終章
聞こえたのは「トサッ」という思ったより軽い音だった。 人にぶつかった筈なのに、いや、あの場所から落ちたにしては衝撃がなさ過ぎる。
私は恐る恐る閉じていた瞳を開け状況を確認した。
広がる夏草の緑に変わりはない。そして誰かを下敷きにしている感覚も無かった。
「……莉子?」
地面についていた手を動かす。片手には硬質な、それでいて馴染んだ携帯電話の感触、もう片方には生命力に溢れた夏草の感触――あの柔らかくて温かいものは何処にもなかった。
辺りを見回してみても、まるで何もなかったかのようにただ蝉の鳴き声だけが響いていた。
――もどって、きた?
ばっと上を見上げる。そこには確かに私が掛けた毛布が風に靡いていた。じわりと今更ながら落下の恐怖による汗が滲み背筋を冷やした。だけどそれより怖かった、悲しかったのは莉子がいないことだった。
唐突に三年前にいた私は、唐突に三年後に戻ってきたのだ。
折角、ケータイが戻ってきて莉子と連絡先を交換できるはずだったのに。どうやら、余程空気の読めないものによる仕業らしい。ぶつぶつと文句を言いつつ立ち上がる。草を払い、用済みになったケータイをポケットの中に突っ込んだ。
イラついて握ったせいで、くしゃくしゃになってしまった髪を優しく吹く風が宥めるように撫でていった。相変わらず空に浮ぶ月は飄々としていて、私はまるで仇のように睨んでしまう。
莉子に、会いたい。もう一度だけ会って、わたし達を始めたい。
叶わぬ夢に背中を丸めて幹に寄りかかる。三年の月日があろうと、この樹は何も変わっていない。
「間が悪すぎるわ、全く」
ぽつりと呟いた一言は暑さの中に溶けて、私は一人を知る――はずだった。
「そうでもありませんよ?」
「え」
涼やかな声が耳朶を打った。少し大人びた"それ"はつい先ほどまで聞いていたものに違いなかった。 私は信じられない気持ちを抑えて声のした方へと振り向く。心臓が人生で初めてというほどの速さで動いて落ち着かなかった。
「これ、忘れ物です」
手渡されたのは私の鞄。気に登る時に邪魔だからと幹の側に置いていたものだ。
伸ばされた手から鞄を受け取り、そのまま身体、顔と視線を動かす。たどり着いた先にあったのは見慣れたものとは少し違う、それでも見たかった人のものに違いなかった。
受け取った鞄がそのまま地面に落ちる――この時の私の顔はとても間抜けなものだったに違いない。だって、目の前の莉子の顔がとてもおかしそうに笑っているのだから。
「り、こ?」
信じられない気持ちで目の前の顔を見つめる。じっと見つめすぎて、下手したら穴が開く可能性があるくらい見つめていた。
そんな私の不躾な視線を莉子は少しも気にせず、ただ微笑んでいる。
「はい」
「え、なんで」
聞きたい事も言いたい事もたくさんあった。たくさんありすぎて、私の中で渋滞を起こしてしまっていた。きちんとした文章として言葉を成すには僅かなりとも時間が必要だった。
莉子は不思議そうに首を傾げると、まるで今いることが普通だというように言った。
「何でって、約束したじゃないですか。指きり忘れちゃったんですか?」
「――あ」
三年、経ったのだ。それはつまり約束の年月が過ぎ去った事を意味している。あの時、場所についての取り決めは無かったから莉子がここに来ることに何ら不思議はなく、むしろ真面目な彼女の性格を考えると、きっちりと約束を守ることは分かりきった事だろう。
ゆびきり、と小さく呟いた私に莉子はふわりと微笑んだ。
ついさっきまで一緒にいた彼女より大人びた表情で、綺麗に微笑んだ。
その顔が三年の月日をはっきりと感じさせた。
「三年、経ったのね」
自分に時の流れを認識させるように、事態を飲み込ませるために、私は自然と呟いていた。
「そうですよ」
