余韻
*
澄み渡る空気を胸いっぱいに吸い込む。ひんやりとして体がしゃきっとする。
まだ夜が明ける前の庭に深鳥は来ていた。祭の準備は午前中から始まってしまうので、練習するなら最後のチャンスだ。
深鳥が舞い始めると、たんぽぽも起きだして花弁を開き始める。心地よい早朝の風が通り過ぎては、たんぽぽを揺らし、深鳥の白いシフォンのワンピースをふわりと広げる。
舞いながら、今まで快晴といた時間を思い出す。
かっしりとした背中、夜空に溶ける髪、空を見上げる横顔、ずっと閉じたままの唇。
深鳥は目を閉じる。
腕の中の温かさ、指先の冷たさ、澄んだ眼差し。そして……まれに見せる、冬の日溜まりのような静かな笑顔。
深鳥は仰ぎ、目を開く。
快晴は空だ。手を延ばしてもまだ遠い。会う度に知らない快晴を知っていく。深くて吸い込まれる。どこまでも落ちていく……大切な、私の空。ずっと……
イッショニ イタイ
その時、もう一人の自分がささやいた。深鳥はふと意識を取り戻す。
舞は踊りきった。体はそう告げている。心だけがいっときの空白の余韻に取り残されている。
背中に疼きを感じ、おそるおそる振り返る。たゆたう羽根の向こうに、快晴が立っていた。そのフィルターを通して、快晴の朝霧に濡れたままの髪と、同じ色のとっくりのニットが薄くけぶるのを見る。
深鳥は向き直り、背中の羽根を隠そうとする。あっという間に、ニットの網目が深鳥の目前に迫っていた。うつむいて、後ろに一、ニ歩、三歩と下がった時だった。
その距離をあっという間に縮め、快晴は深鳥を抱き寄せた。
快晴の手が、背後に回される。冷たい指先が、羽根をそっとなぞる。
深鳥は快晴の肩に額を預けたまま、目をぎゅっとつぶる。羽根に新たな負荷が加わる度、息を止め、身をすくめる。呼吸が浅くなる。これ以上は――深鳥は懸命に首を振った。
「どうして、逃げる?」
耳元で響く低音が深鳥の体をさらに怖じ気づかせる。喉の奥が詰まって、言葉が出てこない。快晴の湿った髪が、柔らかな針のように、あらわになった白いうなじを覆う。
快晴は自分のしていることを十分悔いていた。側にいないよう遠ざけていたのに……今までのようにはいられないと思った。自分の中に潜む衝動を知ってしまった時から。
快晴は、深鳥の舞をずっと見ていた。目を奪われていた。
その指の先が求める虚空。弾む度につま先に沈みこむ柔らかな大地。風に遊ぶうつぶし色の髪。暗緑色の眼は伏せがちに、長いまつげの瞬きと共に、その表情は刻々と、様々な少女の心象を切り換えし投影する。
最初はたどたどしく、目に付くことで叱ってばかりいた。同じようなことを何度と繰り返し、その度に呆れたり、苦言を言ったものだ。
それがやがて一通りこなすようになり、公の場で何度か一緒に舞ううちに、深鳥が様になってきているのを知り、快晴はひとまず、矛先を鞘に納めた。
基本が出来れば、あとはうるさく言うこともない。己の意気込みさえ怪しいのだから、パートナーにも多くは求めてはいなかった。
しかし気が付いた時には、深鳥は快晴が思っていたよりももっと、ずっと艶やか舞っていた。出逢った時は年下に間違えたほどに、素直で幼い印象を持っていたのに。
いつの間にか、少女はまとっていた衣を脱ぎ、その正体を突然少年に明かすのだった。それはまるで、羽衣物語の天女ように。
深鳥がどこかへ行ってしまいそうに思えた。その背に咲く羽根で、快晴の手をすり抜けて、空へ……
耳にはたんぽぽの楽しそうな声が聴こえていた。空は高く、雲が鱗状に広がっている。草原を流れる風の音に混じり、かすかに届く鈴虫の呼び合う声。ここにももう、秋が来ていたのだ。
「……舞」
沈黙を破ったのは快晴だった。深鳥は思わず顔を上げる。目が合うと、快晴はぱっと目を背けるものの、その横顔が少しはにかみながら綻んでいるのがわかった。
「上出来だ」
そのままの状態で、深鳥はしばらく動かなかった。快晴が不審に思い、ちらっと深鳥を見ると、その両目からニ、三粒、雫がこぼれ落ちた。本人がその涙に気付く前に、快晴は深鳥の頭を自分の体に押し付ける。
泣くのをみるのは苦手だった。涙の味も、かみしめた唇の痛みも濡れる手のかゆみも……一人膝を抱えていた幼い日が、自ずと胸にこみ上げてくるのだった。
「夜の舞で今期は終わりだから」
言葉が途切れる。快晴は華奢な体をさらに抱きすくめる。
「しばらく、こうさせて……」
温かな胸に埋もれながら、深鳥はコクンと頷いた。
*
二人舞の後、その余韻を引き延ばすように、女手の一人舞が始まる。風神の出で立ちのまま、男手は面を片手に抱え、舞台裏ではなく、少し離れた、篝火の届かない森の端で、幹にもたれかかっていた。
パートナーである女手の一挙一足を、一人静かに見守っている。しかしその体にはまだ彼女を抱いた感覚が残ったままだった。
もう一人、同じように彼女を見つめていた人物が、男手に近づく。彼は固定されていた視線をとっさに外す。
「私には、今のあなたの心が垣間見える」
「……」
ソアラの声がいつもより低く響く。
「カイセイ、あなたはあの頃とだいぶ変わったわ。あなたの心から闇を連れ出したのはミドリなの?」
「……」
「彼女のこと、特別なのね?」
再び舞庭の方を見やると、快晴はしばらく黙ったままだったが、それから、ああ、と短く答えた。
ソアラは唇の端をきゅっと噛んだ。
分かっていた。快晴が息を止めて誰かを見るようになったこと。そしてそれは幼い頃、同じ風景を分かち合ったソアラではないのだと。
「聞いて、私……」
ソアラの思いつめた声に、快晴は驚いてソアラを見る。ソアラは大人びた、その琥珀色の眼で快晴をまっすぐ見据えた。
「私達、あなたを……迎えにきたの」




