囚(とりこ)
髪を撫でる、優しい手があることを、
深鳥は知っていた気がする。
小さな頃から……もしかすると、もっとずっと前から。
*
草が頬をくすぐり、深鳥の睫毛が揺れた。
「ん……」
ぼうっ、ぼうっと耳元を過ぎる風。それから、遠くでさざめく木々の音。
深鳥は起き上がり首を廻らす。果てない空と草原の狭間に、タンポポが一面揺れていた――久しぶりに見る、懐かしい庭の景色。
――どうして、ここに?
前後を思い出そうとして、深鳥は両手を着いた草地を見つめる。触れる草は柔らかく、繰り返すロゼットの重なりが、混乱する心を鎮めていく。
たしか、最後に見たのは聡の姿だった。驚いた顔ででこっちを見ていて、互いを隔てるように目の前が水面のように揺らいで……きっとあの時、ゆらぎを通り抜けていたのだろう。
快晴は……一緒にいたはずの快晴の体がない。深鳥は不安に駆られて立ち上がる。そして何気なく風の来る方を見て、体を竦ませた。
快晴が佇み、じっとこちらを見ていた。逆光の影の中でも姿は淡く光を帯び、白銀の髪は光を透かし、青い眼は照らされた湖面のようにたゆたう。仄明るい肌を流紋状の刺青が埋め尽くしている。
深鳥は後ずさる。
草原を駆ける風の息吹。雲は廻り、あらゆるものが揺れなびき、愛でられている。ここは神さまの庭。この方は……快晴の姿を得た、風の神なのだ。
「!」
気づいた時にはもう、風の神は深鳥の目の前に立っていた。
見上げる間もなく囚われ、逃げ場をなくす。深鳥を胸に埋め、風の神はささやく。少し低い凛とする声で。愛しい人の声で。
「……サユメ」
深鳥の鼓動が大きく波打った。サユメ、サユメ…………繰り返し耳に寄せる残響。
幼い頃、その名前とともに心も体も囚われていた。〈深鳥〉という名前を奪われ、逃げ出すことさえ思いつかずに。
――私は人形だった。この方の………
*
うつぶし色の髪を散らばらせ、年端もゆかぬ少女が横たわる。雲のようにふかふかのものに埋もれて。
少女は眠たそうに目をこすり、枕元に頬ずりする。うんと伸びるように動かした片手と片足が、くん、と引っかかった。
少女は驚き、おそるおそる自分の手足を見た。手首と足首それぞれに巻きつくか細い糸。
それは枷だった。ここからどこへも行けないことを、少女は知った。
辺りはひんやりと霧に包まれている。繭のような球体の籠の中で、少女は手をかざす。
白い糸で編まれたような網目を風が吹き抜け、籠が揺れる。空のどこかに浮かんでいるようだ。
少女の背にある羽根が、彩雲のように色づきかけている。
茫然と座り込んだまま、少女はゆっくり顔を上げ天頂を見る。細かく刻まれた青い空。目を覚ましてからずっとこうして、ひとり夢を見る。
夢に出てくる透明な建物には、いつも光が注いでぽかぽかと暖かく、色々な形の葉をもつ木々がひしめいて、いい匂いのする花が咲いて。
肩に乗った鳥が話しかけてくる。両親が代わる代わる少女の頭を撫でていた。ガラス玉のような虚ろな眼に笑いかける。優しく、寂しそうに。
二人の元へ行きたい。少女は思った。でも行けなかった。名を取られてしまったから。
見えない壁に隔てられ、少女の呼ぶ声は届かない。
ここだよ、私。お父さん、お母さん――
目の前が暗くなる。両目を塞ぐ冷たい手が頰に延び、小さな少女の顔を振り向かせた。
『サユメ』
そう呼ばれ、少女は不服そうに見つめ返す。少女よりは一回り年上に見える風貌の神は、少女を抱き上げると、年の離れた兄と妹のようでもあった。
風の神は少し困ったように微笑うと、慈しむように少女の髪を撫で、羽根を掻き、そっと唇を重ねる。今度は幼い愛人のように。
愛でられるほど忘れてしまう。何もかも……何を夢見ていたのかも。
〈深鳥〉それは、誰の名前だったのだろう。
