第3話 闇の中の灯火
『――こちら『MH528』! 『あけぼの』、応答願う!』
その声は、張り詰めた船橋の空気をナイフのように切り裂いた。
疲労に沈んでいた乗組員たちの背筋が伸び、全員の視線が、ノイズを発する無線機へと突き刺さる。
凪は、自分の心臓が大きく一度だけ跳ねるのを感じた。
坂本船長が、すぐさまマイクを掴む。
その声は、凪がこの三十時間で聞いたことがないほど、鋭く、若々しかった。
「『あけぼの』から『MH528』! 感度良好! 続けろ!」
『貴船から新方位1-8-2、距離およそ15マイルの海域にて、熱源を一つ確認!大型の浮遊物にしがみつく人影とみられる!』
船橋が、にわかに活気づいた。
それまでの重くよどんだ空気が嘘のように霧散し、誰もが弾かれたように動き出す。
レーダー手は即座に報告された座標をプロットし、航海士は最短ルートを計算し始める。
怒声に近い指示と、慌ただしい報告が飛び交う、現場の空気。
凪の脳裏では、先ほどまで睨みつけていた漂流予測のデータと、航空機から報告された座標が、ピタリと一致していた。
(いた……! やっぱり、いたんだ!)
全身の血が沸騰するような高揚感。
自分の計算が正しかったという達成感。
だが、それらはすぐに、ずしりと重い責任感に変わった。
何十人といた乗客乗員のうち、たった一人。
だが、この三十時間という絶望的な時間が過ぎた後では、その一人の命は、救えなかった全ての命の重みを背負っている。
絶対に、失うわけにはいかない。
「面舵いっぱい!両舷強速!現場へ急行する!」
坂本船長の檄が飛ぶ。『あけぼの』のエンジンが咆哮を上げ、船体が大きく傾く。
凪は手すりに掴まりながら、猛烈な勢いで暗黒の海を切り裂いていく船の振動を、全身で感じていた。
現場海域への到着まで、およそ四十分。
それは、希望と、そして忍び寄る新たな絶望との戦いだった。
凪は自身の持ち場に戻り、すぐさまヘリとの通信を繋ぐ。
「『あけぼの』から『MH528』。要救助者の現在の状況を知らせてくれ」
『『MH528』から『あけぼの』。要救助者は大型のコンテナらしきものにしがみついている。意識レベルは不明だが、時折、動いているのが確認できる。……だが、問題は天候だ。低気圧の接近速度が予測を上回っている。現場海域の波高、すでに4メートル。今後、さらに悪化する見込みだ』
「……了解」
凪は短い応答を返し、インカムのスイッチを切った。
状況は、最悪の一歩手前。
甲板で救助準備を進めている同期の健太に、無線で連絡を入れる。
「健太、聞こえるか。現場の波高は4メートルを超えている。搭載艇を降ろすのは、相当なリスクを伴うぞ」
『……マジかよ。冗談じゃねえな。だが、準備だけは完璧にしておく』
友の頼もしい声に少しだけ安堵しつつも、凪の頭の中では無数のシミュレーションが繰り返されていた。
どうやって近づく?
どのタイミングで搭載艇を降ろす?
艇のメンバー構成は?
要救助者の状態は?
そして、最悪の事態は――?
考えれば考えるほど、危険な要素ばかりが浮かび上がってくる。
やがて、船の前方を見つめていた見張り員が叫んだ。
「目標、視認!前方、距離2マイル!」
凪は双眼鏡を手に、船橋のウイングへと飛び出した。
吹き付ける風と潮混じりの雨が、容赦なく顔を叩く。
強力なサーチライトが、荒れ狂う夜の海を切り裂き、ついにその姿を捉えた。
山のようにそそり立つ黒い波。
その合間に、木の葉のように翻弄されるコンテナの残骸。
そして――それに必死にしがみつく、小さな人影。
女性だ。
長い髪が、風雨に煽られている。
その光景は、あまりに儚く、そして絶望的だった。
あんな状況で、よく今まで……。
「……これじゃ、近づけん」
隣に立った坂本船長が、呻くように言った。
「船体を寄せすぎれば、我々が接触して要救助者を危険に晒す。離れすぎれば、救助は不可能だ」
「搭載艇は……」
「この波だぞ、凪。自殺行為だ。クルーを危険に晒すわけにはいかん」
船長が言うことは、指揮官として当然の判断だった。
正論だ。
だが、その正論は、目の前の命を見捨てることと同義だった。
その時、まるで凪たちの葛藤を嘲笑うかのように、無線が再び絶望的な事実を告げた。
『こちら『MH528』。天候の悪化が激しい。これ以上の低空飛行は危険と判断、やむなく捜索区域を離脱する。……健闘を祈る』
航空支援が、消えた。
ヘリによる吊り上げ救助の可能性も、絶望的だ。
この嵐では、到着すらままならないだろう。
残された選択肢は、一つ。
ここにいる自分たちが、やるしかない。
船橋の誰もが、言葉を失っていた。
誰もが、目の前の命を救いたいと願っている。
だが、そのためのあまりに大きなリスクを前に、誰もが「行かせてください」の一言を言い出せずにいた。
その重い沈黙を破ったのは、凪だった。
彼の声は、不思議なほどに、穏やかだった。
「船長。波を見てください」
「……波?」
「不規則に見えますが、パターンがあります。ひときわ大きい波が三度来た後、ほんの数分ですが、海面がわずかに落ち着く瞬間がある」
凪は、暗闇の先を指さした。
彼の瞳は、もはや目の前の波ではなく、その向こうにある法則、自然の僅かな隙間だけを見据えていた。
「そのタイミング、三度目の大波が引いた、わずか数秒の『凪』。そこを突けば、搭載艇を安全に降ろせます。リスクは高いですが、可能性はゼロじゃありません」
坂本は、凪の横顔をじっと見つめた。
その瞳に宿る、狂気にも似た静かな覚悟を、彼は見逃さなかった。
「……その艇に、誰を行かせるつもりだ」
凪は、ゆっくりと船長に向き直った。
そして、深く、はっきりとした声で告げた。
彼の人生を決定づけた、あの日のヒーローと同じように。
「私が、指揮を執ります。行かせてください」
第3話、読んで頂き、ありがとうございました。
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