(6)
*
「ど、どうしたんですか?」
莉子の慌てた言葉が聞こえる。
それでも私は足を止める気にはならなかった。いや、止める気にならなかったというより止まってしまったら二度と歩き出せないような感じがして怖かったのだ。
繋がった手はまだ離れていない。
駆け足に近い速さで動いているせいで段々と汗をかいているのは分かっているが柔らかい感触が伝わるその手を離せなくなってしまっていた。
「ケータイはもういいわ」
考えてみれば莉子と出会ってから携帯電話を弄った事はなかった。
元からそこまであの機械を弄っている性質でもなく、友人と連絡を取りたい気分でもなかったからだ。人付き合いが面倒くさいときに携帯電話という機械は果てしなく邪魔なものになる。
「え?なんでですか?」
「たぶん、この世界にはないから」
何も分かってないぽかんとした表情と疑問が半々の顔を見て苦く笑う。
この場所で見つからない事はほとんど確定してしまった。もしかしたら普通に落としているのかもしれないけれど、それはそれ。今更探す気にはならない。今向かっている樹の下に落ちていたらそれ以上の事はないのだけれど、きっとそんな都合のよいことはないだろう。
携帯電話を見つけて三年後に帰れるというなら必死に探しもする。でもそんな確証はないし、何となく関係ない気がしている――つまり勘。今必死に樹の下に向かっているのだって、ただ何となくなのだ。
「どういう……」
訝しげな顔で莉子が私を見る。
私はたぶん優しく微笑みかけて彼女の疑問をわざと流した。
上手く説明する自信はなかった。それに言いたくもなかった。まだ自分の身に起きた事を信じたくない上、莉子に疑われたら私の気分は奈落まで落ちてしまうだろう。
「私、帰らないといけないみたいで」
「……っ」
小さな、本当に小さな声にならない音が漏れた気がした。
こんな短い間であっても少しは私のことを気に入ってくれたという事だろうか。
そうだとしたらとても嬉しい。私は莉子のことをかなり気に入っているからだ。
「そう、なんですか」
耳の側を風が通り抜ける。その合間に莉子の声が聞こえた。
夏らしい生温い暑さを持った風にそれでも汗が伝う身体には幾分涼しく感じる。
「うん」
莉子の声に私はただ頷いた。
それ以外にどういう態度を取っていいのかわからなかったからだ。
それからしばらく沈黙が続いた。
私は何も話す気になれなかったし莉子も突然変わった私の様子に何を口に出していいのか判断できなかったに違いない。気まずい沈黙に申し訳なくなる。
木の下に着いて、私はまず自分が落ちたところに近寄った。
「私が落ちたのってここよね?」
「はい。ここで間違いないと思います」
一応莉子にも尋ねる。どうにも私は寝起きの悪いタイプなので起きた直後の事はあやふやなのだ。それにしては今回のことはよく覚えているなと自分で思い、木から落ちるなんて衝撃的な起き方をすればそれも当然かと逆に自分を納得させた。
じっと夏草が曲がっているところを観察してみる。
綺麗な円とは言いがたい楕円が広がっていた。よく見てみると、木の根やら出っ張った石やらが草の緑に見え隠れしていてこれが当たったならば痛かったに違いない。
幸いな事に草の層は厚く、その心配はなかったが覚醒直後から痛い目に合わなくて良かったと私は胸を撫で下ろした。
「ね、私が落ちてきたの見てたの?」
ふと疑問に思う。
夏草は膝丈を余裕で越えて下手すると腰くらいまではある。私が寝そべればそのまますっぽりと身体が覆われてしまう。普通に寝ていたとしたら恐らく気づかれることはない。
だが莉子は私が落ちてきてすぐに近寄ってきた。
寝転がったままぼんやりと空を眺めていた私の耳にするりと飛び込んできた。
それだけで莉子は私が落ちるところを見ていたのだろう、と何となく思ってしまう。
「ええ、見てました。だからびっくりしたんです」
その時の事を思い出したのかくすりと莉子は笑う。綺麗に笑う子だなと今更に思った。莉子の笑顔は小さい花がほころんだ様で見ていて安心する、というか心が穏やかになるのだ。
ふわふわ笑う姿に少しだけ心が落ち着く気がした。
「どういうこと?」
びっくりはすると思う。私だって道を歩いていて木から落ちてくる所を見たらとても驚く。
