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潮騒のクレイドル  作者: おとしぶみ
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第2話 暗黒の海


鉛色の雲が、月はおろか星々の光さえも拒絶する夜だった。


巡視艇『あけぼの』は、低気圧の接近によって次第に力を増していく、重く、粘りつくようなうねりの中を進んでいる。


船体は波に合わせて大きくゆっくりと上昇し、自由落下するを繰り返す。


船底が海面に叩きつけるたび、ザー、という単調な音と共に海水が船体に覆い被さる。


潮を被った窓をワイパーが神経質に拭う音だけが、船橋ブリッジの静寂を破っていた。


旅客フェリーの転覆事故から、すでに三十時間が経過しようとしていた。


船橋の空気は、まるで海底に沈んだ鉛のように重かった。

緑色に光るレーダーの画面を監視する若い乗組員の瞳には、初動の緊迫感も、数時間前の焦燥感も、もはや宿ってはいない。

ただ、どうしようもない無力感と、蓄積した疲労の色だけが濃く浮かんでいた。


「……交代、お願いします」


ぼそり、と呟かれた声はひどく掠れている。

隣にいた同僚が無言で頷き、その場を引き継いだ。

誰も、余計なことは口にしない。

口にできる言葉など、もう持ち合わせていなかった。


事故発生直後こそ、海面に浮かんでいた数名の生存者を救助できた。

だが、それからの半日以上、成果はゼロ。

ただ果てしなく広がる夜の海を、虱潰しに捜索し続けるだけの、心身をすり減らす時間が続いていた。


 その重い沈黙の中で、ただ一人、安曇 凪だけが鬼気迫る集中力で海図と睨み合っていた。


 彼の持ち場である船橋の一角には、膨大な資料が城壁のように積み上げられている。

気象庁から送られてくる最新の気圧配置図、海上保安庁海洋情報部が提供する精密な潮流データ、そして、彼がこの三十時間、不眠不休で更新し続けている漂流予測シミュレーション。


ノートパソコンの画面には、無数の数式とパラメータが並んでいた。

初期漂流ベクトル、コリオリの力による偏向、要救助者の平均的な浮力と体温低下率……。

考えうる全ての変数を入力し、可能性という名の針の穴を、彼は必死に探し続けていた。


「……少しは休んだらどうだ、凪」


背後から、低く、そして労わるような声がかけられた。

『あけぼの』船長、坂本だった。

年季の入った顔に深い皺を刻んだ、ベテラン中のベテランだ。

その手には、湯気の立つマグカップが二つ握られている。


「このままじゃ、お前が先に倒れるぞ。ほら、飲め」


「……ありがとうございます、船長」


凪は差し出されたカップを受け取った。

インスタントコーヒーの香ばしい匂いが、少しだけ強張った思考を和らげてくれる。


「何か、掴めそうか」


「いえ……」


凪は首を横に振った。


「計算すればするほど、生存確率が収束していきます。……ゼロに」


「そうか」


坂本は短く応えると、自分のカップを静かに傾けた。


「俺もこの海で三十年以上飯を食ってるがな、凪。海難事故ってのは、最初の数時間が全てだ。それを過ぎちまうと……悲しいが、俺たちの仕事は『救助』から『遺体の揚収』に変わる。それが、現実だ」


ベテランの言葉は、事実として重い。

凪は何も言い返せなかった。


「……本庁は、夜明けと共に捜索規模の段階的な縮小を検討しているそうだ。そうなれば、この船も一度帰港することになる」


「……っ!」


凪の手が、強くカップを握りしめた。

タイムリミット。

その無慈悲な言葉が、彼の心を締め付ける。


「まだです。生存可能時間とされる七十二時間には、まだ倍以上の時間が残されています」


「それは、万全の装備と理想的な環境下での話だ。この水温じゃ、もって数時間だろう」


「ですが、ゼロじゃない!」


凪は、思わず声を荒らげた。

はっと我に返り、「……すいません」と頭を下げる。


「いや、いい。お前の気持ちは痛いほどわかる。だがな、生きている俺たちが倒れちまったら、次の事故で救える命も救えなくなる。それもまた、事実だ」


坂本はそう言うと、凪の肩を一度だけ強く叩き、持ち場へと戻っていった。


残された凪は、冷たくなったコーヒーを一口すすると、逃げるように船橋を出て、冷たい潮風が吹き付ける甲板へと向かった。火照った頭を冷やしたかった。


手すりを握りしめ、暗黒の海を見つめる。

規則正しく繰り返される波の音だけが、やけに大きく聞こえた。


「……よう」


不意に、後ろから声がかかった。振り向くと、同僚の健太が立っていた。

保安学校からの同期で、幹部研修も共に乗り切った仲間、気心の知れた友人だ。


「まだやってんのか。お前のそのしつこさだけは、昔から変わらねえな」


「諦めが悪いだけだ」


「同じことだろ」


健太は凪の隣に立つと、同じように暗い海を見つめた。


「船長から聞いたぜ。夜明けには、捜索打ち切りかもなって」


「……ああ」


「お前、また母ちゃんの話、思い出してるんだろ」


図星だった。凪は何も答えられない。


「顔も知らねえヒーローに命を救われたから、自分もそうなるんだって……学校時代、お前、酒に酔うといつもその話してたもんな」


「……覚えてたのか」


「忘れるかよ」


健太は、ふっと息を吐いた。

その息が、夜の冷気で白く染まる。


「でもな、凪。俺たちは神様じゃねえ。スーパーマンでもない。助けられる命より、助けられなかった命の方が多いことなんざ、お前だって嫌というほどわかってるはずだ」


その通りだった。

凪がこの仕事で見てきたのは、感動的な救出劇よりも、家族の元に帰ることのなかった、冷たくなった亡骸の方が遥かに多かった。


「……それでも」


凪は、手すりを握る手に力を込めた。


「それでも、あの人は諦めなかった。絶望的な状況で、たった一人の母親と、そのお腹にいた、まだ見ぬ命を」


「……」


「だから、俺も諦めない。たとえ可能性がどれだけ低くても。それが、俺がこの制服を着ている、唯一の理由なんだ」


凪の瞳に、再び強い光が宿る。

健太はそれを見ると、やれやれと肩をすくめた。


「……わかったよ。お前がそう言うなら、付き合うしかねえな。コーヒー、淹れ直してきてやる。とびきり濃いやつをな」


そう言って背を向ける友の背中に、凪は「……すまん」と小さく呟いた。


覚悟を決め直し、再び船橋へ戻る。


彼は、坂本船長に自分の計算結果を元にした、捜索セクターの僅かな変更を、今度こそ正式に進言しようと口を開いた。


「船長、先ほどの件ですが、最終的な漂流予測が出ました。現在の捜索区域を、方位2-8-5に、距離3マイル修正し――」


その言葉を遮るように、けたたましい音が響いた。


それまでの静寂を切り裂く、無線機が息を吹き返した音だった。


ノイズ混じりの音声。

それは、上空を飛行する捜索機『MH528』からのものだった。


『――こちら『MH528』! 『あけぼの』、応答願う!』


船橋にいた全員の動きが、ピタリと止まる。

誰もが、息を呑んで無線機に視線を集中させた。


凪の心臓が、大きく、一度だけ跳ねた。


闇に閉ざされた三十時間の海の果てに、ようやく差し込んだ一筋の光だった。


第2話、読んで頂き、ありがとうございました。


感想等、お待ちしております。

※話の中に出てくる巡視船などは架空のものです。

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