羽根がひとひら、ふたひら、抜け落ちてゆく。少女の心、少女の記憶。雪のように辺りを埋めてゆく。
*
枷がなくなると、少女は不思議そうに自分の手足を見た。
無垢な眼差しに、風の神はいつものように近付こうとはしなかった。
『お行き……』
囚われたままの少女の魂は未だ目覚めず、いつまでも幼ないままだった。風の神は思慮し、少女が人の世で娘になるまで手放すことにしたのだ。
後ろ髪を引かれるように、少女は何度も振り返ったが、やがて自由になった喜びで羽根をはためかせると、いつも見る夢の中へと飛び立っていった。
ガラス張りの温室の中、蝶がひらひらと花から花へ移り、幼い少女の髪に、鼻の上に止まった。
くしゅん。
その声に、時が動き出した。
少女と母の目が合う。母は娘の目に光が宿っているのに気づいて、その頬を両手で包むと、つぶさに娘の顔を見た。
『…………深鳥?』
それが、自分の名前であることを認識して、深鳥はこくんと頷いた。
涙ながらに抱きしめる両親に、深鳥はやや窮屈そうに手を伸ばし、二人の頰に順に触れた。
『……あさん。おと……さん?』
*
深鳥は抱かれる腕から逃れた。
「サユメ……?」
風の神は深鳥の手を掴み、不思議そうに見る。深鳥は俯いたまま首を振った。
「私は……サユメじゃない」
悲しみに満ちた眼で風の神を見る。
「あなたも、快晴じゃ…な……」
深鳥は崩れるように目の前の胸に額をつけた。ぽたぽたと涙が落ちる。
――やはり汝は愛してしまった。人の子を。
深鳥の頭を撫でながら、風の神は目を閉じる。白銀の髪がさらさらと宙を舞い、風景に溶けてしまいそうだ。
「……生まれ変わった汝を探すと」
風の神は自分を示すように、胸に手を置いた。
「この者は約束した」
深鳥が恐る恐る顔を上げる。互いの眼が間近に合った。
「この者は命を費やし、その役目を終えた。……すべては古からの運命」
深鳥は長く黙り込んでいた。
歯車はとうに回っていたのだ。この庭で快晴と出逢ったことも。二人が恋人になったことも。でもその先は? ……叶わないのだ。共に生きることも。ねじれた運命を覆すことも――
「快晴は……………私のせいで……」
深鳥はふるえた唇で呟き、両手で顔を覆った。風の神はひざまずくと、深鳥の手を解きながら諭した。
「この者は願いを叶えた。古、守れなかった汝を救えたのだから」
不可解な深鳥の眼に、神は目を逸らし、言った。
「すべては……汝の内にある」
風の神は深鳥の前に手を差し伸べた。
目を逸らしてはならない。知らなくてはならない。神と人の間に古、何があったのか――
深鳥は手を延ばす。運命に抗う手を。流れを変えるために。
――快晴は私を守り続けてくれた。今度は私が守る番だ。
手を重ねた途端、体からするすると何かが引き出されていき、同時に意識が薄らいでいった。
眠りにつくように深鳥の息が浅くなっていく。瞼が落ち、その体が草の中に沈んだ。
気がついた時には、深鳥は足元に横たわる自分と、自分に被さるように倒れている快晴の姿を見ていた。
思わず声を漏らしそうになり、後ろから腕を引かれた。風の神が先を急ぐように見つめてくる。
再び風の神の手を取ると、深鳥の背にふわりと羽根が咲いた。促されるまま風に乗り、やがて深鳥自身も風になって、空を羽ばたいていく。
視線の先、雲が分かれ道になり、異なる世界が見えてくる――
物心ついた時は都市にいた。本当の森も海も空も知らなかった。なのに。
どうして森が懐かしいのか。
風がこんなに愛おしいのか。
空に憧れたのか。
――きっと私は知ってたんだ。ずっと……
ふぁさりと羽根が宙を薙ぐ。
この羽根は夢を渡るためのものだ。人が見続けてきた、命という夢の日々の……




