方舟計画
世界の終末がささやかれた二十世紀の終わり〝方舟計画〟は始動した。それは長期宇宙滞在に耐えられる、長寿型人間を造るという極秘プロジェクトだった。
元々遺伝子研究に従事していた彼らの元には、精子と卵子のストックが豊富にあった。その中から優れたものを選出し、顕微受精で交配させ、理想の胚を得るという手はずだった。
しかし、交配は難航した。
長い時間とコストをかけても思うような胚は得られない。まるで神の見えざる手が邪魔をしているかのように。
わずかな成果とたくさんの廃棄が出た。ストックも尽きようとしていた矢先、ようやく有望な胚が出来た。
その胚を元手に駆け回り、有力者達の協力も得た。彼らはArcを設立し、必要な機材と人材を集めた。
数年後、条件が整い、晴れて研究が再開された。
胚の遺伝子を組み換え、知能の向上と不老長寿を施した。その胚を代理母に戻し、ついに待望の赤子が出産された。
赤子は再び羊水に浸かるように、生命維持装置の中で育った。驚異的な早さで、数年で十代後半の姿まで成長した。その間に、体内へチップの埋込み手術と、地球に関する膨大な記憶、最先端の知識、あらゆる経験のプログラミングがされた。その初号型が……この私なのだ。
「Arc設立は…21世紀初めと聞いたわ」
ソアラの中で、レイヴンの印象がみるみる変貌していく。
「あなたは……そんなに?」
「すでに私は半世紀以上生きた。いや、記憶的にはもう何百年も生きた心地だ。まるで仙人の気分だよ」
レイヴンは悠然と微笑んでいる。まだ少年の面影を残した表情で。しかしその微笑みの向こうにソアラはゆらぐものを見た気がした。
悲願は報われ、研究者たちは皆その完成品を愛おしんだ。私はまたたく間にArcの指導者として押し上げられた。
皮肉なことに、いち早く神を捨てたはずの彼らは、自分達が求め続けた芸術に陶酔し、神に仕立てようとしたのだ。
私はその期待に沿うように、彼らの心の中にある禁忌への渇望に応えるように、一つの提案をした。
この世界は雑然としている。ビルが乱立し、無秩序な色彩がひしめき合っている。脳にプログラムされた〈楽園〉とは何もかもがかけ離れていた。美しくない。何がこの星をここまで蝕んだのか。
人間だ。人間は殖えすぎた。今こそ審判のときだ。人間をふるい分け、ふさわしい者だけを方舟に乗せる。そう、危機に対応する遺伝子を獲得した、新たな進化を遂げた者だけを……我々だけがそれを為せるのだと。
ソアラはぎゅっと拳を握った。
「だから、衛星を落としたの……放射能をばらまいて、人体実験を……」
「そうだ。各国が上げた衛星がデブリになって地球のまわりに浮かんでいたからな。片づくしいい方法だと思ったよ」
「お前が手を下したのね! お前が〈沈黙の春〉を起こした。故郷をみんなを…何もかもお前が……レイヴン!」
「その通り。必要な淘汰だった。そして君は生き残り新たな視覚を獲得した。君は選ばれたんだよ」
「違うわ! 私は選ばれたんじゃない! 故郷のみんなが私を生かしてくれたの。そして……代わりに死んでいったのよ……」
「彼らは人の未来のために死んでいった尊い犠牲だ。我々としても、もう後戻りは出来ない。方舟計画は続いている。他星を地球化し、移住を開始する……それまで、何ひとつ無駄には出来ないのだ」
先ほど溶け落ちたはずのレイヴンの指はいつの間にか元通りになっていて、レイヴンがパチンと指を鳴らすと、ピクシーたちがなお満たされないように口をはふはふさせながら一斉にうごめきだした。
「これらは、完全形を見出せなかった胎児のなれの果て。私の生成時に出た廃棄に、我々は命を吹き込んだ。人型兵器としての命をな」
快晴の目尻がぴりと引きつる。ソアラは力無く呟いた。
「……なんて…ことを………」
「誰も邪魔はさせない。危険因子は排除する。そのための兵器だ!」
ピクシーたちが奇声を発しながらおそいかかる。那由他が避けようと手で払うが、火傷のように強烈な痛みが生じる。
「つっ……、何だこいつら、触れただけで」
レイヴンはくすくすと笑う。
「どうやら君たちは別腹らしい。久々の生身のえさに涎を垂らしているんだ。まったく目が離せない子供らだ」
「うわ…あっ……!」
「聡!」
背負っていた弓で押さえ付けるも、ピクシーから垂れる液が聡の服を溶かし、肌を焼く。痛みにこらえながら、聡は空いた右手で背の矢を掴むと、その矢尻で塊を突き刺した。しかし、流動的な体になんのダメージも与えられない。聡はがく然とする。
「……くそっ、傷さえ無けりゃ……」
「ダメよ! 今動いたら、傷が開くわ!」
「だからって…見てるわけにいかねぇんだよ……聡ぃ!」
その時、耳の奥に微かな痛みが走る。ピクシーが聡から少しずつ退く。見ると、聡が顔をしかめ、矢を持ったまま弦をこすっている。
「ほんとは……一番嫌いな音だけど」
「超音波。ほぅ、なかなか賢いな」
「これは、ただの、子供のいたずらさ!」
目も止まらぬ俊敏さで、聡は矢をつがえ、放つ。矢はレイヴンの肩を正確に射止めた。ひゅぅ、と那由他の口笛が鳴る。聡が那由他達の元へ駆け寄る。
「なゆ兄、大丈夫?」
「どうやら音には反応するみたいだな」
「元々…子供らしいしね」
ーー苦しんでる。あの子達は、本当は……
