~プロローグ~
――敢えてこの世界を例えるのなら、円――
ファンタジーの世界で繰り広げられる、
伝説の【勇者】と【魔王】の物語。
かつ、かつ、かつ――。
僅かな明かりしか灯されていない、薄暗い廊下。影さえもおぼろげになる闇の中を、ただ歩を進めていく者がいた。やたらと足音ばかりが響くのは、足下が大理石のような硬い素材で出来ているからだけではなく、生き物の気配がまるでこの空間に無いためだろう。しかし、廊下を歩くその人物は臆した風も無く闇の中へとまた一歩足を踏み入れていく。
やがて蔦と薔薇の彫刻が施された豪奢な扉が、目の前に現れた。精巧なその細工は美しすぎて、かえって本物ではないことを強調する。色がこの闇の中においても認識できるほどの漆黒であることもまた、その理由の一つではあると思うが。
人物はそこで初めて、歩みを止める。気のせいかと思うほどにささやかな溜め息を漏らし、両手でその扉を開く。扉は荘厳な音を響かせたものの、いとも容易く開いた。まるで誘うかのように。人物はすぐに中には入ろうとはしなかった。恐れたわけではない。扉が開いた理由を――否、扉を開けた理由を、考えていたのだ。扉の向こうを見据える。やはり、闇。しかし闇の中に歪んだ「何か」の気配を感じ、人物は眉をひそめる。
「まだ殺さないよ」
ふいに声がして、人物は身を硬くする。前方を睨むが、それ以上声の主は何も言わない。苛立たしげに人物は大きく一歩、扉を超える。
「…では何の御用です? 魔王様」
闇の中で「魔王」と呼ばれた声の主が笑ったのが分かった。中へ中へと進んでいくが、一向にそれらしき姿が見当たらない。廊下よりもいくばくか息苦しく感じるのはこの部屋全体に悪意が充満しているためだろうか――。ふと考えて人物は苦笑する。それなら仕方がない。自分自身も悪意以外の感情など持ち合わせていないのだから。魔王はしばし沈黙し、そして言った。
「なに。 ちょっとした討伐命令さ」
「では、他の兵にでもやらせればよいでしょう。 私が出るまでも無い」
「それがちょっと曲者でね」
芝居がかった大きな溜め息が聞こえてくる。威厳に欠けるくだけた口調。相手の感情を逆なでするような道化の声で魔王は続けた。
「【勇者】だよ」
人物の思考が停止する。あまりの荒唐無稽さに、失笑すらしそうになる。
「…何事かと思えば、ご冗談を」
「僕が冗談を言うとでも?」
魔王は相変わらず飄々とした口ぶりだが、部屋の雰囲気が一瞬にして殺伐としたもの変化する。まるで部屋自体が感情を持って生きている――いや、部屋自体が魔王の一部なのではないかと錯覚する。一呼吸置いて人物は問いかける。
「失礼しました。 …ですが、あまりに唐突ですね。 根拠はあるのでしょうか」
「根拠があるか、と問われればあるけれど…残念ながらキミには見せられない。 というよりも、見せられるようなものじゃないんだ」
僅かに小首をかしげて、人物は次の魔王の言葉を待つ。くぐもった笑いが部屋に響き渡る。
「感じるんだよ。 この体全体で【勇者】の存在を、感じる」
最後の方は魔王自身の高笑いで危うく聞き取れないところだった。気が触れたかのように笑い続ける魔王の声は高くなったかと思えば地鳴りのように低くなり、聞いているこちらのほうが気が狂いそうだ。さんざん一人で笑い転げたあと、空々しい静寂が戻る。その瞬間を待って、人物は尋ねた。
「【勇者】の姿、形は?」
自分の発した声だけが、空気を震わせる。ややあってパチンと指を鳴らすような音が聞こえたかと思うと目の前に青白い、人の背丈ほどはある火柱が現れた。闇の中突然現れた炎に人物は目を細める。揺ら揺らと炎は形を変え、やがて一人の人間の姿を形作る。
「【魔将】、と人間から称されるキミの働きに期待しているよ」
踵を返して人物は足早に部屋から立ち去る。ある程度部屋の中に踏み込んだつもりだったが開け放たれた漆黒の扉は振り向いたすぐ傍に存在することに気づき、魔王の幻惑に囚われていたことも認めざるを得なかった。部屋から出ると入ってきたときと同じく、荘厳な音を立てて扉は固く閉ざされた。
人物は扉を仰ぎ見る。魔王の意志無くして開かれることのない扉。部屋から出て尚、感じる莫大な魔力とそれを凌駕する殺意と憎悪の念。
「まだ殺さない、だと?」
しかし人物は冷たい表情のまま、未だかつて姿を捉えることさえ叶わない扉の向こうの魔王に向かって吐き捨てた。
「それはこちらの台詞だ」