風の形代
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宮司と快晴は無言のまま、しばらくお互いを見合っていたが、ふいに快晴はその目を伏せた。
「そうか……」
何ともないと言ったら嘘になるが、前に座する少年をむしろ宥めるように宮司は頷いた。
正式な後継選びがなされるまで、毎年尋ねる責務が宮司にはあった。しかし、先代の那由他でさえ選出に長い時を要したのだ。快晴に限って急かすわけにいかない。
「それなら」と言って、宮司は話を切り替える。
「もうすぐ那由他も戻ってくることだし、年齢の件はどうにかするから、また二人で組んでみたら……」
いつもの無表情が面喰らった感じになり、快晴は声低く答えた。
「無理です」
「君達の舞は今思い返してもかなりの反響だったよ。特に、君の女手はなかなか評判が良くてね」
にこにこする宮司に快晴は苦い面持ちで見返した。本気で言っているとは到底思えないのだが、冗談でも有り難くない提案だった。
宮司は残念そうに微笑う。
「承知した。では昨年通り……」
「……はい。今年も代役を」
快晴は前にそっと両手をつき、一礼する。
快晴を見送ってから宮司は部屋に戻り、開け放ってある縁側の向こうの庭を一心に見つめた。春先の心地いい陽気とは裏腹に、宮司の心には暗く冷たいものが居座っていた。
『おそらく、快晴で最後だ』
以前そう告げた那由他は、彼らしくない硬い表情だった。
先代の後継である那由他は〈風読み〉という先を見通す能力を持つ。
風の神を祀り、また異能を有すると言われる千久楽人の中で、あれほどの力を持つ者はそう現れはしまい。
那由他の予見通りなら、快晴は最後の後継となり、誰も選ぶことなく千久楽は終わってしまう――宮司は姿の見えない神に心の中で問いかける。
――なぜ、快晴で最後なのです。
宮司は首を振るった。宮司である自分が、その判断を下すにはまだ早すぎるように思えた。
千久楽は終わらせるわけにはいかない。未だ神棲むこの地を――
宙に放たれた石が陽を隠す。神社の集会所を背に歩きながら、快晴は扱い慣れた勾玉を片手で弄んでいた。
――俺に分かるのか?
確信はなかった。そもそも、どういう基準で後継を選ぶのか快晴にはよく分からなかった。
快晴は祭の花形である舞手を務めてきた。舞手は常時二人いるもので、後継とは選出権を持つ舞手のことである。今は快晴がその後継の立場にあり、選んだ相手に〈形代〉と呼ばれる勾玉を譲り渡すのが儀礼だ。
しかしすぐに見つかるとは限らない。その場合、代役を立てれば神事は一応進行できるものの、いずれは正式に誰かを選ばなければならない。
舞の技量だけでいうなら、今の代役の娘で十分満たしているだろう。代役なのに自分などよりずっとひたむきに勤めを果たそうとしている。しかし選ぶ基準は技量ではないらしい。――第六感、と那由他なら答えるだろうか。
快晴が舞手になったのは9歳の時のこと。千久楽に帰郷したばかりの快晴を、先代の後継である那由他がいきなり舞のパートナーに選んだ。そしてあげくの果てに、自分の役目の一切合切を快晴に委ね、千久楽の外部の大学へ進学してしまった。気が変わって大学院に進まなければ、そろそろ帰ってくるはずだが。
言いたいことは山程あった。彼の選択に。
風の神の伝承など。神事や舞も本当は興味がなかった。神なんて結局、人の空想でしかないと快晴は思う。
千久楽が古い土地とはいえ、神などとうに居なくなっていて、形骸化した祭だけが残っている――それが現実なのだろう。
快晴が千久楽に帰ってきたのは、天文台があったからに他ならない。……すべては台長である亡き父の任務を引き継ぐためだった。
空気が澄んでいて観測に素晴らしい条件が揃っている。しかも〈庭〉という異界まで存在するという地理的魅力が快晴の関心の全てだった。 人に関わろうとも思わなかったし、学校に行く必要も感じなかった。人里離れた森の中で一人で暮らし、時々神社に赴き、観測データを宮司に報告する。ただそれだけでいいと思っていた。
それなのに、千久楽に帰ってくるやいなや、那由他が自分を舞のパートナーに指名した。色々な人との関わりができた。学校にも神社にも頻繁に通わなくてはならなくなった。それに舞や祭の作法、千久楽のしきたりも覚えなくてはならなかった。
不本意ながら、年に数回は行われる祭祀をこなしてこられたのは宮司の計らいが大きい。
『体のしなやかさは剣道には欠かせないだろう。それを舞で培っていると思えばいいじゃないか』
