表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
風が廻る場所  作者: 飛水一楽
終章
100/116

囚(とりこ)



髪を撫でる、優しい手があることを、

深鳥は知っていた気がする。

小さな頃から……もしかすると、もっとずっと前から。



 草が頬をくすぐり、深鳥の睫毛が揺れた。

「ん……」

 ぼうっ、ぼうっと耳元を過ぎる風。それから、遠くでさざめく木々の音。

 深鳥は起き上がり首を廻らす。果てない空と草原の狭間に、タンポポが一面揺れていた――久しぶりに見る、懐かしい庭の景色。


 ――どうして、ここに?


 前後を思い出そうとして、深鳥は両手を着いた草地を見つめる。触れる草は柔らかく、繰り返すロゼットの重なりが、混乱する心を鎮めていく。


 たしか、最後に見たのは聡の姿だった。驚いた顔ででこっちを見ていて、互いを隔てるように目の前が水面のように揺らいで……きっとあの時、ゆらぎを通り抜けていたのだろう。


 快晴は……一緒にいたはずの快晴の体がない。深鳥は不安に駆られて立ち上がる。そして何気なく風の来る方を見て、体を竦ませた。

 

 快晴が佇み、じっとこちらを見ていた。逆光の影の中でも姿は淡く光を帯び、白銀の髪は光を透かし、青い眼は照らされた湖面のようにたゆたう。仄明るい肌を流紋状の刺青が埋め尽くしている。

 深鳥は後ずさる。

 草原を駆ける風の息吹。雲は(めぐ)り、あらゆるものが揺れなびき、愛でられている。ここは神さまの庭。この方は……快晴の姿を得た、風の神なのだ。


「!」

 気づいた時にはもう、風の神は深鳥の目の前に立っていた。

 見上げる間もなく囚われ、逃げ場をなくす。深鳥を胸に埋め、風の神はささやく。少し低い凛とする声で。愛しい人の声で。

「……サユメ」

 深鳥の鼓動が大きく波打った。サユメ、サユメ…………繰り返し耳に寄せる残響。

 幼い頃、その名前とともに心も体も囚われていた。〈深鳥〉という名前を奪われ、逃げ出すことさえ思いつかずに。

 

