独占寄席・粗忽の釘
小鳥はうきうきと長短の動画を眺めている。火曜日が待ち遠しくてならなかった。
動画をスマートフォンで再生し、鏡と自分のしぐさを見比べる。
「うーん……」
どうも煙草を呑む仕草が上手くいかない。小髷に聞いたほうがいいと思う。
小鳥は、一日千秋の思いで火曜日を待った。
「煙草を呑む仕草が上手くできない?」
「はい」
きちんと着物を着て、部室にやって来た小鳥を前にして、小髷はそれを褒めるのもそこそこに、顎に手を当てて少し考えた。
「ふむ。では、<粗忽の釘>でもやって見せようか」
「粗忽の釘?」
「うん」
そう言って、小髷が居住まいを正した。小鳥も、正座しなおす。
「どんな噺なんですか?」
小鳥が前のめりになる。その時、この瞬間が、かなり贅沢な時間だと彼は心の中で気が付いた。
(あ……これ、俺のために噺すんだ……)
心臓が、きゅんとときめく。落語は、一般的に不特定多数の人間に対して語られるものだ。個人に対して語られる落語。それは、小髷を独占していると言うことに他ならない。
「ある男がな、おかみさんに『柱に釘を打ってくれ』と頼まれる。で、いざ釘を打とうとしたとき、壁に蜘蛛がいた。そいつ、そそっかしいから、『これ幸い』とばかりに釘で蜘蛛を仕留めようとするんだ」
「釘で……ですか?」
「そう、ところが蜘蛛は逃げちまって、釘だけが壁に。柱じゃなくて、立派に壁に刺さってる。おかみさんに問い詰められても、本人は平然と『蜘蛛が逃げたから仕方ない』って言う始末だ」
「あはは……どうしようもないですね……」
「でもな、俺はこの噺を聞いて、思ったんだ。俺も……誰かを喜ばせようとしたとき、的外れなことをしてるかもしれないと……気をつけないとな。えー……お前さん!ちょいとお前さん!」
小髷の目つきが優しくなり、するりと場の空気が変わる。彼はたちまち長屋のおかみさんになっていた。
続いて、大工の粗忽者が登場する。粗忽者が壁に釘を打ちこんでしまい……隣家に断りに行くのだ。
「……落ち着かせてもらいます」
空想の煙草盆が出されて、小髷が扇子を取り出す。手ぬぐいを煙草入れに見立てて、グッと葉を押し込む。
それから、前へ屈んで、煙草盆へ差し込んで火をつけた。
小髷が口をすぼめてすーっと音を立てながら扇子の先を吸う。
パッと扇子が煙管に変わる。
小髷は、美味そうに煙管をのむ。
ゆっくりと、丁寧に。
小鳥は眼を丸くしてそれを見ていた。
そうして、パッと小髷が煙管から口を離す。
ふーっと、彼の口から幻の煙が吐き出される。
「さっきの、おかみさんですか?」
幻の煙が、小髷の口から立ち昇って消えた。
(凄い!)
