表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮騒のクレイドル  作者: おとしぶみ
1/4

第1話 繋がれた命

地震・津波・災害等の描写があります。

ご注意ください。


その日、世界は唐突に牙を剥いた。


妊娠八ヶ月の大きなお腹をさすり、縁側で穏やかな午後の陽射しを浴びていた彼女――安曇美紗子あずみ みさこを襲ったのは、経験したことのないほどの激しい横揺れだった。

ガタガタと家全体がきしみ、壁に掛けてあった時計が落ちて甲高い音を立てて砕け散る。


「きゃっ…!」


美紗子は悲鳴を上げ、とっさに腹部をかばうようにして畳の上にうずくまった。

長い、長い揺れ。

それがようやく収まった時、あたりは水を打ったような静寂に包まれた。

だが、その静寂こそが、次なる厄災の予兆だった。


 ウウウゥゥーーーーーッ!


不気味な地鳴りのような音と共に、高台に設置されたスピーカーから津波警報のサイレンが鳴り響く。

美紗子は恐怖に駆られ、窓の外に目をやった。

そして、信じられない光景を目にする。

沿岸の海水が、まるで巨大な獣が息を吸い込むかのように、不自然なほど沖へと引いていくのを。


「逃げなきゃ…!」


危険を察知し、重い体を叱咤して玄関を飛び出す。

しかし、その判断はあまりに遅すぎた。

遥か沖合に、黒い線が浮かび上がる。

それは瞬く間に巨大な壁となり、凄まじい速度で街へと迫っていた。


絶望的な光景を前に、美紗子の足は縫い付けられたように動かなかった。




意識が戻ったとき、私の身体は水に浮いていた。

無限に続くかのような暗闇と、凍てつくような冷たさの中を漂っていた。


どれくらいの時間が経ったのだろう。

数時間か、あるいは数日か。

もはや時間の感覚は麻痺している。

耳に聞こえるのは、すぐ側で絶えず繰り返される、ざらついた波の音と、自分の浅くか細い呼吸だけ。

しがみついている家の屋根だったものか、ざらりとした木の感触だけが、かろうじて私をこの世に繋ぎとめていた。


視界には、何も映らない。

ただ、漆黒の闇が広がっている。

時折、波間に持ち上げられた瞬間、遠くにチカチカとまたたく灯りが見える。

あれが、ついさっきまで私が暮らしていた街の灯りなのだろうか。

あまりに遠く、非現実的で、まるで夜空に浮かぶ星々を見上げているかのようだ。


「……ごめんね」


思わず、声が漏れた。

誰に言うでもない、お腹の中の、まだ見ぬ我が子への謝罪の言葉。


「こんなところで、一緒に……ごめんね…」


あなたには、暖かい布団と、優しい子守唄と、たくさんの愛情を与えたかった。

こんな、冷たくて暗い海の底へ道連れにするなんて。

後悔と申し訳なさで、胸が張り裂けそうになる。

ぽろり、と頬を伝ったのは、涙か、海水か。

もう、その区別もつかなかった。


身体の芯まで冷え切り、指先の感覚がなくなっていく。

ああ、もうだめだ。

眠い。

このまま目を閉じれば、きっと楽になれる。

そう、諦めが心を支配しかけた、その時だった。


 バリバリバリバリッ!!


