第4話 繋いだ命
巡視船『あけぼの』のボート甲板は、戦場そのものだった。
サーチライトの白い光が、叩きつける雨粒を無数に照らし出し、まるで光のカーテンのように揺らめいている。
その中で、凪を含む選抜された数名のクルーが、搭載艇を吊り下げるクレーンの周りで、最後の準備を進めていた。
「凪、本気なんだな」
同期の健太が真剣な眼差しで問いかけてくる。
彼の顔にも、緊張と覚悟が張り付いていた。
「ああ。俺たちが行くしかない」
「……死ぬなよ」
「お前もな」
短い言葉の応酬。
だが、そこには学校時代から続く、二人にしかわからない固い信頼が込められていた。
坂本船長が、船橋からマイクを通して最後の指示を飛ばす。
『凪、聞こえるか。お前の言う『凪』のタイミングは、長くて5分だ。その一瞬を逃せば、艇は波に食われる。判断を誤るな』
「了解」
凪は短く応え、搭載艇に乗り込んだ。
彼と共に乗り込むのは、若手の航海士補と、腕の立つ機関士、そして救急救命の資格を持つ潜水士二名の、計5名。
この船における、最高の布陣だった。
ゴウ、と腹の底に響くような音を立てて、巨大なうねりが『あけぼの』の船体を持ち上げる。
一つ目。
凪は艇にしがみつき、暗闇の先、一点だけを睨みつけていた。
彼の全身が、まるで自然の一部になったかのように、波の周期を測っている。
二つ目の大波が、船体を激しく揺らす。
「次が来るぞ!全員、衝撃に備えろ!」
凪の叫びと同時に、山のような第三波が襲いかかった。視界が真っ白な飛沫に覆われる。
そして――その巨大な波が引いた、ほんの一瞬。
まるで海が一度だけ、深呼吸をするかのような、束の間の静寂。
「今だ!降ろせ!」
ピィーーーーーー!
凪の絶叫と共に艇降下の指揮を取る健太の笛な響き渡る。
その音に完璧に反応し、クレーンが唸りを上げて搭載艇を海面へと降下させた。
着水と同時に、機関士がエンジンを始動させる。
搭載艇は、次の大波が来る前に、母船から離脱することに成功した。
「よくやった!このまま、目標へ向かう!」
凪は艇の先頭に立ち、荒れ狂う波間を睨みつけながら、的確な指示を飛ばし続ける。
「次のうねりに合わせて面舵!機関士、排水ポンプの準備を怠るな!」
それは、もはや操船というよりは、暴れる巨大な獣を手懐ける曲芸に近い。
一瞬の判断ミスが、全員の死に直結する。
だが、凪の指揮の下、小さな搭載艇は、まるで意志を持っているかのように、絶望的な夜の海を突き進んでいった。
数分が、数時間にも感じられる。
やがて、サーチライトの光の中に、黒いコンテナの残骸と、それにしがみつく人影がはっきりと見えてきた。
「目標、前方50メートル!」
女性だ。
ぐったりとして、もはや自分で動く力も残っていないように見える。
「意識を保たせるぞ!呼びかけ続けろ!」
凪はメガホンを掴み、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
「もう少しだ!しっかりしろ!俺たちが必ず助ける!死なせるものか!」
その声が届いたのか、女性の頭が、わずかに動いたように見えた。
艇は慎重に、しかし大胆に目標へと接近する。
そしてついに、手を伸ばせば届く距離までたどり着いた。
「確保!」
潜水士が、女性の腕をがっしりと掴む。
「引き上げろ!一気に!」
凪が叫ぶ。
あと少し。
あと数秒で、この尊い命を救うことができる。
誰もがそう信じた、その瞬間だった。
ゴウ、という音が鳴る。
世界そのものが軋むような、地鳴りのような轟音。
それまでとは比較にならない、予測不能な巨大な横波――三角波が、何の予兆もなく、小さな搭載艇の真横にそそり立った。
「――っ、総員、掴まれ!」
凪の絶叫は、しかし、無慈悲な水の壁に飲み込まれた。
視界が、反転する。
天と地の区別がつかなくなり、凪の身体は、仲間たちと共に、洗濯機の中に放り込まれたかのように激しく回転しながら、冷たい海中へと叩きつけられた。
激しい衝撃。
一瞬、息が止まる。
凪は、頭部に燃えるような熱い痛みを感じた。
転覆したボートの硬い船底か、あるいは漂流するコンテナの角か。
どちらかに、強かに頭を打ち付けたのだ。
冷たい海水が、容赦なく肺へと流れ込んでくる。
手足の感覚が、急速に失われていく。
まずい、意識が――。
朦朧とする視界の中、凪は見た。
母船『あけぼの』から差し込む、サーチライトの白い光。
その光の中を、仲間たちが必死に泳ぎ、そして、あの女性の体を船の方へと引き寄せようとしている、ぼやけたシルエットを。
(ああ……よかった)
彼女は、助かる。
俺の代わりに、仲間たちが繋いでくれる。
その命を、未来へ。
(……でも、本当に? 彼女は、本当に助かったのか? 俺は、この目で、彼女の無事を確かめられないのか? それだけを、知りたい……)
その想いが、彼の最後の思考となった。
まるで、三十年近く前に、彼の母親を救った名もなきヒーローがそうであったように。
安曇 凪の意識は、自分が繋いだ命の行方を知ることなく、深く、静かで、そしてどこまでも穏やかな闇の中へと、ゆっくりと沈んでいった。
第4話、読んで頂き、ありがとうございました。
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