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風が廻る場所  作者: 飛水一楽
〈鳥籠の章〉
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翳り(かげり)

 都市(ユグ)――そこは完成されながら、黄昏の寂しさが満ちる場所。

 

 世界には果てがある。昔のように大地は続いていないし、空は繋がっていない。都市で暮らす人々にとって、シェルターの内側が世界の全てなのだ。

 

 世界の中心にそそり立つ、透き通った円錐の塔は、虚空を貫き、上層で四方八方に枝分かれする。

 強固な繊維で編まれたというその骨組は、無数の枝分かれを繰り返しながらドーム状に世界を覆い、そのまま地平に向かってまんべんなく張り巡らされており、シェルターの要となる特殊ガラスを支えている。見上げれば、その壮観は芸術的でさえある。

 

 一つの巨木が一つの世界を支えているようで、人々はそれを世界樹(ユグドラシル)に例え、シェルター都市そのものを〈ユグ〉と呼び馴らした。

 

 都市(ユグ)の中層には、葉脈状に広がる街が幾つかあり、環状スロープが波紋のように幾重にも渡され、街と街を繋いでいる。

 そして、下層には一面の森が広がっている。自然と人の融合が計られた空中都市である。

 

 やむを得ず導入されたシェルターが、かえって気候を安定させた。上空にはレプリカの太陽が架かり、ホログラムの空が投影される。天候が荒れることはなく、毎日が穏やかに過ぎてゆく。

 すべてが適度に調節された快適自在の都市の中で、人々はもはや、世界の外を見なくなる。

 

 シェルターの外にはどんな世界が広がっているのか、誰も知らないし、知ろうともしない。……知る必要などないのだから。


 そこには全てあるのに、何もないような気がしてーーそうして人々は、ある日、心が空っぽなことに気付く。

 

 都市に暮らしていた数年前、母はよく溜息混じりに深鳥や父に話していた。ユートピアで耳にする不穏な噂。無気力に陥る人々がすがるように手にする、致死の花のことを。同業者の間で密かに出回っているという。


 その吸い込まれるような青の花弁に、かつての空の色だと、手にした誰もが、忘れていた過去(むかし)を思い出すという。何一つ同じものは存在しなかった。不可思議と無限に満ちていた、かつての世界を。


 疑問さえ持たずに、当たり前のように生きていくことが幸せなのか、もう誰にも分からなかった。


『……どうして?』

 皆が気にもしないことを、深鳥はとても不思議がった。

 虫はつかず、葉に傷みも無く、枯れたりせずに、ずっと美しい樹形を保ち続ける。粒揃いの、まるで造り物みたいな木々。

 肥料も薬剤もいらない。水さえ……それもわずかに与えれば育つ、手のかからない組換品種。

 

 しかし、一部の人々はこっそりと野生の苗を仕入れ、手をかけて育てるのを楽しみにしていた。

 その苗を育てるのが母親の菜実の仕事だった。年に数回、千久楽へ良質の種を仕入れにいき、種が芽を出し、苗木になるまで丹念に面倒を見ている。

 お店の名前は〈Tokimura nursery〉

 

 幼かった深鳥はよくお客さんに苗を配達しにいったものだった。その途中で、よく配達先の地域を揶揄(やゆ)する声を聞いた。


(あんな不便な所、何が良くて住むんだろうね)

(風変わりな人達だよ)

 

 深鳥が向かうのは都市の外れ。下層にある森の中に古い街並が埋もれて残る、未だ整備が進まない地域だ。それは昔、団地と呼ばれていた場所。旧世界の名残を色濃く残す場所だ。

 

 古びたコンクリートの佇まい。階段は、歩く所以外は苔色に染まっている。壁は塗装がはがれ、ひびが走り、あらわになったパイプから時折、小さな雫がこぼれ落ちる。細い通路には、各家の植木がその区切りもあいまいに、所狭しと並んでいる。いつ壊されるかもしれない古巣に、身を寄せあって暮らしている人々がいる。


 今日も、隣り合った窓が順々に開き、住人同士の窓会話が始まった。深鳥は下から声を掛け、持っていた鉢を軽く掲げる。注文主が気づいて手を振った。


『そうかい、店をたたんで引っ越すのかい……寂しくなるねぇ』

 注文主のおばさんがそう言って溜息をついた。深鳥はいつものように窓越しにお代をもらい、ポシェットにしまう。事情を知った他の住人たちも、深鳥の話を聞いて残念がった。

『嬢ちゃん来てくれるの、いつも楽しみだったんだ』

『あたし達の事、忘れないでおくれよ、ねえ』

『こりゃ、急な話で。向こうには今度は何をしに行くんだい?』

 振り返り、深鳥は笑顔で答えた。

『空に逢いに行くの』

 

