千久楽
学校が始まる前の春休み中に、深鳥達――時村一家は千久楽という土地に引っ越してきた。
千久楽はチクラと読む。元々カタカナで簡単に書いていたけれど、数十年前、周辺の行政区画変更の余波を受け、漢字を当てたらしい。
でも字が与えられたからといって、何かが変わるわけでもなく、不定期運行(毎日は出ない)の電車の本数が増えることも、開発が進んで住宅地になることもない。
なぜかと言うと、千久楽一帯は特別保護区だから。保護区という扱いで市町村にもみなされていない。〈千久楽〉という地名はあっても地図に詳細は載っていない。
両親は教えてくれた。大昔から森に眠る隠れ里なのだと――
千久楽は両親の生まれ故郷で、祖母が長年一人で住んでいる。深鳥の母の実家でもあるその家に、今日から深鳥達も同居することになった。
祖母とは手紙でやりとりしていたが、深鳥が会うのは初めてだった。もう少しで会えると思うとなんだかそわそわしてきて、深鳥は胸に手を当てると思いっきり息を吸い込んだ。
――いい匂いがする。
ふんわりとした風が体を包み、カサカサカサと草の隙間を抜けていった。とても心が満たされる。空気がこんなに美味しいと感じたのは初めてだ。
「少し建物が増えたわね」
母を先頭に、線路沿いに三人は歩いていく。線路を挟んで反対側は建物が多い。しかし、深鳥達のいる側は木がこんもりと繁り、その向こうの一切の景色を遮っていた。行く手は小高い丘になっているらしく、わずかに勾配を感じながら歩く。道に沿って延々と続く、壁のような木々の隙間から夕日が漏れている。
「あと少しよ」
しばらく歩いたところで視界が開けた。吹きつける風に深鳥は思わず目をつぶる。そしてそっと開けると、目の前は一面の棚田だった。
鏡のように辺りをそっくり映し出す。風で揺れる水面に夕日が揺らいでいた。三人は息をのんで、その美しい風景をしばらく見下ろしていた。
「きれい……」
田んぼの水できらきら反射する光に、深鳥は目を細めた。
「風景が広がるって……いいわね」
母の菜実がぽつんと言った。
「あぁ。風がこう、抜ける道があるっていうのは」
父である草治も頷きながらしみじみ返す。深鳥も田んぼとその上に漂う澄んだ空を愛おしそうに眺めて言った。
「空、広いね。とても遠くまで見渡せる」
草治は晴れ晴れとした表情で深鳥に笑いかける。
「まだまだいけてるじゃないか我が故郷は。深鳥、そう思わないか?」
「うんっ! 話で聞いてたより、ずっとずっとすごいね!」
行く手にある家の垣根の前で、誰かが手を振っている。深鳥が目をこらしていると、隣で菜実が両手で大きく振り返し、駆け出していった。
「母さん久しぶり! 3年前に仕入に来て以来ね!」
菜実は自分の母親である祖母に遠慮なく抱きついた。祖母はあぁ…と思い出したように溜息をついた。
「お前が抱えきれないほど種を持って帰るもんだから、後ろから見ててヒヤヒヤしたよ。季節外れのサンタクロースのようで」
はは……と菜実が苦笑いする。
「なかなか来れないと思うとね…あの時は在庫が尽きて、危うく開店休業になるところだったのよ。お陰さまで助かりました。ま、そのお店も畳んできたようなものだけど……」
菜実は肩をすくめた。
「千久楽の苗は丈夫だけど、都市は風の塩梅が悪いのかしら。やっぱり育ちが良くないの。それでも天然ものは需要があったわ。いい商売だったけど……潮時ね」
時村家はつい最近まで園芸店を営んでいたのだが、深鳥も母の手伝いで小さな頃からよく植物の配達をしていた。配達先はたいていが年配の人達で、深鳥の頭を撫でては昔の話をしたり、お菓子をくれたりしたものだった。
母に言わせると、千久楽の野生種が都市では貴重なようで、千久楽から時折種を仕入れては、苗木作りに勤しむ……そんな両親の背中を見て、深鳥も自然と植物が好きになっていった。
「お義母さん、本当にご無沙汰してました」
草治が前に出て頭を下げると、祖母は草治の手をしっかりと握った。
「まぁ、まぁ、草ちゃん、元気そうで…菜実がいつも面倒かけて。たまには私の代わりに娘を叱ってやってちょうだいね。……そう、深鳥は? 深鳥が来ると――」
後ろの方でもじもじしていた深鳥の背中を、母はそっと押してあげた。
「母さん、この子が深鳥よ」
恥ずかしそうに、深鳥は少し俯いてお辞儀した。
「はじめまして……深鳥です」
顔を上げると祖母と目が合った。祖母はぽかんと深鳥を見つめている。その目に静かに涙が満ちていくのが深鳥には分かった。
「……おばあちゃん?」
「母さん?」
ハッとした祖母は「あら、やだ」と言って手を振り、照れくさそうに笑った。
「こんなに女の子らしくなって……びっくりしちゃったのよ」
おそるおそる手を延ばし、祖母は深鳥をぎゅっと抱きしめる。
「本当に……こんな遠くまでよく来てくれたわねえ。いつもお手紙ありがとう。おばあちゃんね、毎日読んで会えるのとっても楽しみにしてたの」
祖母の様子に、深鳥も顔をほころばせる。
いつも優しい言葉を、愛情を、祖母は手紙に込めてくれた。ふわりとした白い髪。しわくちゃな手。写真で見ていたよりずっと小さくて……温かい。何より笑顔がかわいいおばあちゃんだった。
「我が家へようこそ。さぁさ、家に入りましょ」
祖母が腕をふるった盛りだくさんの夕飯を食べ、深鳥は湯舟に浸かった。二階に与えられた部屋に入り、窓を開ける。夜風はまだ冷たい。外はひっそりと闇に満たされていて、星が降るように見える。風に揺れる木のささやきが聴こえてくるみたいだ。
しばらく星を眺めてから、階段を下り、みんなにおやすみと言ってから深鳥は布団に入った。今までベットだったので、ふかふかして少し変な感じだ。
布団に埋もれながら、深鳥はよく見る夢のことを考える。
鳥になった夢を見る。背中の羽根で、自由に宙を舞うのだ。そして今日は――降りた地上で、誰かと一緒にいたような気がする。
大自然の朝焼けの中で、誰かと肩を並べ、色々な話をして、それから――
時々記憶の雨が降り注いでも、受け止めようとしてするすると指の間からこぼれてしまう。何か大切なことだったはずなのに。
夢を追いかけながら、深鳥はいつの間にか眠りに落ちていった。