まるで本当に煙草をのんでいるようだった。
「ええ、うちのかかあですけど。かかあがどうかしましたか?」
すーっと、彼が息を吸う。幻の煙管の火皿の中にある、刻み煙草が、ちりちりと赤く燃える。また、パッと口を離す。
「いえ、どうもしませんけどね……いい女だと思って……」
ふーっと息を吐く。呼気に吹かれて、十二の前髪が、微かに揺れた。煙の香りすら、漂ってきそうだ。
「あなたあの女将さんと所帯を持つ時に、しかるべき仲人に頼みましたか?それとも、ただのくっつきあいですか?そこん所、正直に……白状しろい」
小髷は凄んで見せる。小鳥の頬が、じんわりと紅潮した。
「ああ!あたしんとこ?あたしんとこはねえ……へへ、くっつきあいなんですよ!」
ぱっと嬉しそうに小髷の声が華やぐ。カンと煙草盆を叩き、煙管の火皿から灰を落とす。
「あなたと二人で暮らすなら、例え食事はお芋でもいいの……」
上品な口調で、彼が歌い出す。小髷と小鳥の目線が、交差しあい、見つめ合う。
小髷は粗忽者になり切って楽しそうに自分のおかみさんのことを語っている。
小鳥の頬が自然と緩み、笑顔がこぼれる。
「釘をたーんと壁へ打っちゃって……!」
噺は、阿弥陀様の仏像の喉に釘が貫通したと言う所まで発展した。
そして、サゲを小髷が言う。
「明日から、ここに箒をかけに来なきゃならねえ!」
「わあ……っ!」
心臓がどきどきする。小鳥は胸を高鳴らせ、目をキラキラと輝かせた。
小髷の煙草を呑む仕草は、本当に格好良かった。
それに、やっぱり動画で目にするよりも、実際に見た方が覚えやすい気がする。
長短は、煙草をつけるのを失敗するシーンが多いが、粗忽の釘は、成功するシーンが多い。小髷は、その違いを見せるために、長短ではなく粗忽の釘を噺したのだろう。
「どうだい?煙草を吸う仕草、わかったかい?長短、やってごらん」
「はい!やってみます!」
小鳥は、小髷に見詰められながら、長短の煙草を吸う仕草を練習しはじめた。
長短の煙草を吸うシーンを重点的に、何度も話を往復する。
「短七つぁんは、気が短いからあたしのやってることなぞ……まどろっこしくて……見ていられないと来た……」
てぬぐいを煙草入れに見立てて、それに煙管を押し込む。煙草の葉を詰め込んで、煙草盆の火入れに入れる。吸いながら火をつける。だが、火がつかない。
長さんは、ゆっくり息を吸うからだ。長さんは、いぶかしげに煙管を見つめて、もう一度火入れに煙管をつっこんだ。
「これで性分というものは、おかしなものだ……子供のじぶんからの友達で……それでいて喧嘩一つしたことが無いてんだからねえ……」
火入れから、火がつく度、長さんがゆったりと煙管を吸う。
「えへへ……どっか気があうんだ……」
「会う訳ねえだろ!お前となんざ!何やってんだお前は!それじゃあお迎え火だ!こっちを見ろ!こうだ!」
短七がぱっと火入れに煙管を突っ込んでそのまま吸う。そして、瞬く間に雁首を叩いて叫んだ。
「このっくらいできねえか!」
「わかったよ……俺だってそのくらいできらぁ……」
長さんが、短七の真似をして煙草を吸う。「ほ……っついた……」と喜んで、長さんが長々と煙草を吹かす。短七はその吸いぶりの長いのに怒る。
「俺なんざおめえ!急いでる時分は火がつく前にはたいちまうよ!このくれえ出来ねえか!」
そう言いながら、何度も煙草を吸う。長さんが、ふっとまばたきをして、「人に物を教わるのは嫌か?」と短七に聞く。
「なんだい。言ってごらん!」
「今お前が煙草を吸ってさ、二含めの火玉が煙草盆に入らずにさ、お前の袂の袖口から中に入って……おや、いいかな?と思ったら煙が出て……おやおやと思ってみていると……燃えだして……ことによると消した方が……」
「あああッ!馬鹿!ことによらねえよ!早くおせえろ!」
「ほら見ねえ、そんなに怒るじゃねえか、だから教えない方が良かった」
噺が終わり、小鳥が頭を下げる。
「そこまで」
小髷が声をかけた。小鳥が面を上げる。小髷は、にっこり笑って言った。
「煙草を呑む仕草、だいぶ様になって来たよ」
「……!……じゃあ……!」
「うん、長短。持ちネタの一つにしてもいいだろうね」
やった!と言いながら、小鳥が拳を握る。小髷は、少し考えてから、改めて小鳥に話しかけた。
「このネタを高座でやるといい」
「……!」
「目指すは、六月の定期寄席だ」
「……はいっ!」
小鳥は目を輝かせて返事をした。




