誘い(いざない)
「ここに、あなたがいることは分かっていた」
「……」
「だから、上層部に頼み込んで私達が派遣されることになった。この任務が終わったら私達は故郷へ戻る。……これが最後の仕事よ」
ソアラはすっと手を差し出す。
「一緒に行きましょう、エールへ。そしてまた三人で暮らすの」
短い沈黙があった。快晴は動かないまま、視線だけを落とす。
「俺はチクラを離れられない」
「なぜ!? あなたは前に、もう故郷に帰っても仕方ないと言ってた。帰っても居場所はないと!」
出していた手を引っ込め、ソアラは快晴に詰め寄る。
「あの子がいるから? ……ミドリがあなたの帰る場所とでも?」
見つめ合ったまま、しばらくの時が過ぎた。まっすぐ向かってくる曇りのない眼差し。それが彼の答えだった。
「……否定、しないのね」
ソアラは張りつめた表情をしている。しかし、心の中では絶望していた。
離れなければ良かったのだ。あの時、快晴が帰郷すると言った時、引き止めていれば――
彼の体を覆う異教の装束、その腕に施された刺青がソアラを拒み、遠ざけようとする。ソアラはいたたまれなくなりその場を立ち去った。
「ソア――」
快晴が追おうとした時だった。舞台裏の方からふらふらと深鳥が現れた。
「どぉ……だった?」
頬をほんのり赤らめ、ぽーっとしている。快晴はすぐに状況を悟った。
「飲まされたな。どれくらい飲んだ?」
「コップいっぱい。おじちゃんが…水くれ……た」
そう言って、深鳥はほどなく快晴の腕の中へ倒れた。
「……水と間違えたのか……ったく」
快晴は体勢を立て直すと、深鳥を抱き上げて人混みとは反対側に歩き出す。境内の中庭の縁側から上がり、舞をよく練習している奥の間の、一つ手前の部屋に入る。ここには予備の道具や寝具が置いてあるはずだった。
布団を敷いて深鳥を寝かせると、快晴は一つ溜息をついた。またこれか、と。これではまるで子供を寝かしつける親ではないか。
快晴は立ち上がると、押し入れにしまってあった道具箱から漆の杯を取り出し、廊下に出る。湧水を引いた立水鉢でゆすいでから水を汲んで部屋へ戻り、左手で深鳥の上半身を抱え起こし、小さく揺すった。深鳥はかすかにうめく。
「ほら起きろ、水……」
右手で深鳥の口元に杯を押しつける。しかし一向に目を開けようとしない。それどころか快晴の方へ寝返りを打ってしまった。
「……………この……」
仕方なく、杯をなるべく遠くに置いた。 快晴は両腕で深鳥の体を抱え、ゆっくりとその重みを布団に移していく。
その時、頭上でカチリ、とネジの合わさる堅い音がした。
ポーン……ポーン……ポーン……
鳴り響く柱時計。反響はいつもより激しく耳を打つ。長く、途切れなく、警鐘のように。
目を開けると、温もりの中にいた。
柔らかな深鳥の髪に顔を埋める。仄かな香り。快晴は再び目を閉じると、そっと息をし、触れた肌に唇を滑らせた。体からそっくり力が抜け落ちていく。感覚だけがとり残された。
こんな風に触れてはいけない――そう思えば思うほど、感覚は鮮烈になっていく。唇に伝う肌の感触と、衣越しに感じる体の起伏、双方が同時に快晴の中へ刻まれていく。
「深鳥……」
おぼろげな意識の中で、二つの体が溶け合うような気がした。




