第1話 繋がれた命
地震・津波・災害等の描写があります。
ご注意ください。
その日、世界は唐突に牙を剥いた。
妊娠八ヶ月の大きなお腹をさすり、縁側で穏やかな午後の陽射しを浴びていた彼女――安曇美紗子を襲ったのは、経験したことのないほどの激しい横揺れだった。
ガタガタと家全体がきしみ、壁に掛けてあった時計が落ちて甲高い音を立てて砕け散る。
「きゃっ…!」
美紗子は悲鳴を上げ、とっさに腹部をかばうようにして畳の上にうずくまった。
長い、長い揺れ。
それがようやく収まった時、あたりは水を打ったような静寂に包まれた。
だが、その静寂こそが、次なる厄災の予兆だった。
ウウウゥゥーーーーーッ!
不気味な地鳴りのような音と共に、高台に設置されたスピーカーから津波警報のサイレンが鳴り響く。
美紗子は恐怖に駆られ、窓の外に目をやった。
そして、信じられない光景を目にする。
沿岸の海水が、まるで巨大な獣が息を吸い込むかのように、不自然なほど沖へと引いていくのを。
「逃げなきゃ…!」
危険を察知し、重い体を叱咤して玄関を飛び出す。
しかし、その判断はあまりに遅すぎた。
遥か沖合に、黒い線が浮かび上がる。
それは瞬く間に巨大な壁となり、凄まじい速度で街へと迫っていた。
絶望的な光景を前に、美紗子の足は縫い付けられたように動かなかった。
意識が戻ったとき、私の身体は水に浮いていた。
無限に続くかのような暗闇と、凍てつくような冷たさの中を漂っていた。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
数時間か、あるいは数日か。
もはや時間の感覚は麻痺している。
耳に聞こえるのは、すぐ側で絶えず繰り返される、ざらついた波の音と、自分の浅くか細い呼吸だけ。
しがみついている家の屋根だったものか、ざらりとした木の感触だけが、かろうじて私をこの世に繋ぎとめていた。
視界には、何も映らない。
ただ、漆黒の闇が広がっている。
時折、波間に持ち上げられた瞬間、遠くにチカチカとまたたく灯りが見える。
あれが、ついさっきまで私が暮らしていた街の灯りなのだろうか。
あまりに遠く、非現実的で、まるで夜空に浮かぶ星々を見上げているかのようだ。
「……ごめんね」
思わず、声が漏れた。
誰に言うでもない、お腹の中の、まだ見ぬ我が子への謝罪の言葉。
「こんなところで、一緒に……ごめんね…」
あなたには、暖かい布団と、優しい子守唄と、たくさんの愛情を与えたかった。
こんな、冷たくて暗い海の底へ道連れにするなんて。
後悔と申し訳なさで、胸が張り裂けそうになる。
ぽろり、と頬を伝ったのは、涙か、海水か。
もう、その区別もつかなかった。
身体の芯まで冷え切り、指先の感覚がなくなっていく。
ああ、もうだめだ。
眠い。
このまま目を閉じれば、きっと楽になれる。
そう、諦めが心を支配しかけた、その時だった。
バリバリバリバリッ!!
