髷と俺
三月。
まだ肌寒い風が吹くものの、日差しには春の兆しが感じられるようになった。
雨水は四回生、十二は二回生になった。
この日、落語研究会の「四回生追い出し寄席」が、学内ホールで盛大に開催された。
この寄席は、四回生にとって部活動の集大成であり、雨水にとっては、落語研究会での最後の高座だった。ホールはほぼ満席で、部員たちの家族や友人、そして教職員も多く詰めかけていた。
十二は、客席で静かに雨水の出番を待っていた。今日のトリを飾るのは、もちろん雨水だ。そして、彼が披露するのは、十二が書いた新作落語「髷恋道中」。鉛筆の跡が残る原稿を、二人で何度も何度も手直しした、あの物語だ。
雨水……小髷の背中は、いつもよりも少し大きく見えた。彼の羽織の背は、普段の飄々とした彼からは想像できないほど、背筋が真っ直ぐに伸びていた。
いよいよ出囃子が流れ始める。割れんばかりの拍手の中、小髷はゆっくりと高座へ上がっていった。座布団に正座し、深々と一礼する。その所作の一つ一つが、美しく、そして堂々としている。
「皆様、本日は卒業寄席にお越しいただき、誠にありがとうございます。私、芳月亭小髷と申します」
いつもの涼やかな声が、マイクを通してホールに響き渡る。
「さて、本日は、わたくしにとりまして、この大学落語研究会での最後の高座となります。つきましては、わたくしが、一人の若き才能から預かりました、大切な新作落語を、皆様に披露させていただきたく存じます」
小髷の言葉に、客席からざわめきが起こる。新作落語。しかも、誰かの手によるものだという。十二は、舞台袖で、心臓が大きく跳ねるのを感じた。自分の噺が、今、この舞台で披露される。そして、それを噺すのが、小髷だ。
「この噺は、人と神との繋がり、そして、誰かを『好き』になるという気持ちの、不思議な縁について描かれております」
穏やかな口調で、小髷は噺に入っていった。
小髷の噺す髷恋道中は、まるで十二の心がそのまま言葉になったかのようだった。
鳥治が、雨の介を見つけて追ってしまう一幕。
雨の介を推し始める鳥治。
雨の介自身を好ましく思い始める鳥治。
それは、間違いなく、十二が小髷に抱いてきた感情そのものだった。
小髷は、時に鳥治の純粋な心情を、雨の介の少し大人びた視点を、声色や表情、仕草で巧みに演じ分けていく。彼の言葉一つ一つに、十二が込めた想いが、確かに息づいていた。
特に、鳥治が「推し」という感情と「恋」という感情の間で葛藤する場面では、小髷の声に微かな震えが混じり、切なさがにじみ出ていた。そして、鳥治が自身の「好き」という感情の正体に気づき、雨の介への想いを自覚する描写では、小髷の表情に、喜びと温かさが浮かんでいた。
物語はサゲへ向かっていた。
小髷の視線が、ふと舞台袖へと向けられる。その視線が、確かに十二を捉えた。
そして、小髷は、穏やかな笑顔で噺を締めくくった。
「……俺は主張を曲げられねえ。まことに、お粗末様でございました!」
ドン!と、心地よい締めの太鼓が響き渡る。
会場は、割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
小髷は、深々と頭を下げた後、客席を見渡した。そして、もう一度、十二へと視線を向けた。彼の瞳は、優しい光を湛え、まるで「ありがとう」と語りかけているかのようだった。
彼の落語は、まさに、十二の心を代弁してくれていた。
「推しが恋に変わってもいい」。
あの時、福々に言われた言葉が、今、小髷の落語によって、最高に昇華された。
落語研究会での最後の高座で、小髷は、十二への、そして二人の間に生まれた「縁」への、最大限の愛を表現してくれたのだ。
十二はただひたすらに、輝く小髷の姿を見つめ続けていた。
この先、どうなるかは、未知数だ。
でも、彼と一緒に歩いて行きたいと思う。
手を繋いで、二人、同じ歩幅で。