だけど莉子の反応は驚いただけというわけではなさそうだった。驚いただけならばあんなに綺麗に微笑んだりはしないだろう。少なくとも私はしない。 気になって私はくすくす笑いの残滓が未だに残る莉子に首を傾げてみせた。
「だって、すごく綺麗に落ちてたんですよ?」
「きれいに?」
綺麗と落下が繋がらない。思いついたのは水泳の種目である飛び込みだった。
だが自分がそんな競技的な意味で綺麗な格好で落ちているわけもなく、私は莉子の言う綺麗という表現を捉え損なっていた。
余程不思議そうな顔をしていたのだろうか。私の表情を見て莉子はまたくすくすと笑い、繋がっていた手に僅かに力を込められる。きゅっと引っ張られる感覚に逆らわずにいると莉子の顔が直ぐ側に来て覗き込まれるような格好になった。
目の前に広がる顔は綺麗で。
綺麗という言葉は私の落ち方に使われるようなものではなくて、きっとこういう姿に使われるべきである。そう思っているのに、私が使われるべきと感じた本人は何の衒いもない様子だった。
「まるでパッと出てきてそのまま落下したみたいに、穏やかな寝顔のままだったんです」
その言葉に何とも言えない気分になった。
褒めているつもりなのは分かっている、ただ私は自分のことを信じられるほど自愛ができるタイプではない。莉子の言うように寝たままだったことを考えてみると随分間抜けな顔をしていたのではないだろうかと心配になってしまう。
寝起きに自信が持てる女の子などそうそういない。
テレビに出ているアイドルだって朝に突撃を受ければ必死に顔を隠すし、寝起きが悪い人間にしてみれば頭がはっきりしていない時間の間に人と会うこと自体が気を遣うのである。
「……褒められてる気がしない」
だから私は素直に感想を口にした。
少し唇を尖らせて見せたのは、いわゆるポーズという奴だ。本当はそこまで拗ねてもいなければ気にしてもいないが莉子を見ていると構いたくなってしまって、こういう余計な行動もとってしまうのだ。
「褒めてますよ!」
「ほんと?」
少し慌てる姿はいかにも年下という事を表している気がした。
莉子は真面目で思っていることが直ぐに顔に出てしまう情緒豊かな女の子である。自分の三年前を思い出してみると、どうにも恥ずかしくなってきてしまって考えたくない。
――私の三年前ね。
とりあえず、莉子のように良い子ではなかった。それは間違いない。
思春期真っ只中というやつだ。振り返るにはまだ早い。
私は自分をそう納得させてから、莉子の様子を伺う。まだ落ち着きを取り戻すには時間が足りなかったらしい。そわそわしているのが身体全体から見えた。
思っていた通りの反応に私は機嫌よく頬を緩ませて、莉子の名前を呼んだ。
「莉子?」
「はい」
素直に返事をする子。本当に素直で真っ直ぐな綺麗な子。
夏の青い空にその姿はとても映えていて、在りもしない眩しさに目を細める。まるで光に祝福されているかのように見えた。
「私ね、たぶん、三年後くらいに帰ってくると思うのよ」
口が渇いていた。暑さのせいなのか、緊張のせいなのか、はたまた全然関係のないことなのか。私には分からない。
「どこかに行かれるんですか?」
「んー……まぁ、ちょっと遠くね」
自分の口から出た言葉に呆れる。嘘も方便とはこういう時に使う言葉なのだろう。この間の国語の授業での先生の声が頭の片隅にでも残っていたようだ。
三年後に帰ってくる、というか、三年後に戻るのだ。戻った先で出会ったとしても私は今のこの姿のままだけど、莉子は三年経って自分と同い年になっている。その時の莉子の反応を考えたくない。姿が変わらないなんて何の冗談かと思うだろうし、結果として私が私だと信じてもらえないかもしれない。
どちらにしろ、私は莉子を傷つけることになる。そして私が傷つく可能性も大だ。寂しさに任せて言葉を発するのは、この場で良い事とは到底言えない。
莉子が寂しそうな顔をこちらに向ける。先ほどまでの明るい表情が雲に隠れてしまったように、霞む。
――いやだ。
そんな顔を見るのは嫌だ、なんて思う。途轍もなく自分勝手な感情だ。