不意に、天が裂けるような轟音が頭上から降り注いだ。
地鳴りのような、それでいて規則的な、生命の鼓動のような爆音。
驚いて顔を上げると、漆黒だったはずの夜空の一点が、まばゆい光で円形に切り取られていた。
「……え?」
あまりの眩しさに目が眩む。
それは、巨大なサーチライトの光だった。
光の柱がゆっくりと海面を舐めるように移動し、やがてピタリと、私の上で止まる。
暗闇に慣れた目には暴力的なほどの光。
だが、不思議と恐怖はなかった。
それはまるで、天から差し伸べられた救いの光のように見えた。
光の中から、けたたましいローター音を響かせ、巨大なヘリコプターのシルエットが姿を現す。
希望。
その二文字が、凍りついた脳裏に浮かんだ。
死を覚悟した心に、再び小さな火が灯る。
後を追うように、今度は横から、さらに強い光がいくつも私を捉えた。
見ると、少し離れた場所に、山のような巨体――巡視船が浮かんでいる。
そこから一隻のボートが、波を切り裂きながら、まっすぐにこちらへ向かってくるのが見えた。
ボートの先頭に立つ人影が、何かを叫んでいる。
「助かるんだ…」
そう理解した瞬間、張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。
ああ、よかった。
この子は、生まれてこられる。
その安堵感に全てを委ねるように、私の意識は、穏やかな白い光の中へと沈んでいった。
「――で、次に目が覚めた時には病院の真っ白なベッドの上。本当に、あの時はもうダメかと思ったけど、生きてるって実感したら、涙が止まらなくてね…」
味噌汁の椀を置きながら、母・美紗子は懐かしそうに目を細めた。
休みを利用して実家に帰省した俺ーー安曇 凪は、母の向かいに座り、黙って箸を進めている。
食卓のテレビからは、明日の天気を告げるローカルニュースの音声が流れていた。
「はいはい、その話は何度も聞いたって。でも、まあ…母さんも、俺も、無事でよかったよ」
凪は苦笑を浮かべた。
物心ついた頃から、まるで英雄譚のように聞かされてきた話だ。
だが、その声に嫌そうな響きはない。
彼の全てが、この物語から始まっていることを、誰よりも知っているからだ。
(母にとっては忘れられない恐怖の記憶。それと同時に、俺にとってもヒーローの物語のだった)
母の話をきっかけに、凪の脳裏にこれまでの道のりがフラッシュバックする。
――顔も知らないヒーローに憧れ、海上保安官になるため、机にかじりついて猛勉強した学生時代。
――海上保安学校で、厳しい訓練に歯を食いしばった日々。
泥と汗にまみれ、同期たちと肩を組んで互いを励まし合った、あの青臭くも輝かしい時間。
――そして現在。
初級幹部として巡視艇に乗り、部下を指導する立場になった自分。
簡単な道ではなかった。
だが、一度として後悔したことはない。
「あの人がいなかったら、今の凪はいないのよ。だから、あんたもあの人のように、人の命を救える立派な海上保安官になりなさい。いいね?」
「わかってるよ、母さん」
凪は、今度ははっきりと頷いた。
その瞳には、自分の仕事への確かな誇りが宿っていた。
夕食を終え、自室で昔のアルバムを眺めていると、テーブルの上のスマートフォンがけたたましい警告音と共に激しく振動した。
反射的に画面を手に取る。
そこに表示されていたのは、所属する巡視船の表記と、赤色で記載されたメッセージだった。
『【緊急招集】大規模海難事案発生。『あけぼの』乗組員は、至急帰船されたい』
凪の全身に、緊張が走る。
穏やかな日常の終わりを告げる、冷たいゴングの音。
彼の表情から、母親に見せていた青年の顔が消え、全てを覚悟したプロフェッショナルの厳しい顔つきへと一変した。
「母さん!」
階下へ向かって叫ぶ。
「急な仕事だ、行ってくる!」
「え、凪!?こんな時間に?」
驚く母親の声に返事をする間もなく、凪はクローゼットから適当な服を掴み取ると、急いで着替えながら玄関へと向かう。
靴に足を滑り込ませ、ドアを開けると、夜の冷たい空気が肌を刺した。
「気をつけてね!」
背中に投げかけられた母親の声に、彼は振り返らずに片手を上げた。
夜の道を、港へとバイクで疾走する。
港に近づくにつれ、仲間の車と遭遇する頻度が増えていく。
港にたどり着くと、彼の目的地である巡視艇『あけぼの』が、すでに出港準備を終えて静かに佇んでいた。
すでに仲間たちが集結し、慌ただしく動き回っている。
嵐の前の静けさと、これから始まる過酷な任務を予感させる独特の緊張感が、埠頭を支配していた。
「遅いぞ、ナギ!」
「すいません!」
タラップを駆け上がり、凪は自分の戦場へと飛び乗った。
第1話、読んで頂き、ありがとうございました。
長年思い描いていたシナリオ(妄想)をようやく文章化できました。
執筆に不慣れなため、読みにくいなど感じることがあるかもしれませんが、お付き合い頂けると嬉しいです。
これからよろしくお願いします。
感想等もお待ちしております。