神語り〈九〉
「雪が舞いそうだな……」
ウルは呟き、注意深く空を見上げた。
里長とババ様の帰りは二日ほど遅れていた。チクラの人々は心配で冬支度の作業もままならず、入れ替わり立ち替わり、集落の入口である2本の木柱をうろついては、遠くに目を凝らしたりしていた。
里長の息子であり、留守を預かる立場から、ウルもすでにピタカへ向かって使いを出していた。行程がただ遅れているのであれば、途中で里長たちと落ち合えるはずだった。
だが里長たちは、その身は無事ではあるものの、相変わらずピタカで足止めをされていた。もちろんチクラの人々はそんなことは知る由もない。
その折、渡り人の北上が再び始まっていることを、偵察していたテダが伝えた。追い討ちをかけるように、人々の胸にはさらに不安が募っていった。
「こんな時に―― 」
「奴らが来るのも時間の問題か……」
テダとウル、それから年の近い若者数人が集まって話し込んでいる。
「いや、まだチクラの場所は向こうには知られていない。風の神が追い返してくれたんだよな、テダ」
話を振られたテダは難しい顔をする。
「……ああ、だが海の民の誰かが口を割ったかもしれないし」
それを聞いて、皆不安そうに黙り込む。テダは続けて言った。
「でもここ半年は偵察しても動きはなかった。ここにきて動き出したのは、むしろトゥカル狙いなんじゃないか?」
トゥカルが渡り人を捕らえ殺したことはすでに周辺の民に知られていた。
「それに奴らは今、アズモの地で神殿造りに躍起になってる。こちらに割く人員はないはずだ」
すでに侵略された海の民・アズモの地では、手近な森から木が大量に切り出されている。それが渡り人たちの神殿のためなのだと知り、チクラの人々は我が身のことのように憤慨していた。
「神殿など、何のために?」
「おろかな……神々を留め置けるわけがないのに」
若者たちは不可解そうに顔をしかめる。
「神なんて、本当はどうでもいいのさ」
テダが暗い笑みを浮かべた。
「神を祀る者が地位をたしかにするために、神を利用するんだ」
「海の民が……哀れだ」
若者たちの話を、岩の上でひっそり聞いていた小さな老人が、長いひげに埋もれた口を動かし、かすれた声で言った。
「海を、土地を奪われ……海の神をも葬られたと聞く」
ウルが息を飲んで尋ねた。
「神を葬るなど……そんなことが?」
老人は奥まった眼に鋭い光を宿し、答えた。渡り人が用いる青銅の刀には神を殺す力があるのだと。
「渡り人はな、とうに神を見失った。その代わり、人を神にし始めたのだよ……」
老人は深く溜息をつくと、そのまま黙り込んでしまった。
「まだ、吾らには風の神がいる」
若者の一人が周りを鼓舞するように言った。
「風の神は強い。前のようにきっと渡り人を追い返してくれる」
皆次々と同意した。
「ああ」
「そうだ」
「でも――この頃、風が弱まってる気がする」
一人が恐る恐る言った。
「父たちが言ってた。……サユメと神が森で戯れていたって」
それを聞いたウルは、何か一つの考えに思い至ったのか、呟いた。
「まさか、風の力を弱めるために、サユメは――?」
テダはウルをたしなめるように口を挟んだ。
「おい、いくらなんでもそれは――」
「ウル!!」
青ざめた顔で走ってくるのは、ウルが使いにやった足の速い男だった。
「二人が――消えた」
「!」
男はウルの手前で崩れて、息も絶え絶えに声を絞り出した。
「里長たちはとっくに……ピタカを出たっ…て……途中で何か、あったんだ」
「そんな……」
ウルは力が抜けたようにその場にしゃがみ込む。男は付け加えた。
「それに……アズモから、渡り人が……こっちに向かってる」
「あっ」
サユメはつまずいて、暗い部屋へと倒れ込んだ。木で組んだ格子の扉ですばやく入口を塞がれる。
