失われた緑の庭 〈前編〉
*
夜明けの空に、一羽の白い鳥が舞っていた。
少年が少し眠い目をこらすと、それが白い羽根を持つ人間だと分かった。
一瞬息を飲んだものの、すぐに気を取り直す。何が起きても不思議じゃない、というのがこの特異な場所の常であるのを思い出したからだ。
少年は近くの大木に身を潜め、その不思議な鳥人間を待った。
草原に降り立ったのは、少年より三つは年下であろう華奢な少女。うつぶし色の髪と背中の羽根が風になびいている。
少女はしばらくぼうっと空を眺めていたが、ちかちか光る不思議な木に気づいて目を見張った。
「きれい……何で光るんだろう」
木はまるで、童話の中のクリスマスツリーの様に美しく佇んでいた。
少女が近づいて幹に触れると、その手を後ろから突然掴まれた。
「!」
少女が声にならない声をあげると、見知らぬ少年が傍に立っていた。
「蛍が光ってるからだよ」
そう言って少年は掴む手に力を込めた。
「掴めるってことは幽霊じゃないよな」
少年は問い詰めるように少女を見据える。少女はおずおずと答えた。
「えと、私、その…………怪しい者じゃないんです」
「……」
羽根があること自体十分怪しい。と思いながら、少年は眉をひそめた。
「ここ、どこですか? もしかしてあなたの家の庭? ……だとしたら、勝手に入っちゃってごめんなさい!」
そう言って少女は手を掴まれたままで勢いよく頭を下げた。ふぁさっと背中の羽根も頭に被さった。
「庭……ね」
そう言うには広すぎる草原を見渡しながら、少年は呟く。
「たしかに昔からそう呼ばれてるけど……俺のでもないし、誰のものでもない」
なぞなぞみたい、と思いながら少女は顔を上げた。目が合い、少年は思い出したように少女の手首を離す。それから、しげしげと少女の背後を見てから言った。
「それより、この背中の何?」
その言葉に少女は慌てて身をひるがえし、両手で自分の背中を改める。
「羽根……………見えるの?」
今更? と少年は呆れながらも頷いた。少女は少し恥ずかしそうに説明する。
「あの、これ、普段は誰にも見えてなくて………体質で時々出ちゃうの。どうしてなのか、分からないけど……」
体質? と少年は再び眉根を寄せる。
少女が手を戻すと、再びふわりと羽根が開いた。微風が少年の髪を揺らし、肌をくすぐる。
「あなたには、見えるんだね」
少女は微笑み、肩をすくめてみせる。それとは逆に、表情を崩さない少年の眼は相変わらず鋭いまま。
「ここでは不思議なことばかりだけど、羽根を持つ人間は初めて見た。……変なやつ」
そうため息混じりに言うと、少年はふと表情を緩めた。
「ま……人のことは言えないか」
おや、と少女は思った。しかめっ面の後だからか、少年の表情がとても優しく見えたのだ。
空には一等星が未だ輝いている。蛍の灯火が消え、木は元の姿を朝霧の中に浮かべだした。次第に周りの風景にも色が宿り始める。
「きれい……」
少女は初めて見る大自然の夜明けにすっかり見とれていた。
際限なく続く草波の中に、一本だけ伸びやかに立つ木。その周りを囲むように白い岩がいくつもあった。まるで羊が隠れているみたいに。
「あれは……?」
少女は白い岩を指差して少年に尋ねた。
「あれは石灰岩。珊瑚礁の亡骸だよ。この場所はきっと、何億年か前の昔は海だったんだ」
――海……?
その言葉はどこか謎めいて、神秘的に少女の中で響いた。
ザザ…ン……
その時、遠くの方で潮騒が聴こえた気がした。――それは、風にさやぐ草木の音だったのだが。
風の音に混じって、ささやき声が聴こえてくる。幼な子が耳元で内緒話をするような、そんな声。
少女は不思議に思い、辺りを見渡した。二人以外は誰もいない。――そう、足元で揺れるタンポポ以外は。
『オハヨー』
『オハヨー、カイセイ』
ごくり、と少女は息を飲み込んだ。たしかに声は足元から聴こえる。タンポポが、不自然に揺れている。
「……はよ」
カイセイと呼ばれた少年は、いつも通りといった感じで短く返事をする。
『ダレ』
『ダーレ?』
『ソノコ ダーレー?』
タンポポ達はこぞって聞いてきた。
「別に、迷い人だよ」
カイセイのそっけない答えにタンポポ達はくじける様子もなく、
『エー ハズカシイノー?』
『ショウカイシテー』
と食い下がった。
カイセイはうんざりした様子で少女をこずき、親指でタンポポ達を示した。
「あいつらお前のこと知りたがってる。聴こえてるよな? 声」
少女はこっくりと大きく頷いた。
「あの、はじめまして……」
少女が挨拶してみると、タンポポ達はうれしそうに揺れた。
『シンガオ!』
『ニュー・フェイス!』
『ワッツ・ユア・ネイム』
――へぇ……タンポポも英語を話すんだ。
と少女は少し驚いたが、合わせて英語で答えてみせた。
「え〜と……私はミドリ。アイ・アム・ミドリ」
『ミ・ド・リ』
『ヒアー』
『カム・ヒアー』
タンポポ達のきれいなハーモニーに、ミドリは喜んで拍手する。カイセイはあくびをこらえながら思った。自分よりは幼いこの少女の方が、タンポポと気が合うんだろうな、と。
そして、かつて気まぐれでタンポポ達に英語を教えたことを後悔したのだった。