辞めたいとこぼした快晴に宮司はそう提案した。あれはまだ中学に上がる前だ。
『長い目で見れば、君にとって決して損ではないと思うが?』
そう言われ、うまく丸め込まれた気がしなくもない。妙なことに、にこにこと微笑まれるとそれまで意気込んでいた力が抜けてしまう。それが宮司の策略のかもしれないと最近の快晴は思ってしまう。
――風の形代……渡す者はまだ見つからない。
強さを増す春先の風。温く、瑞々しい――那由他と初めて会った時もこんな匂いの風だった気がする。
正面から楽しそうな声が聞こえてくる。顔を上げ、快晴ははっとした。そこには神社の一人息子の聡と、深鳥がいたからだ。深鳥も気づいて笑顔で会釈する。
「どうしてここに?」
先に尋ねたのは聡だった。たちまち快晴は元の無表情に戻る。
「別に」
それだけ答えると、一瞥もせずに二人の前を素通りして行った。
快晴の態度に、聡はいささかムッとした様子で深鳥に尋ねる。
「知り合い、だったんですか?」
「うん、こないだ……ちょっと助けてもらって」
聡は信じられないと言うように驚きの表情を浮かべた。
「助ける……あの人が?」
聡と別れた後、少ししてから深鳥は入らずの森へ足を運んだ。
快晴に念を押されていたので、見つからないようキョロキョロしながら、こないだとは違う道を進んで行く。
ブナの森は明るいが、奥に行くほど大木が増えるため、その根を乗り越えて行かねばならず、気を付けないと方向を見失ってしまう。何とか快晴に教えてもらった目印を辿り、〈ゆらぎ〉の前までやって来た。
そこに立った途端、強い風がどう、と吹き寄せてきた。葉が枝からちぎれるように辺りを乱舞する。
深鳥がうっすら目を開けると、見渡す限りの草原の中に、一本だけその雄姿をさらしているブナの大木があった。〈ゆらぎ〉を抜けてさらに歩くと、木の根元に快晴がいるのが見えた。道着姿で竹刀を振りながら体を前後させている。
「道、教えてくれてありがとう」
深鳥が声をかけると快晴は手を止めた。
「聡といたんじゃなかったのか?」
「聡君は買い出しがあるって出かけていったよ」
「ここに来るの見つからなかったか?」
「うん!」
嬉しそうな深鳥とは反対に、快晴はムスッとしてまた素振りを始める。教えたのはかなり不本意だったらしい。
「あの……」
竹刀が宙を切る音が続く。快晴は深鳥にはお構いなしで振り続ける。
「昨日の試合、見たよ」
「……」
「すごかった。優勝おめでとう」
「……どーも」
それだけ言って、快晴の手は休むことはない。シュッ、シュッと規則正しく、繰返し頭上に弧を描く。
深鳥は座って見学することにした。話しかけたら邪魔になると思ったからだ。傍らでタンポポ達が気持ちよさそうに風に揺れている。
快晴の竹刀を振る姿は見てて清々しさがあった。背筋がしなやかに反り、腕はバネのように俊敏に動き、ぴんと前で伸びて止まる。深鳥よりゆうに頭一つ分以上は高く、すらっとしているのもその美点を助長した。
その時だった。ころん、と何かが快晴の足下に落ちて転がった。深鳥は拾おうとして思わず手を延ばした。すると、快晴の着る袴が顔に被さってきた。
「おい、危ないだろ! 邪魔するなら——」
「これっ」
叱りをそっちのけで深鳥はしゃがんだまま、手の中の石を空にかざした。
「きれい……」
それは雫の形を少し曲げたような石――風の形代と呼ばれる勾玉だ。
勾玉の中に浮かぶ世界に深鳥は見とれていた。少しずつ傾けると、入ってくる光の角度で色が変わる。空に浮かんでいる彩雲の色とも思えるし、あるいは、遠浅の海に陽の光が遊んでいるような色でもある。
快晴が深鳥の手から勾玉を引き取ろうとすると、深鳥の背中にふわりと羽根が咲いた。快晴は思わず息を引っ込め……伸ばしかけた手を今度は羽根の方に向けた。
初めて庭で逢った朝――深鳥はこの羽根で空から降りてきた。そして深鳥が去った後、快晴は降りゆく羽のひとひらを手中に受け止めたが、跡形もなく溶けてしまった。かすかな温もりだけを残して。
この羽根は一体何なのだろう。なぜ現れたり消えたりするのだろう。そして、どうして自分には見えるのか――
不意に風が強まり、快晴の指先から無数の羽が散っていった。
まるで白昼夢を見ているようだ。辺りをうっすらと白く染めて、その羽のいくつかが目の前を……快晴の体を通り抜けていった。
言葉が自然とこぼれ落ちる。
「やる」
思ってもみない言葉に深鳥は驚く。
「でも――」
深鳥は言葉を飲み込んだ。快晴が目の前にひざまずいていたからだった。
「その代わり、頼まれて欲しい」