今から私と莉子は間違いなく遠くになる。距離も、時間も、全てが一回リセットされてしまうようなものだ。それでも彼女は許してくれるだろうか。私は許されるだろうか。
「そう、なんですか」
「うん」
悲しそうな声に私は頷くしかできなかった。ここで"ごめん"と謝るのは何か違う気がした。
少しの間、重たい空気が流れる。それは翳ることのない暑さと相俟ってとても居心地を悪くさせた。
「でも……また会えますよね?」
莉子の黒髪が風に舞った。同時に吹かれた草たちが上昇気流に巻き込まれて昇っていく。
私はその一瞬の風の強さに反射的に目を閉じた。そして再び開いた時、飛び込んできたのは――丸くて白い月だった。
とくん、と小さく鼓動が弾んだ。
「え、ええ。きっと、会えるはずよ」
余りにはっきりと目に映ったそれに一瞬気が逸れていた。だが目の前にいる彼女は勿論、そんな事を気にしてなどいなくて、私は少々焦りつつ答えた。
すると莉子は小さくにこりと笑った。安堵の微笑みに私には見えた。
「それならいいんです。わたしもこの町を離れますから、約束しましょう?」
「三年は長いわよ」
少しだけ困ってしまう。叶えられるか分からない約束をすんなりできるほど私は大人ではなかった。莉子は私の言葉を気にせず、きっぱりとした口調で言い放つ。
「関係ないですし、気は長いほうです」
「全く、変なところで強気なのね」
くすりと今度は私が微笑む。この町を離れたくなくて泣いていたのに、三年は待てるというのだから不思議な話だ。けれど離れるのが嫌で泣けるのは気持ちが強いからだ。そう考えると三年待つと決めてしまったら、三年待てる強さを莉子は持っているのかもしれない。つまり一言で表せば芯が強いのだ。
じっとこっちを見る莉子へと小指を差し出す。
少し子供っぽいような気もしたが今のわたし達には、この方法が丁度良い。ほんの数時間過ごしただけで三年後の約束を取り決めてしまうような"子供"なのだから。
「指きりね」
「嘘吐いたら針千本です」
軽口に軽口が返ってくる。わかっている。莉子は本気だ。この約束を何してでも守るだろうことは目を見れば直ぐに分かった。三年後、彼女は高校生になっている。中学生の今より行動範囲は広がるだろうし自由も増えるはずだ。
――本当に、しっかりした子ね。
それが少しだけ悲しい。だけどそれを口に出すのは間違っている。
「あっ」
小指を絡ませたまま、笑い合っているわたし達。まるで時が止まったかのようだった。その時間を動かし始めたのは莉子の何でもない一言だった。
キラキラ輝く視線が私の頭上を越えて樹へと延びている。
「どうかした?」
私も振り返って首を上へと反らせる。だがそこに広がるのは青々とした葉っぱと吸い込まれそうなほど青い空だけだった。何の変哲も無い風景である。
「あそこ、今光りました!」
莉子の指はまっすぐに木の上を、それも中々に高い枝を指していた。この樹には良く登る私でも、あの高さまでは登った事はない。
「ケータイかもしれません」
「え、でも、私が寝ていたのはあそこより低い枝よ?」
「鳥がくわえて引っ掛けたのかも。とりあえず、見てみましょう」
莉子はそう言うと「よいしょ」とスカートの裾をまくり出したので、私は慌てて止める。どうも、私と離れることが決まってから彼女は行動的過ぎる。
「私が登るから。莉子はそこで見ていて」
彼女の肩に手を置いて落ち着かせる。僅かに不満そうな瞳が私を見上げたが見ない振りをすることにした。この樹には何回も登っている。初めて登る莉子よりは幾分か安全だろう。それに傷一つない白い肌を傷つけるのは私が嫌だった。
いつものように最初の出っ張りに手をかけ、ぐっと力を込めれば私の身体は直ぐに最初の枝へと届いた。そこからいつもの枝、大体樹の中間の高さまでは時間を掛けずに着くことができた。まるでサルのように身軽に枝を登る私の姿は莉子には素晴らしく運動神経の良い人に見えたらしく、下から羨望の眼差しが投げかけられているのは見なくても分かった。
「さてと」
ここからが勝負だ、と私はまだ頭上にある枝へと視線を向ける。下から見た時は分からなかったが確かに光を反射しているものがあるようだった。あれを見つけられるのだから莉子はきっと凄く視力が良いのだろう。
――届くかしら?