 帰り際の深鳥を追いかけてくる、まだ小さな子供達。「お姉ちゃん遊ぼうよ」と誘う、つぶらな笑顔。深鳥は思わず一人一人抱き締める。どの子も不思議そうな顔をしていた。


 みんなの手を覚えている。ひとつひとつ違う小さな手、温かい手、しっとりしてる手、そして、しわくちゃな手……

 

 帰り道の途中にある長屋には、おじいさんがひとりぼっちで住んでいる。どこもかしこも壊れていて、間に合わせのトタンがあちこちに打ちつけてある。

 

 ポリカトタンの青い屋根から注ぐ、青い光。おじいさんは目を細めて見つめる。この青が本当の空を思い出させる。わしの心の中にある、幼い時分の空だよ、と。

 白いおひげが溜息に揺れる。ロッキングチェアに座り、膝掛けを直して上を見る。ここには空が無いといつも言っていた。


 深鳥が生まれた少し後、暑かった地球は寒くなった。冬が来ないかわりに春も来ない。都市(ユグ)はさながら巨大な温室で、空も森もあるけれど、海はない。都市の外で生まれたと両親から聞いていた深鳥だが、物心ついた時には都市にいて、ずっとここで暮らしてゆくのだと思っていた。でも……


『さぁ深鳥行くわよ』

『おばあちゃんが待ちくたびれてるよ』

 

 憧れていた両親の故郷は、初めて来たのに何故かとても懐かしくて、深鳥をずっと待っていてくれた気がした。空は青いばかりでなく、たくさんの色があるのだと、深鳥は千久楽に来て初めて知った。本当の空は深くて、底がない。

『風、強いね』

 深鳥の呼びかけに、父の草治が嬉しそうに頷いた。

『風の神様がいるところだからね』

 風が何もかも洗い流す。千久楽はそうして守られたという。


  *


 雨上がりの空。大移動をする雲と空との境界がくっきりと浮き出ている。風が過ぎると葉陰では雫が降り注ぐ。まだ濡れたあらゆるもの達が、雲から射込む日の光で燦然とする、洗いたての世界。

 

 深鳥は立ち止まって、空を見上げた。

 息を吸い込む。千久楽にはいろいろな空がある。同じものは一つもない。雲が巧みに空を演出する。いつだって空はキレイだ。

 でも、深鳥が何より心を惹かれるのは、雲一つない真っ青な空。見ていると吸い込まれる。落ちていくような浮遊感さえ感じる。

 気が遠くなるほど深いーー快晴の眼の奥にはそんな空がある。

 逢いたい、と急に深鳥は思った。逢いたくて、居ても立っても居られなくて、体が勝手に動き出す。


 深鳥は入らずの森に入ると、慣れた獣道を辿り、ゆらぎを抜ける。すると一気に視界が開けて、〈庭〉と呼ばれる不思議な場所に深鳥は立ち尽くしていた。


 一面の草原の中に快晴がいた。いつものように素振りの稽古しているのを、深鳥は少し離れた木陰から見ている。

 

 そのうち、タンポポの唄がどこからか聴こえてきて、深鳥はふぁっと欠伸をした。不思議な歌声はいつも深鳥を眠りへと誘う。

 深鳥は首を振るって、眠気覚ましにシロツメクサを摘んで編み始めた。途中までは良かったが、最後の方はもう眠くて、繋げる仕上げの途中で、深鳥はとうとう眠りに落ちてしまった。髪を揺らす微風がタンポポ達を撫でていく。

『オヤスミ』

『オヤスミ ミドリ』

『オツカレ カイセイ』

 

 快晴はのぞき込むように、木にもたれる深鳥の寝顔を見ていた。手から離れた花冠を取り上げ、おもむろに深鳥の頭に載せる。

 

すとん、と膝をつく。手を延ばし、頬にかかる横髪を除ける。快晴は少しためらった後、深鳥に顔を近づけ、ゆっくりとまぶたを降ろす。

 

 花冠が頭から揺れ落ちた。

 息苦しさに深鳥が目を開けると、快晴の顔がとても近くにあった。その眼は深鳥を見ていただろうか……まどろむように未だ(うつつ)を退けている。優しく、とろけるような眼で。


 伏せたまつげに、眼の中の空が(かげ)る。深鳥は吸い込まれるように見つめ、そっと快晴の頬に手を添える。

「……快晴?」


 止まっていた時間が動きだす。

 少し困ったような顔をして、快晴は俯きがちに顔を離し、立ち上がった。

「風邪……ひくぞ」

 座り込んだままの深鳥に、快晴は手を差し出した。深鳥は不思議そうに見上げながらその手を取った。 

「風が冷たくなってきた」

 快晴の言葉とともに、深鳥は唇がすぅとするのを感じた。風が熱を奪っていったのだ。快晴は地面を見下ろすと「忘れ物」と花冠を拾って、深鳥の頭に乗せた。

「帰ろう」

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