不意に、天が裂けるような轟音が頭上から降り注いだ。

地鳴りのような、それでいて規則的な、生命の鼓動のような爆音。

驚いて顔を上げると、漆黒だったはずの夜空の一点が、まばゆい光で円形に切り取られていた。


「……え?」


あまりの眩しさに目が眩む。

それは、巨大なサーチライトの光だった。

光の柱がゆっくりと海面を舐めるように移動し、やがてピタリと、私の上で止まる。

暗闇に慣れた目には暴力的なほどの光。

だが、不思議と恐怖はなかった。

それはまるで、天から差し伸べられた救いの光のように見えた。


光の中から、けたたましいローター音を響かせ、巨大なヘリコプターのシルエットが姿を現す。


希望。


その二文字が、凍りついた脳裏に浮かんだ。

死を覚悟した心に、再び小さな火が灯る。


後を追うように、今度は横から、さらに強い光がいくつも私を捉えた。

見ると、少し離れた場所に、山のような巨体――巡視船が浮かんでいる。


そこから一隻のボートが、波を切り裂きながら、まっすぐにこちらへ向かってくるのが見えた。

ボートの先頭に立つ人影が、何かを叫んでいる。


「助かるんだ…」


そう理解した瞬間、張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。


ああ、よかった。

この子は、生まれてこられる。


その安堵感に全てを委ねるように、私の意識は、穏やかな白い光の中へと沈んでいった。







「――で、次に目が覚めた時には病院の真っ白なベッドの上。本当に、あの時はもうダメかと思ったけど、生きてるって実感したら、涙が止まらなくてね…」


味噌汁の椀を置きながら、母・美紗子は懐かしそうに目を細めた。


休みを利用して実家に帰省した俺ーー安曇(あずみ) (なぎ)は、母の向かいに座り、黙って箸を進めている。

食卓のテレビからは、明日の天気を告げるローカルニュースの音声が流れていた。


「はいはい、その話は何度も聞いたって。でも、まあ…母さんも、俺も、無事でよかったよ」


凪は苦笑を浮かべた。

物心ついた頃から、まるで英雄譚のように聞かされてきた話だ。

だが、その声に嫌そうな響きはない。

彼の全てが、この物語から始まっていることを、誰よりも知っているからだ。


(母にとっては忘れられない恐怖の記憶。それと同時に、俺にとってもヒーローの物語のだった)


母の話をきっかけに、凪の脳裏にこれまでの道のりがフラッシュバックする。


――顔も知らないヒーローに憧れ、海上保安官になるため、机にかじりついて猛勉強した学生時代。


――海上保安学校で、厳しい訓練に歯を食いしばった日々。

泥と汗にまみれ、同期たちと肩を組んで互いを励まし合った、あの青臭くも輝かしい時間。


――そして現在。

初級幹部として巡視艇に乗り、部下を指導する立場になった自分。


簡単な道ではなかった。

だが、一度として後悔したことはない。


「あの人がいなかったら、今の凪はいないのよ。だから、あんたもあの人のように、人の命を救える立派な海上保安官になりなさい。いいね?」


「わかってるよ、母さん」


凪は、今度ははっきりと頷いた。

その瞳には、自分の仕事への確かな誇りが宿っていた。







夕食を終え、自室で昔のアルバムを眺めていると、テーブルの上のスマートフォンがけたたましい警告音と共に激しく振動した。


反射的に画面を手に取る。

そこに表示されていたのは、所属する巡視船の表記と、赤色で記載されたメッセージだった。


『【緊急招集】大規模海難事案発生。『あけぼの』乗組員は、至急帰船されたい』


凪の全身に、緊張が走る。


穏やかな日常の終わりを告げる、冷たいゴングの音。

彼の表情から、母親に見せていた青年の顔が消え、全てを覚悟したプロフェッショナルの厳しい顔つきへと一変した。


「母さん!」


階下へ向かって叫ぶ。


「急な仕事だ、行ってくる!」


「え、凪!?こんな時間に?」


驚く母親の声に返事をする間もなく、凪はクローゼットから適当な服を掴み取ると、急いで着替えながら玄関へと向かう。

靴に足を滑り込ませ、ドアを開けると、夜の冷たい空気が肌を刺した。


「気をつけてね!」


 背中に投げかけられた母親の声に、彼は振り返らずに片手を上げた。




夜の道を、港へとバイクで疾走する。

港に近づくにつれ、仲間の車と遭遇する頻度が増えていく。


港にたどり着くと、彼の目的地である巡視艇『あけぼの』が、すでに出港準備を終えて静かに佇んでいた。

すでに仲間たちが集結し、慌ただしく動き回っている。

嵐の前の静けさと、これから始まる過酷な任務を予感させる独特の緊張感が、埠頭を支配していた。


「遅いぞ、ナギ!」


「すいません!」


タラップを駆け上がり、凪は自分の戦場へと飛び乗った。


第1話、読んで頂き、ありがとうございました。


長年思い描いていたシナリオ(妄想)をようやく文章化できました。

執筆に不慣れなため、読みにくいなど感じることがあるかもしれませんが、お付き合い頂けると嬉しいです。


これからよろしくお願いします。

感想等もお待ちしております。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