
目が自ずと刀に吸い寄せられる。鏡のようにな刀身に映るその姿は……那由他は目を疑う。思わず目をしばたいた。
――あれは……
それは、幼い頃に見た雪の幻だった。弟の手を引いていった〈のっぺらぼう〉。
記憶が一気に時を遡る。思い出そうとしても叶わなかった風神の表情が、今はつぶさに見て取れた。
雪景色に溶ける白銀の髪、寂しげな眼が那由他を見ている。済まない……そう言っているように。
那由他は目をこすった。
――快晴じゃない? 今、刀を振るっているのは何なんだ?
レイヴンの傷が少しずつ塞がっていく。快晴は無表情にその様子を眺めていた。
「さすがにこたえるな…傷が塞がるの時間がかかる。駒も使い物にならなくなってしまった。だが……」
レイヴンがさっと扉に目を向ける。
「その間に逃げぬよう、出入り口は閉じておかなくてはな」
扉がしゅう、と音を立てて溶けていく。那由他は拳で地面を叩く。
「……くそっ!」
「ピクシーの一体に鍵を溶かすよう指令を出した。体内にスイッチとなる遺伝子が組み込まれている」
レイヴンが赤胴色の髪をかき上げ、白く欠けた月のような仮面を外すと、肌に光る基盤が浮かび上がった。
「光による遠隔操作だよ。もはや出口はない」
レイヴンが片手を差し出した。
「さぁ、交換条件だ。ソアラ……君がこちらに戻れば、ここにいる全員の命を保証しよう」
「!」
「私はここから出る術を知っている。君の心一つで、君の周りの者たちの運命が決まる。さぁ、この手を取るんだ。ソアラ」
「耳を貸すな! こいつの言うことはハッタリに決まってる」
「そんなことはない。彼女の希有な能力は、今のArcには不可欠だ。下手なことをして信頼を失えば、我々としてもやりにくくなる。彼女は今や私の右腕なのだから」
「!」
那由他は問いかける。
「ソアラ……どういうことだ」
「……」
一つ溜息をつくと、ソアラは顔を上げた。
「懐柔されたドクターと私は最初、一緒に暮らしていたけれど…私が大きくなったのを見計らってか、私はドクターから引き離され、ドクターとは別の研究室で、マイクロ波の工学利用に従事していた。その頃、Arcが遺伝子リスト作成のために、世界各地に使者を送り込んでいるのを知った」
SSCを始め、世界の温室都市内の情報はすでに出揃っていた。あとは未開の地を巡り、遺伝子情報の収集と都市から逃れた〝未回収のサンプル〟を捕獲すること。
「最後のチャンスだと思った。Arcから離れて、快晴を探せる、最後の……私は必死で上層部に掛け合った」
収集したデータを送り、快晴が見つかれば、Arcと手を切り、その足で故郷に帰れる。ドクターと、自分と、快晴で。そう条件を提示した。
「東の果ての……この地域の調査は一年後だった。それまでその取引として、上層部の……レイヴンの傍らで、心理操作を担うことを命じられた。でも……」
言葉が途切れる。那由他の手に微かな振動が伝わる。ソアラは堅く目をつぶり、その肩は小刻みに震えていた。
「ソア……」
「しかし、君は裏切った。この地に隠れていた、貴重なサンプルの回収を阻んだ。その裏切りによって、多くの血が流れるだろう。…もう一度チャンスを与えよう。戻ればこれ以上血は流れない。戻らねば……言うまでもないだろう」
くすくすと響く笑い声を締め出すように、ソアラはうずくまる。
「ソアラ」
震える体を抱え起こすと、那由他は、その大きな体で包み込んだ。
「お前がいい時に呼べって言ったろうが。忘れたのかよ」
「覚えてるわよ! ……でも……」
「そうだ。抱えたもの、泣いて出しちまいな。快晴だってイロイロさらけだしてんだ。お前だって楽になれよ」
那由他の大きな親指が、頬から涙をさらっていく。
「大丈夫。地の利さ。脱出は何とかなる。だから…お前は気にせずにお前の心を選べ」
ソアラは息を吸い、レイヴンを見た。
「お前のいいなりにはもう、ならないわ」
「それが答えか……」
レイヴンの手が宙を掴む。するとその手には眼鏡が握られていた。見覚えのある、アンティークの彫金。ソアラは一気に青ざめる。
「ドクターに何を!?」
瞬間、手の中で眼鏡のレンズが砕け散る。床に落ちたフレームを黒い靴が踏みにじった。
「ドクター・グリムウッドは消えた」
レイヴンは床を見ながら静かに言う。
「たった今、君の決断によって」




