秘密は、ランドセルの中に。
姉が自分のことを『僕』と言うようになったのは、いつからだろう。
幼いころは、『あたし』と言っていたはずだ。
気付いたら、姉は泣かない人になっていた。
気付いたら、姉は賢い人になっていた。
気付いたら、姉は『僕』と言うようになっていた。
「祐。いつか僕と二人で、この家を出ようか」
姉がそう言ったのは、俺が小学三年生の時だった。姉と二人で押入れの中に避難していた俺は、『父親という人』が暴れている姿を、襖の隙間から覗いていた。怒鳴り声とともに安物の灰皿が床にたたきつけられ、中に入っていた吸殻や灰が辺り一面に飛散する。俺はその様子から目を離し、姉の方を見た。
薄暗い押入れの中で、姉の眼は光っているように見えた。まるで、暗闇の中でもわずかな光を反射して光る猫の眼のように。
「家出するの?」
「うん。それでもう、二度とここには帰ってこない」
姉は、くたびれた赤いランドセルを抱えて座っていた。今にも分解しそうなそのランドセルは、姉の心をそのまま映しているように思えた。
「お母さんの所に行くの?」
俺が訊くと、姉はあからさまに嫌そうな顔をした。それから
「行かない。あいつは僕たちのことを見捨てたんだよ? あんな奴に、助けなんて求めない」
きっぱりと、そう言いきった。
「だけどどうするの? お父さんはきっと、家出なんて許してくれないよ」
父親にとって、俺たちは道具だった。
叩く、殴る、蹴る、焼く。なんでもできる、都合のいい道具。
「大丈夫」
姉はほんの少しだけ、笑ってみせた。
「僕がどうにかする」
自分に言い聞かすようにそう言ってから、姉は大事そうにランドセルを抱えなおした。
その日、家の一部と、姉のランドセルと、父親が吹き飛んだ。
正確にいえば、姉のランドセルの中に入っていたものが爆発して、家の一部とランドセルと父親を吹き飛ばしたのだ。
そして、ボロボロのランドセルの中に入っていた『それ』は、姉の作ったものだった――
「何書いてるの?」
後ろから声をかけられ、俺はキーボードを叩くのをやめる。いつの間にか姉は俺の背後に立ち、パソコンの画面を覗き込んでいた。
「……俺たちのこと、小説にしようかと思って」
見られてしまったものは仕方がない。俺が白状すると、姉は笑った。
「随分古い話を書いてるんだね。それにちょっと、――ていうか、大分話が違うじゃない。僕はいつの間に、爆弾を作れるような天才児になったの?」
くすくすと笑う姉を見て、俺も笑う。確かにそこは作りすぎたかもしれないが、
「姉さんなら、爆弾だって作れたんじゃない?」
俺は笑いながら、本棚の横に置かれている赤いランドセルへと眼をやった。
「姉さんはどうして、自分のことを僕っていうようになったの?」
訊いてみると、姉ははにかむように笑った。
「僕はね、強くなりたかったんだよ。だって僕たち、いつも殴られてばかりだったから。――なんとなく、『あたし』よりも『僕』の方が強そうな気がしない? だから、僕って言おうと思った」
「……そんなことしなくたって、姉さんは十分強いよ」
俺がランドセルを見ながら呟くと、姉は鋭い口調で言った。
「祐。父親は七年前、誰かに殺された。包丁で何回も何回も刺されて、死んでしまった。残念だけど、凶器も犯人も、未だに見つかってない」
「…………」
「僕たちは、何も知らないんだ。犯人のことも、凶器の隠し場所も、なにも」
俺は、姉の頬へと右手を伸ばした。腫れることがなくなった姉の頬は、その代わりに濡れることが多くなった。
姉はゆっくりと眼を閉じ、それから微笑んだ。
「やだなあ、すぐに泣くようになっちゃって。みっともない」
「……そんなこと、ないよ」
俺は姉の涙を拭いながら、ランドセルへと眼をやった。
くたびれた赤いランドセルは、まだ壊れてはいない。