まだ信じられない私に対して、莉子はとても普通に物事を受け止めているようだった。三年という月日を通り過ぎてきた莉子と刹那に三年前が詰め込まれた私。その二人の間に認識の違いが出るのは当たり前といえば当たり前かもしれない。
「急に消えて、ごめんね?」
「本当に驚きました。すごく探したんですよ?」
莉子にどう見えたかまでは知らないけれど、とても唐突で急激な変化だったのは間違いないだろう。町を離れる彼女に、唐突に消えた人間というのはショックなことだったのではないだろうか。分からない。それでも申し訳ないとは思っていた。
顔を伏せ、謝る私の手にポケットの膨らみが触れた。あ、とそこに入っている存在を思い出す。これも別れる前に莉子に渡そうと思っていたのだが携帯電話のせいで忘れていたのだ。
「でも約束のおかげで会えました。知ってたんですね、三年後から来た事……ううん、あの時に気付いたってことですよね。だから、急に様子が変わって、あの場所に戻ったんでしょう?」
びっくりした。莉子の言う事は一つも間違っていなくて、まるで私の考えが読めていたかのようだった。頭の良さそうな子だなと最初に思ったのは間違っていなかった。
――だけど。
そう、大体はあっている。でも肝心の部分を気付いていない。
「そうね。知ってたから約束した。それは間違ってないわ」
私はポケットから袋を取り出す。あの時はこんな事になるなんて少しも思っていなかったので、本当にさっぱりとした普通の袋だった。もう少し飾りつけてもらえば良かったかなと苦笑する。
今更後悔した所でどうしようもない。私はそれを素直に莉子に手渡した。
「これは?」
「莉子にあげようと思って買ってたんだけど、三年越しになっちゃったわね」
開けてみて?と言えば莉子は少し驚いた様子で恐る恐る手を動かす。中から出てきたのは何の変哲も無いアクセサリーで、でも私が莉子にと選んだものに間違いなかった。
「これ……いいんですか?」
莉子の視線が指輪と私を行き来する。きょろきょろする様子が三年前と重なって微笑ましい。
「良いも悪いも莉子に買ったんだもん。遅くなってごめんね」
私が申し訳なさそうにそう言うと莉子はぶんぶんと頭を横に振って、ぎゅっと指輪を入っていた袋ごと抱きしめた。三年経って同じくらいになった身長は、だけど未だに私の方が高いようで髪の間から覗き見えるその耳は赤くなっていて可愛かった。
「気に入ってくれた?」
「はい。ありがとう、ございます」
笑うと華が咲くよう、なんて、言える人の正気がしれないと思っていた。だけど、今なら私はその人に共感できる気がする。流石に口に出す事はできないけれど、莉子の笑顔は本当に、華が咲いたように私には感じられた。
それでね、と口に出そうとして何を続けたかったのか分からなくなってしまう。言わなければならないことは、言いたいことは中々な量があったはずなのに。
きっと、目の前で笑う彼女のせいで色々なことが頭から飛んでしまったのだ。
「そ、れでね。莉子。私が約束したのは、何も知っていたからだけじゃないわよ」
喉に引っ掛かってしまった言葉を蹴り出すように私は喋った。そうしないと何時までも莉子に伝えたいことが伝わらない気がした。
「莉子に、会いたかったから、約束したの」
あの約束は再開の約束だ。
三年という月日が二人を隔ててしまっても、私は莉子に逢いたいと思っていたし、莉子もそう思ってくれたからこそ成された約束だと思っている。
だから私は、私が指切りをした一番の肝心な事は――きっと彼女に会いたかった事なのだ。それをただ私が三年後に戻るからという理由だけにされてしまっては堪らない。
この時の私の感情を形にすればきっとこうなる。
「だから、会えることが重要なんじゃないの。逢いたいって思って来てくれたことが私は嬉しい」