 ――私は人形だった。この方の………



  *



 うつぶし色の髪を散らばらせ、年端もゆかぬ少女が横たわる。雲のようにふかふかのものに埋もれて。

 少女は眠たそうに目をこすり、枕元に頬ずりする。うんと伸びるように動かした片手と片足が、くん、と引っかかった。    

 少女は驚き、おそるおそる自分の手足を見た。手首と足首それぞれに巻きつくか細い糸。

 それは枷だった。ここからどこへも行けないことを、少女は知った。


 辺りはひんやりと霧に包まれている。繭のような球体の籠の中で、少女は手をかざす。

 白い糸で編まれたような網目を風が吹き抜け、籠が揺れる。空のどこかに浮かんでいるようだ。


 少女の背にある羽根が、彩雲のように色づきかけている。

 茫然と座り込んだまま、少女はゆっくり顔を上げ天頂を見る。細かく刻まれた青い空。目を覚ましてからずっとこうして、ひとり夢を見る。


 夢に出てくる透明な建物には、いつも光が注いでぽかぽかと暖かく、色々な形の葉をもつ木々がひしめいて、いい匂いのする花が咲いて。

 肩に乗った鳥が話しかけてくる。両親が代わる代わる少女の頭を撫でていた。ガラス玉のような虚ろな眼に笑いかける。優しく、寂しそうに。


 二人の元へ行きたい。少女は思った。でも行けなかった。名を取られてしまったから。

 見えない壁に隔てられ、少女の呼ぶ声は届かない。


 ここだよ、私。お父さん、お母さん――


 目の前が暗くなる。両目を塞ぐ冷たい手が頰に延び、小さな少女の顔を振り向かせた。

『サユメ』

 そう呼ばれ、少女は不服そうに見つめ返す。少女よりは一回り年上に見える風貌の神は、少女を抱き上げると、年の離れた兄と妹のようでもあった。

 風の神は少し困ったように微笑うと、慈しむように少女の髪を撫で、羽根を掻き、そっと唇を重ねる。今度は幼い愛人のように。


 愛でられるほど忘れてしまう。何もかも……何を夢見ていたのかも。

〈深鳥〉それは、誰の名前だったのだろう。

 羽根がひとひら、ふたひら、抜け落ちてゆく。少女の心、少女の記憶。雪のように辺りを埋めてゆく。



 *



 枷がなくなると、少女は不思議そうに自分の手足を見た。

 無垢な眼差しに、風の神はいつものように近付こうとはしなかった。

『お行き……』

 囚われたままの少女の魂は未だ目覚めず、いつまでも幼ないままだった。風の神は思慮し、少女が人の世で娘になるまで手放すことにしたのだ。 


 後ろ髪を引かれるように、少女は何度も振り返ったが、やがて自由になった喜びで羽根をはためかせると、いつも見る夢の中へと飛び立っていった。


 ガラス張りの温室の中、蝶がひらひらと花から花へ移り、幼い少女の髪に、鼻の上に止まった。


 くしゅん。


 その声に、時が動き出した。

 少女と母の目が合う。母は娘の目に光が宿っているのに気づいて、その頬を両手で包むと、つぶさに娘の顔を見た。

『…………深鳥?』

 それが、自分の名前であることを認識して、深鳥はこくんと頷いた。

 涙ながらに抱きしめる両親に、深鳥はやや窮屈そうに手を伸ばし、二人の頰に順に触れた。

『……あさん。おと……さん?』



 *



 深鳥は抱かれる腕から逃れた。

「サユメ……?」

 風の神は深鳥の手を掴み、不思議そうに見る。深鳥は俯いたまま首を振った。

「私は……サユメじゃない」

 悲しみに満ちた眼で風の神を見る。

「あなたも、快晴じゃ…な……」

 深鳥は崩れるように目の前の胸に額をつけた。ぽたぽたと涙が落ちる。


 ――やはり汝は愛してしまった。人の子を。


 深鳥の頭を撫でながら、風の神は目を閉じる。白銀の髪がさらさらと宙を舞い、風景に溶けてしまいそうだ。

「……生まれ変わった汝を探すと」

 風の神は自分を示すように、胸に手を置いた。

「この者は約束した」

 深鳥が恐る恐る顔を上げる。互いの眼が間近に合った。

「この者は命を費やし、その役目を終えた。……すべては(いにしえ)からの運命(さだめ)


 深鳥は長く黙り込んでいた。

 歯車はとうに回っていたのだ。この庭で快晴と出逢ったことも。二人が恋人になったことも。でもその先は? ……叶わないのだ。共に生きることも。ねじれた運命を覆すことも――


「快晴は……………私のせいで……」

 深鳥はふるえた唇で呟き、両手で顔を覆った。風の神はひざまずくと、深鳥の手を解きながら諭した。

「この者は願いを叶えた。古、守れなかった汝を救えたのだから」

 不可解な深鳥の眼に、神は目を逸らし、言った。

「すべては……汝の内にある」

 風の神は深鳥の前に手を差し伸べた。

 

 目を逸らしてはならない。知らなくてはならない。神と人の間に古、何があったのか――

 深鳥は手を延ばす。運命に抗う手を。流れを変えるために。

 

 ――快晴は私を守り続けてくれた。今度は私が守る番だ。


 手を重ねた途端、体からするすると何かが引き出されていき、同時に意識が薄らいでいった。

 眠りにつくように深鳥の息が浅くなっていく。瞼が落ち、その体が草の中に沈んだ。


 気がついた時には、深鳥は足元に横たわる自分と、自分に被さるように倒れている快晴の姿を見ていた。

 思わず声を漏らしそうになり、後ろから腕を引かれた。風の神が先を急ぐように見つめてくる。

 再び風の神の手を取ると、深鳥の背にふわりと羽根が咲いた。促されるまま風に乗り、やがて深鳥自身も風になって、空を羽ばたいていく。

 視線の先、雲が分かれ道になり、異なる世界が見えてくる――


 物心ついた時は都市にいた。本当の森も海も空も知らなかった。なのに。

 どうして森が懐かしいのか。

 風がこんなに愛おしいのか。

 空に憧れたのか。


 ――きっと私は知ってたんだ。ずっと……


 ふぁさりと羽根が宙を薙ぐ。

 この羽根は夢を渡るためのものだ。人が見続けてきた、命という夢の日々の……

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