ソアラはまざまざと見る。あるとは思えなかったピクシー達の心の様を。レイヴンはふらりと立ち上がると、矢を思いっ切り引き抜き、血まみれの手と矢を可笑しそうに見て、喉を揺らした。
「……言ったろう、私は不死だと。これでは足止めにもならない。……次はここを狙いたまえ!」
指で己の額を突いて、レイヴンは歪んだように笑う。恍惚さえ浮かべて。
ーー狂ってる。
そう聡は思った。そして、この男は本当は死にたがっているのかもしれない……とも。
訝しむ聡の表情など気に留めず、レイヴンは再び話し出した。
「運命とは酷なものだ。わずかな塩基配列の狂いで、私とこの子らの立場は逆転していた。兄弟でも天と地ほどの差がある。私とは違い、これらはもろく、すぐに死ぬ。しかし、追加はいくらでもできる。クローニングでコピー可能だ」
「もうやめて!」
ソアラの声が響いた。
「あの子達は飢えてるんじゃない。ただ眠りたいだけ……それをむりやり…兵器として使うために……」
ソアラの眼から涙が溢れる。
「そう。生きる苦しみを味あわせてやるんだ。どうせすぐ終る命だ。せめて生きた実感を作ってやらねばな」
ーー死ぬために生まれる命なんて。
ソアラは唇をかむ。
ーーいいえ、誰もが生きようと生まれてくる。
私も、きっと生まれたかった。お腹にいる時から、
エールの唄を、リズムを聴いていたから。
『歌っておくれよ、ソアラ。お前の唄は不思議と心地いい』
『いろいろなことがあるけれど、こうしてパブに来て皆と歌えば、帰る頃にはすっかり忘れちまうのさ』
酔いしれて踊りだす。大人の手拍子に合わせて、子供達がステップを踏む。息が上がるのに、楽しくて楽しくて……その内、大人達も踊りだす。若い恋人達が飛び込む。みんなからかいながら二人の頭上に野バラの花を蒔く。
ーー知らなかったの。みんな、命が終わるなんて、誰も考えなかった。
その日は突然訪れた。見えない死神がやって来て、足早に去っていった。故郷にとこしえの冬を残して……
朝、目を開けたなら、そこには何もない。小箱みたいな部屋。私は再び夢路をたどる。覚めたくない。懐かしい故郷の夢。いつまでもここにいたいのに…
恐い夢を見ると中庭へ行った。SSCの中心にあるアトリウム。足下には芝のビロードが広がり、ドーム状の透明なシェルターを通して宇宙を望むことができる。
ここにいると、ほんの少しエールを思い出す。ここには羊もいないし波の音も聴こえない。風の匂いもしない…。
ーーどうして私、ここにいるの?
帰りたい故郷はもうない。ここへ来ても、私は相変わらず唄っている。夢を忘れるために。
そしてあの子に出逢った。自分とよく似た、一人ぼっちの男の子。それがカイセイだった。
宇宙に解けてしまいそうなはかない印象があった。私たちは反発し合いながらも、少しずつ心を通わせた。悲しいことばかりだったけど、私にはカイセイがいた。ドクターがいつも側にいて見守ってくれていた。
ソアラは胸に手を添える。
人として無事生まれてきて、失ったといえ故郷も心にある。私は今生きて、こうして唄うことができる。
生きて、祈り、唄う。死んでいった者のために。生まれてこれなかった者のために。それがただ一つ、私にできることだから。
※
Mo ghrá thú--, den-- chéad fhéachaint, Eileanóir--- a Rúin
Is-- ort a bhím ag-- smaoineadh, tráth a mbí--m i-- mo shuan.
A-- ghrá-- den-- tsaol, 's a chéad-- searc, 's tú is deise ná-- ban Éi--reann.
A bhruinnilín deas óg, is tu is deise milse póig
Chuns a mhairfead beo beidh gean 'am ort
Mar is deas ma--r-- a- sheo--lfainn gamhnaí-- leat, Eileanóir--- a Rúin.
……
(一目見てからというもの、あなたを愛している。
いとしのアイリノール。
眠る時も考えるのはあなたのことばかり。
最愛の人、初恋の人よ。
エールのどの女性よりあなたは美しい。
うら若く、無垢な乙女よ。その口づけはこの上なく甘い。
命ある限り、あなたを愛している。
いとしのアイリノール。
さぁ、あなたと仔牛を追いかけようか。)
ソアラの口から紡ぎだされる、故郷の子守唄。ピクシーの動きが止まる。
「君の唄で私も何度も眠らせてもらった。いつ聴いても心がほぐれる。だが、ここで眠らせるものか……!」
ピクシーが一斉にうごめき、飛びかかる。那由他がソアラを抱え込む。しかしピクシーが向かうのは…
「しまった! 快晴!!」
深鳥を温め続けていた快晴は、とっさに深鳥を突き離す。次の瞬間、ピクシーがまとめて快晴を覆いつくした。
しゅぅぅ…という音と共に、髪の毛が焦げる時のような異臭がした。
ソアラが悲鳴を上げる。レイヴンの笑い声がこだました。
(※「Eileanóir a Rúin」…いとしのアイリノール lyrics by Cearbhal Ó Dálaigh )