口に出してから、あれ、これってかなり恥ずかしいことを言ってるんじゃないかしら、と思ったけれど勢いづいた言葉は途中で止まりはしない。目の前の莉子の顔が赤くなるのを見ながら、きっと自分も同じくらい照れた顔をしているのだろうなと感想を持った。
「……ほんと、あなたは、わたしがびっくりすることばかり、しますね」
「最初に驚かされたのは私よ?だっていきなり泣き出すんだもの」
「それはわたしも一緒です。木から落ちてきたんですから」
莉子の言葉にそれもそうかと素直に納得する。
彼女にしてみれば自分は木から落ちてきた人だろうし、その後木から落ちるようにして消えてしまった人である。私だったら絶対夢でも見たかと思って信じない。
「それにしても、本当に良く来てくれたわ。私ってかなり怪しい人なんじゃないかしら」
たとえ鞄が残っていたとしても、それはそれで不気味だし、私は二度とこの場所に来なくなってしまうだろう。だけど莉子はまるで私がここにいることが当たり前のように約束を守ってくれた。それは唐突に消えた人と対した人物の対応ではなくて、丸きり普通の人との約束のようだ。
「鞄がありましたし、何より怪しくても何でも、もう一度会いたかったから」
え、と顔を上げると莉子の顔はさっきより更に真っ赤になっていた。
私もかなり恥ずかしいことを言ったつもりだが、これには適わない――恥ずかしいに可愛さが足されたら無敵になるのだと私はこの時に知った。
「考えてみると、わたし、あなたのこと、何も知らないなぁって思ったんです。名前さえ知らなくて」
「そうだったかしら?」
言われてみればそうかもしれない。莉子の名前を聞いたのは慰めてる最中だった為、私が自己紹介をする場面はなくなってしまったのだ。町を回るにしても不便はなかった。
「そうです。だから、せめて、名前くらい知りたいなぁって」
名前。確かに、人間関係で最初に交換すべき情報だ。むしろそれを交換していなかったわたし達の方が珍しい。少ない時間とはいえ、ずっと一緒に行動していたのだから。
頬を染める莉子は可愛かったし、彼女の希望も最もである。名前を交換したいなら今すぐにでもする。それとは別に私の中には不満に近いものがくすぶっていた。
「名前だけでいいの?
私はもっと、色んなこと、色々な莉子を知りたいわ。それに知って欲しい」
不満はすぐに口から飛び出て行った。この堪え性が無い所も友人にはよく注意される。今度から気をつけようと頭の隅で考えていると、目の前で莉子が目を真ん丸くしていた。
「いいん、ですか?」
「良いも何も、その為の約束でしょ」
似たような問答をさっきもしたと思って私は少しおかしくなった。くすりと小さな笑いが口端から零れる。
この子は私と一回会っただけで約束は守ったと離れる気だったのだろうか。少なくとも私は再会できた時間から続きを求める気持ちがあった。離れなければならない定めだったのならば、再開する運命を作るだけなのだから。
「そうね。やっぱり、最初は名前にしましょうか」
これからすることは山ほどある。まず連絡先の交換をして、三年前はできなかった街中を巡って歩いて、今度こそゲーセンに行ってプリクラを取るのもいいかもしれない。頭の中で予定を組み立てる私に莉子はふっと笑顔を零して、瞳の端に浮んでいた雫を拭った。
「結局、そこに戻るんですね」
「いいのよ。名前は大切でしょ?ね、莉子」
「そうですね。わたしも、あなたのことを名前で呼びたいです」
私は大きく息を吸った。これが最初の一歩、私と莉子の人間関係の始まりなのだから。不思議な出会いをした年下で同い年の彼女との。
「私の名前は――」
目の前には大きな月が出ていた。丸くて白い、大きな月が。
真昼に顔を出すそれは三年前も、今も、落ちる前も、落ちてからも、同じ顔で浮んでいた。
それに重なるように莉子は涙混じりに、でも微笑んでくれていた。