いつも昼寝をさせて貰っている枝からまた登る。ある程度の高さになると枝自体が細くなり、私の体重をさせることは無理そうだ。
問題の枝はもう直ぐそこまで迫っていた。後、一段か二段登れば間違いなく手が届く。
そして見るからに私の体重を支えられなそうな枝が目の前にはあった。距離としては微妙な所である。目の前の細めの枝を握って、上半身だけを伸ばせば何とか光まで届くだろうか。
全体重を掛ければその瞬間にポキリと折れる事は明白だった。そうなると何処まで力を入れて腕を伸ばせるかだ。
「無理しないで下さいねっ」
下からは心配そうな声が聞こえていた。真上から見る莉子の姿は小さく見えて、最初木の枝の上から彼女を見つけていればこう見えたのかもしれないと思わせた。
「大丈夫。もう少しだから」
ぐっと手を伸ばす。指先が触れるまで数センチだ。
もう少し、と枝を握る手に力を入れて上半身を持ち上げる。あまり使われることの無い筋肉が軋んだ。これは明日筋肉痛になるわねと口の中でぼやく。
限界まで伸ばしたその指先に硬質なものが触れた。それと同時に枝に乗っていたものがバランスを崩し転がり落ちる。私は反射的にその落下地点へと手を伸ばし、落ちてくるものを受け止めた。
「とっと、危ない、危ない」
パシンと乾いた音とともに掌が叩かれる。零さないように握ったそれは間違いなく私の携帯電話で諦めていたものが戻ってきた嬉しさに顔が綻ぶ。これで莉子と連絡先を交わすことができる――こんな場所にあったのは烏でも運んだのだろう。
そんな風に気を緩めたのが良くなかった。
脱力した身体は重くなる。寝ている人間が普通に背負うよりも重いのもそのせいらしい。
そして今、私は二本の枝に分散させていた体重を足元の一本だけにかけ、その上、手に舞い戻ってきた携帯電話に頬を緩めていた。
つまり弱っていた足元の枝が折れるには充分な体重が一気に掛かったことになる。
バキンッ。
聞こえた音は思っていたより軽かった。
「え?」
「危ない!」
間抜けな私の声と、切羽詰った莉子の声。
その両方が私の耳に入り枝が折れたことを理解する。急変化する視界が妙にゆっくりに移っていった。まず目に鮮やかな緑と枝のくすんだ茶色、それから最早支えるものの無い足元を見れば折れた枝の影に莉子の姿がはっきりと見えた。
そうだ、莉子は私の真下にいた。このままでは彼女まで枝にぶつかってしまう。
咄嗟に頭に浮んだのは自分の心配ではなくて莉子の心配だった。私は一度この樹から落ちているから、それほどの大怪我になるとは考え辛かったのだ。
「莉子っ」
ぐんぐんと地面との距離が、莉子との距離が近づく。 それでも体感時間は長かった。たかが数メートルの落下にしては、随分と長く、数秒はあった気がする。
莉子がその細い腕を広げた。私を受け止めようとしてくれているのは歴然だったが、この場合には褒められた事ではない。私のことなど構わずに逃げてくれて方が良かった。しかしそれを心優しい彼女に求める事が誤りだったのだ。
段々と莉子と私の距離が近くなり――ぶつかった。