髷の名前
髷が、窓から射す五月の麗らかな日射しを浴びてふさふさと輝いている。
十二は、雨水の後方を歩きながら、その髷をじっと見つめていた。
ふいに、こちらを雨水が振り返る。十二は、まともに顔を見てしまい、ぎょっとして歩みを止めかけた。
(イ……!)
イケメンだ。と思った。少し吊り上がった目尻、筋の通った鼻。薄い唇。こうも顔がいいと、こっちが面食らってしまう。
雨水は、そんな十二を知ってか知らずが楽しげな顔つきで彼に話しかけた。
「名前、どちらで呼ぼうか」
「ふえ……名前……」
「そうだ。部では自然とみんな、高座名で呼ぶならわしになっているが、これといって高座名で呼ぶことが決まっている訳ではない。今まで通り十二くんか、小鳥か。どっちらが良い?」
「えっと……」
このセロの様な優しい声音で、十二くん。と言われなくなると思うとそれも惜しい気がしたが、心持は<小鳥>に傾きはじめていた。雨水が折角決めてくれたのも一因だが、高座名で呼ばれるのは落語をやるって感じがして、身が引き締まる思いで、十二は小鳥を名乗りたい気持ちだった。
「小鳥で……!お願いします!」
雨水はうなずいて、また前を向いた。そして、肩で十二……小鳥に聞いた。
「では小鳥、俺のことは小髷と呼んでくれ」
「小髷先輩!」
「そうだ」
何だか、コードネームで呼びあう見たいでちょっと楽しい。小鳥は鼻息をふんと吹いて、胸を張った。
(今日から俺は、芳星亭小鳥……)
先に立って歩いていた小髷が歩みを止めた。
「ここだ。ついたぞ」
そこは使われていない教室だった。
教室へ入り、手に持った二つの座布団を床に敷いて、小髷が手招きする。
「おいで」
言われるがままに、小鳥が彼の側に寄り、真正面に敷かれた座布団の上に座った。
小髷がじっと小鳥を見つめる。気恥ずかしくなって、小鳥は視線をちょっとずらした。
「では、長短の練習を始める。最初に上下を切ることを覚えてくれ」
「上下……?」
「うん。落語の世界では、話者から見て左が上手、右が下手という。自分の左上には偉い人がいると覚えるとわかりやすい。具体的に言えば、子供の役の時は上手、親の役の時は下手を切る」
「へえ……顔の向きにも、意味があったんですね」
小鳥は感心して、気づかない内にずらしていた視線を小髷に合わせていた。
「じゃあ、俺の台詞の後について復唱してくれ」
「はい!」
いよいよ稽古が始まった。小髷が語り出す。
「誰だい!おい、その戸袋の陰からこっちを覗いているのは誰だい!」
「誰だい!おい、その戸袋の陰からこっちを覗いているのは誰だい……」
稽古は、みっちりと通しで続いた。その後、短七の出した饅頭を長さんが食べるシーンを重点的にやることになった。
「長さんは、饅頭はもったり、ゆっくり食べるんだ。いいかい、やるよ」
すっと小髷の顔が長さんの顔に変わる。
「気ぜわしいねえ……」
と言いながら、小髷がもぐもぐと口を動かす。小鳥はじっとその顔を見つめた。
本当にお饅頭があるみたいだ。それを吸い付く様に食べている長さんの姿が目に浮かぶ。ごくりと生唾を飲み込んで、小鳥はそれを凝視ていた。
「この野郎!一つの菓子をぺちゃくちゃぺちゃくちゃ……!饅頭なんてもんは……」
長さんの食べる様の遅さに、短七が怒り出す。彼は、長さんの持った饅頭をもぎ取って、口に放り込み眼を剥いた。
「こうやってくっちまえばいいだろ!」
パッと顔が切り替わり、短七が小髷に戻る。小髷は、どうかな?と目くばせして、小鳥に真似をするように言った。
張り切って、小鳥が真似をし始める。手の中に饅頭を思い浮かべて、ぱくりと食べてみる。気持ちは、長さんになり切って。
もぐもぐ。もぐもぐ。
「もう少し、頬を……」
小髷がすっと腕を伸ばし、小鳥の頬に触れる。いきなり頬にふれられて、小鳥は驚いて瞳をしばたたかせた。
「頬を上げて。そう。口じゃなくて、顔全体で食べる演技をするんだ」
小髷の顔が、目近にあった。かっこよすぎて、自然と口角が上がってしまう。
「そうそう、にっこりしながら、美味しそうに食べてみてくれ」
小髷が手をゆっくりと離す。頬から小髷の指が離れていき、後には紅潮した小鳥の頬だけが残された。
その赤くなってつやつやした頬で、小鳥は一生懸命饅頭を食べる演技をする。
小髷は、うんうんと頷くと、顎に手を当てて思案して、言った。
「よし、良い感じにこなれて来たな。今日はこの辺にしよう」
小鳥がふっと息をつく。小髷が、「うん。おしまい。頑張ったね」と言いながら微笑んだ。
「ありがとうございましたッ」
床に三つ指をつき、深々と頭を下げて、小鳥が一礼する。
小髷が、目を細めて小鳥に言った。
「また火曜日、待ってるよ」