ババ様の家にいたサユメだったが、急にやってきた男と女たちに目隠しと手を縛られ、大きな男にしばらくかつがれて、どこかもわからない小屋に閉じ込められた。目隠しは自ずと外れ、縄も切られていたが、不自由な身であることは明らかだった。
サユメを運んだ大きい男が番人として残ったが、外見と似合わず、心根は優しいようだった。夜、入口と窓の隙間をカヤで塞ぐ前に、男は済まなそうに言った。
「悪く思わないでくれ……今はこうするしか……里長やババ様たちが戻るまでは」
男はカヤを押し込みながら、独り言のように呟いた。
「それにここにいる限り、今は安全だ」
その夜、松明が灯る小屋の前に、ヌイたち数名が差し入れに現れた。番人は周囲を伺いながらこっそり「裏へ回れ」と指示した。男はヌイの従兄なのだった。
「サユメ……」
ヌイが窓の位置を探り出し、カヤを取り除いて、格子越しに呼びかけた。
「こんなことになって、ごめん……皆、里長たちが戻らなくて混乱してるんだと思う」
サユメは穏やかに首を振った。
「お腹、空いたでしょ? これ、食べて」
一つ二つユリ根の団子を、格子越しのサユメの手のひらに落としていく。他の少女たちも干した柿や炒った木の実を代わる代わるサユメの手に落としていった。
「もう少しの辛抱だよ」
「必ず出してあげるからね」
一人一人、サユメの手を握り、小屋を後にしていった。
今やチクラの里は夜でも騒がしかった。二日ぶりに狩りから帰ったアトは、状況を知って愕然とした。
「これは一体……サユメは?!」
アトが肩を掴んで問いただすと、里人は顔を背けた。
「それは教えられない」
アトは声を荒げる。
「サユメをどこに隠したんだ!」
里人は、普段静かなアトのただならぬ様子に驚きながらも、苦々しく言った。
「やはりあの娘は災いだ。受け入れるべきではなかった」
「殺れ! あいつは渡り人の手先だ! あいつがババ様たちを引き渡したんだ」
「風が弱まったのも全てあの娘のせいだ」
背後から届く罵声に、アトは振り返って睨みつける。
「サユメは神が連れてきた娘だぞ……!」
「だから、だ」
カッと地面を穿つ杖の音。ババ様の次に古老の女が、重たそうな眉を上げ、アトを石のようにじっと見上げる。
ババ様ほどではないが、この老女も何かしらの力を持っている。ただ人嫌いなのか、いつも一人で行動し、たまに里人に言われて獲物を届ける以外は、アトもほとんど関わりがなかった。
「汝も気づいておろう? 風が弱まっていることは。……そう、神と人が交わっている証だ」
アトは息を詰める。
「……どうやら、風の子は人になりたがっているようだ」
老婆は体の方向を少し変え、おもむろに杖を地面に打ち付けはじめた。
「神は神、人は人。人が神の域に踏み込むのも、その逆も罷りならぬ。元より相入れないものだったはず。……もし神と人が交わればどうなる……神の魂は慰められ、風は鎮まろう。だが、それも過ぎれば風の力は失われ、神も消える」
杖の動きがぴたりと止まった。
「里長たちがいない今、もはや一刻の猶予もない。渡り人はそこまで来ておる。風の力を取り戻すため、あの娘の命を――その役目、汝がふさわしい」
老婆の杖がまっすぐアトに向けられる。アトの表情が凍りついた。
「女子にはできぬ。まして、急所を外すようでは苦しめるだけ。チクラ一腕の立つ汝ならば」
アトは首を振るった。
「……できない……!!」
「汝がやらないなら吾がやる」
名乗り上げたのはテダだった。別人のように無表情だった。
「吾なら迷いなく弓を引ける。苦しませずに送ってやれる」
アトは体を硬くし、強い力で拳を握った。
「そうすることが、本当にこの里を救うと? まだ若い娘の命をくべてまで」
テダが諭すように言った。
「皆が生きていくためだ、アト……」
アトは信じられないような目でテダを見、それから血の気の失せた顔を垂れ、その場を駆け出した。




