~第二話 【勇者】様がやってきた~
――共に、行こう。
ああ、そう仰って下さったのは。
こんなにも暖かな風が吹く日だったでしょうか?
「――それは」
春を喜ぶ、のどかな街の片隅。鈍い光を放つ大剣はあまりにもその場にふさわしくない代物だった。
「それは……大道芸の小道具か、なにかですか?」
グロゥは尋ねる。辛うじて声は震えなかったが、唇はかさかさに乾いていた。おかげでなんともたどたどしく、いかにも子供らしい調子で問いかけはなされた。
「ううん。 違うよ」
対する若者はやはり穏やかに答えた。澄んだ声だった。グロゥは再度、若者が掲げる大剣を見つめた。その刀身は遠目にも分かるほど歯こぼれしていた。何を斬ったのだろうか。
「……では」
大剣を包んでいた布が風に揺られるたびに、ぱらぱらと何か粉のようなものも一緒に舞い上がった。赤黒い色をしたそれは、不吉な記憶をグロゥに思い起こさせる。
「では、なぜそのようなものを?」
「【勇者】だから」
若者はにっこりと微笑んでみせた。紅の瞳が細められる。
「僕は退治しに来たんだ――【魔王】を」
*
「……どうぞ、適当に座ってください」
そう言いながらグロゥは部屋の奥へと進み、食器棚へと歩み寄ると2つのティーカップとポットを取り出した。薔薇の花が控えめに、けれども美しく描かれており金で縁どりがなされた美しい食器。それを丁寧に銀のトレイに乗せると、若者が座るテーブルへと運ぶ。陶器特有の澄んだ音が響いた。
「素敵な家だね。 そのティーセットも」
「ありがとうございます」
抑揚のない声で相槌を打ったグロゥの表情は固かった。それきり黙々とティータイムの準備を始める。白を基調としたカップが2つ。静寂が横たわる部屋に、こぽこぽとお湯が注がれる音がする。温かい湯気が立ち上るとようやくグロゥは一息つくことができた。
若者はというと、じっとグロゥを見つめていた。いや、観察していた。微笑を浮べてはいるものの、その瞳の動気は素早く、何かを探して――確認して――いるようだった。
互いに各々のティーカップを手に取る。ふわりと部屋に漂うのは花の香り。それが窓辺に生けられたものから発せられているのか、はたまた目の前のジャムからのものなのかは判然としない。ただ、この広いだけの屋敷にもまた久々の春が訪れているということだけは、確かだった。沈黙の春の中で、二人は向き合って座る。人影らしきものは、今のところ彼ら以外には見当たらない。
「……それで」
ようやく言葉を発したのはグロゥのほうだった。随分と落ち着きを取り戻しているのが自身でも分かった。暖かいものを飲んだためだろうか。それとも多少なりともこの屋敷を『家』と自分が認知し安堵できる場所とみなしているということなのだろうか。
「あなたは、自身が【勇者】だと。 そういうのですか?」
「ええ。 そうです」
対する若者の雰囲気は相変わらずだった。しかし、その言葉遣いが何故か今改められている。
「僕は、【勇者】です」
「馬鹿馬鹿しい」
グロゥは吐き捨てるように言った。本当はあまり感情的にならないように努めたつもりだったのだが、その試みは上手くいかなかったようだ。彼自身それを悟ることは容易だった。隠しきれなかった感情を隠すことはもはや無駄とでも思ったのか、これまで無表情だった顔に苛立ちの色がうっすらと浮かび上がる。幼いはずの顔が、ひどく疲れた老人のように歪められる。
「馬鹿馬鹿しいと言われても……僕は【勇者】なんです」
「では聞きますが」
グロゥはティーカップを静かに置いた。音を全く立てることなく。
「その証拠は?」
グロゥが部屋の空気を震わせる。静かで、それほど大きくもない声だった。しかし、その響きは随分と威圧的でまるで出来の悪い子供を説教するようなものだった。何を愚かなことを言ってるのか。そんなことを言うものではありませんよ――。
「……感じるんです」
しばらくの沈黙の後、若者は言ってほんの僅かに俯いた。グロゥは瞬きもせずに次の言葉を待つ。
「全身で。 【魔王】の気配を、感じるんです」
若者の視線はカップに注がれたお茶にあった。その水面にはおそらく若者の顔が映っているのだろう。しかし、それはカップを両手に抱えている本人にしか分からない。だから、グロゥは若者が何を見ているのか、水面に何が映っているのか、想像することしかできない。
「ありえません」
だが、グロゥは断言する。
「【魔王】の気配ですって? 何を言い出すかと思えば。 そんなことはありえません。
あなたが倒すべき相手など、この世界のどこにも存在しません」
若者はゆっくりと顔をあげた。その表情は穏やかだった。グロゥはふと、この若者はずっと微笑以外の表情を浮べていないことに気がついた。
「そう断言なさるのは」
紅の瞳がグロゥの顔を真っ直ぐに見つめる。
「あなた方が【魔王】を倒したから、ですか?」
射るような視線とは、正にこのことをいうのだろう。表情は穏やかなのに、目を逸らすことが出来ない。許されない。じわりと、掌に汗が滲む。だが、それを拭うことさえはばかられる。
窓の外では黄色い小鳥が一羽、誰のためでもない小唄を口ずさんでいた。若者は音が消えてしまったこの部屋で、その唄を聞く。
春が来たのだ。
眠り続けていたものが目を覚ます。暖かく、そして何かが始まる季節。
ずっと、ずっと待っていた、春が。