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ひまわり苑寄席・元犬

八月。

 うだるような暑さの中、落語研究会は夏の慰問活動として、市内の老人介護施設を訪れていた。二手に分かれての慰問だ。小髷と小鳥は「ひまわり苑」、パーリィと福々は別の施設へと向かうことになっていた。


 小鳥は、初めての慰問に少し緊張していた。お客さんは、大学の寄席とは違う。


(ちゃんと楽しんでもらえるかな……)


 隣を歩く小髷は、いつもの涼やかな顔で、むしろ楽しみにしているようだった。彼の羽織からは、今日も甘いバニラの香りがする。

 小髷が、そっと小鳥に聞いた。


「小鳥や、緊張しているのか?」

「はい……ちゃんと、笑ってもらえるか不安で」

「大丈夫だ。お前ならできる。それに、今日は俺もいる。何かあればすぐにフォローする」


 小髷の言葉に、十二の胸がじんわりと温かくなった。


 ひまわり苑に到着すると、既にホールには多くの入居者の方々が集まってくれていた。車椅子のおじいちゃん、杖をついているおばあちゃん、皆が期待に満ちた表情で舞台を見つめている。


 まずは小髷の挨拶から始まった。


「皆様、こんにちは。本日は、私たち大学落語研究会の寄席にお越しいただき、誠にありがとうございます。短い時間ではございますが、落語で皆様に笑顔をお届けできればと存じます」


 小髷の落ち着いた挨拶に、会場から温かい拍手が起こった。


 そして、いよいよ小鳥の出番だ。演目は<元犬>。

 十二は高座に上がり、深々と一礼した。


「えー、本日は皆様、お集まりいただきましてありがとうございます。わたくし、大学で落語をやらせていただいております、芳星亭小鳥と申します」


 緊張はしていたが、小鳥は観客の顔を一人ひとり見るように、ゆっくりと話し始めた。犬が人間になりたがる、その純粋な願い。人間になったけれど、犬の習性が抜けきらない滑稽さ。小鳥は、犬の仕草や声をオーバーに表現し、会場からはクスクスと笑い声が聞こえ始めた。特に、人間になった犬が、人間社会のルールに戸惑う様子を演じると、会場は大きな笑いに包まれた。


「おもとは居ぬか!もとは居ぬか!」

「……へえー!今朝ほど人間になりまして!」


 サゲが決まり、小鳥が深々と頭を下げると、温かい拍手が沸き起こった。

 中には「面白かったよ!」と声をかけてくれるおばあちゃんもいた。小鳥は安堵と喜びで、顔が熱くなるのを感じた。


 続いて、小髷の出番だ。演目は<船徳>。

 暑い夏にぴったりの、船頭の噺だ。

 小髷は、涼やかな表情で高座に座ると、噺はじめた。



 彼の噺は、まるで目の前に隅田川の情景が広がっていくかのようだ。流れるような語り口、登場人物たちの生き生きとした会話。特に、主人公の徳さんが船頭として奮闘する姿に、みんなが注目した。

 サゲが終わり、小髷が礼をした。客席から、歓声が上がる。


「小髷ちゃーん!相変わらずいい男だねぇ!」

「もっとやっておくれよ!」

「芳月亭小髷!待ってました!」


 小髷は、その声に慣れたように、しかし満面の笑みで応えている。小髷の絶大な人気に、小鳥が目を丸くした。

 手を振ったり、目線を送ったり。その一つ一つの仕草に、観客たちはさらに熱狂する。彼は、大学では見せないアイドルのようなオーラを放っていた。


「ありがとうございます。皆様の笑顔が、何よりのご褒美でございます」


 小髷がもう一度礼をする、会場は割れんばかりの拍手と、惜しむ声に包まれた。

 高座を降りてきた小髷を、小鳥は目を輝かせながら見つめた。


「小髷先輩、すごいですね!あんなに人気者だなんて!」

「はは、まあ、慰問は何度か来ているからな」


 小髷は照れたように笑う。その笑顔が、小鳥には普段よりも何倍も輝いて見えた。自分の推しが、こんなにも多くの人に愛され、笑顔にしている。その光景を見ているだけで、小鳥の心は満たされていった。


「僕、小髷先輩推してて良かったです!」


 小鳥は、衝動的にそう口にしていた。小髷は、少しだけ目を丸くすると、すぐに優しい笑みを浮かべて、小鳥の頭を優しく撫でた。太陽の光が差し込むホールの中で、バニラの香りが小鳥の心を包み込んだ。推しが人気者であることの喜び。

 小鳥にとって、この夏一番の思い出になる慰問だった。



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