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初高座、髷の柏手

 六月。梅雨の晴れ間を縫って、大学構内は新緑の鮮やかさに包まれていた。B棟ホールでは、落語研究会の定期寄席が開催される。新入生歓迎寄席から約2ヶ月。小鳥遊十二は、芳星亭小鳥として、初めて高座に上がる。


 演目はもちろん「長短」だ。小鳥は、この日の為に猛特訓を重ねてきた。


(ただ……)


 練習ではなんとか形になってきたものの、本番は、どうだろう。屏風の後ろから、ちらりと客席を見る。


(うわぁ……)


 それなりの数の客が、既に集まり始めていた。大勢の観客の前で一人で噺をするというのは、想像以上に緊張する。


 落研の面々も客席に座って見守ってくれているだろう。特に小髷は、一番前の席で、いつもの涼やかな顔でこちらを見ているはずだ。そう思うと、余計に胃が締め付けられるようだった。


 いよいよ出番だ。スポットライトが当たる高座に、小鳥はゆっくりと足を進めた。

 高座の座布団に正座し、一礼する。客席からまばらに拍手が起こった。


 緊張で喉がカラカラだ。手ぬぐいを胸に抱き、高座扇子をそっと握りしめる。心臓の音が、まるで太鼓のように大きく響いている。深呼吸しよう。小髷に以前教えられた通り、大きく息を吸い込む。バニラの香りが、しない。当たり前だ。しかし、その記憶が少しだけ十二を落ち着かせた。


「えー……」


 マイクから発された自分の声が、やけに震えているように聞こえる。大丈夫。練習通り。ゆっくりと、落ち着いて。


「ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、わたくし、今日が初めての高座でございまして……」


 マクラは練習通りだ。自虐ネタで観客の心を掴む。ちらりと客席に目をやると、小髷が小さく頷いているのが見えた。その視線に、少しだけ勇気づけられる。


「……あるところに、短気で有名な男と、気が長すぎる男がおりました……」


 本編に入ると、緊張は少し和らいだ。

 短気な短七が怒鳴り散らし、気の長い長さんが飄々とかわす。

 二人の人物を演じ分け、扇子や手ぬぐいを巧みに使って情景を描写していく。

 手を丸くまげて、饅頭を食う仕草。手ぬぐいを煙草入れに見立てて煙草を吸う仕草。練習の成果は出せているはずだ。


(あ……っ)


 突然、台詞が飛んでしまいそうになる。

 口から出かかった言葉を慌てて飲み込み、必死で次の台詞を思い出す。焦りが顔に出ていないか、心配で冷や汗が背中を伝った。


 その時だった。


 小髷が、すっと両手を掲げた。


 そして、その手が柏手を叩く。


 パンッと乾いた音がして、小鳥はハッとして次の台詞を思い出した。なんとか持ち直す。噺は佳境に入り、短七が長さんに怒鳴り、ついにサゲへと向かう。


「……ほうら、やっぱり怒ったろう。だからおせえねえ方が良かった」


 ドン!と締めの太鼓の音が鳴る。小鳥は、深々と頭を下げた。

 客席から、先ほどよりも大きな拍手が起こる。心底ホッとして、小鳥は顔が熱くなるのを感じた。


(やりきった)


 高座から降り、ホールの隅で次の出番の部員が準備するのを待つ。と、背後から優しい声が聞こえた。


「小鳥、よくやった」


 振り返ると、そこには小髷が立っていた。いつもの黒い羽織に、艶やかな髷。涼やかな目元が、今は優しく弧を描いている。バニラのような香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。


「ぶ、部長……」


 小鳥は、恥ずかしさと安堵がないまぜになった声で答えた。小髷が、すっと小鳥の側に立つ。


「初めての高座でよくやりきった」

「途中、台詞が飛びそうになって……」

「ああ、気づいていた。だが、すぐに持ち直した。あの動揺を悟られないのは、並大抵のことじゃない。見事だった」


 そう言いながら、小髷は優しく小鳥の肩に手を置いた。その手が温かくて、こそばゆくて、小鳥は思わず俯いくと身体をモジモジさせた。

 ふわりと、小鳥の頭に温かいものが置かれ、優しくその頭髪を撫でた。


(わ……っわ……!)


 また撫でられている感覚がある。その大きな手に、十二の顔はまた熱くなった。心臓がドキンと跳ね、全身に熱が広がる。

 小鳥の心は今、高座の緊張も吹き飛ぶほど、嬉しい気持ちでいっぱいになっていた。



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