第三章《神界にて》
ピィ――……
静かな治癒室に、淡いアラーム音が鳴り響いた。
悠真は椅子から立ち上がり、ポッドに近づく。
透明な蓋の内側で、彼女のまぶたが小さく揺れ――やがて、ゆっくりと目を開いた。
目線が合う。
その瞬間、空気がぴたりと静止する。
そして、彼女はかすれるような声で言った。
「……ごめん」
悠真は何も言わず、ただ彼女の瞳を見つめた。
「……何が、だよ」
彼の声は低く、優しい。
まるで、答えを急かすのではなく、ただそばにいると伝えるような声音だった。
悠月――そう、彼女はもうフィリスではなかった。
仮面を脱ぎ捨て、素の自分としてそこにいる。
ポッドの縁に手をかけ、身体をゆっくり起こしながら、彼女は静かに言った。
「たくさん……隠してたから。
本当のこと、話せなくて……、ずっと、黙ってた」
言葉のひとつひとつが重くて、
まるで、彼女自身がその重さに押し潰されそうになっていた。
悠真は、少しだけ目を伏せ、そして言った。
「……それでも、お前なりに、頑張ったんだろ。それでいいじゃねえか」
その言葉に、彼女の肩が小さく震えた。
唇がわずかに震え、頬に涙がひとすじ落ちていく。
「ありがとう……」
その声は、ようやく“届いた”安心のように、やわらかかった。
しばらくの沈黙のあと、悠真は言葉を選ぶように口を開いた。
「……篠森さんが、あそこにいた理由。教えてくれないか?」
悠月の目が揺れる。
悠真は続ける。
「亡くなったのは、俺も知ってる。
だけど……なんであんな場所に?」
その問いに、彼女は深く小さく息を吸った。
「……魂を、守ってたの。ずっと、彼の魂を」
「魂を……?」
「魂って、肉体から離れると、初期化されるの。記憶も、名前も、想いも全部――消えて、次の転生へ向かう」
彼女は言葉を途切れさせながらも、続けた。
「でも、私は……彼が“ただの魂”になるのが怖かった。
何も覚えてない魂に還ってしまったら、もう、どこにも彼はいないのと同じだって……」
手のひらが、震えている。
「だから……魂を肉体に結びつけて、魔力で縛って……初期化を止めたの。
ずっと、彼の存在を保ち続けた」
悠真は、その告白をただ静かに受け止めた。
「でも……力で縛るって、危険なんじゃないのか?」
「……うん。わかってた。魂も肉体も、無理をすれば壊れてしまう。
でも、それでもいいって思った。
彼が“どこにもいない”より、ずっと、マシだったから」
その言葉に、悠真はわずかに目を伏せた。
そして、続けて問う。
「でも、さっき無理やり連れて行った奴がいた。あれは……」
悠月は目を伏せて、ぽつりと答えた。
「……私の結界を破って、誰かが彼を奪っていった。強引に、……どこか、別の場所へ」
「誰なんだ。あれは……神なのか?」
悠月は、しばらく迷ったあとで、そっと頷いた。
「詳しくは、あとで話す。でも――簡単に言うと、“秩序側”の神たち。
人間界を軽視する、外の世界の神々。私は……嫌われてるの」
彼女の声が、かすかにかすれる。
「もう、取り戻せないかもしれない……」
その肩が、わずかに落ちる。
「……どうしたらいいのか、ずっと考えてたけど……どうしても、答えが出せなくて……っ、」
そのとき、彼女の呼吸が浅くなる。
声に焦りが混じりはじめ、喉が乾いたように震える。
悠真は即座に身を乗り出し、彼女の背に手を添えた。
「吸うな、吐け。……深く吐くんだ、ゆっくり」
彼女は短く何度か吐息を重ね、徐々に呼吸が整っていく。
「……ごめん、平気。大丈夫」
悠真は彼女の顔をじっと見つめた。
「どこが大丈夫なんだよ。無理しなくていい。でも……」
彼の声が、少しだけ強くなる。
「篠森さんを取り戻す方法があるなら、俺は協力する。何が必要か教えてくれ」
その言葉に、悠月の瞳が大きく揺れた。
「……冥神のこと、話さなきゃね」
フィリスの声がそう落ちた瞬間、空気が一段、深く静まった。
悠真は黙って頷いたわけでもなく、目線だけで続きを促した。
「冥神は、魂と死の境界を守る神」
「……さっきの、竜、のことか?」
悠真の問いかけは、実感を探るような声だった。
自分の中に落ちかけた像に、輪郭を与えるように。
フィリスは、短く、静かに頷いた。
「うん。あの方が……冥神だった。
私の友人で、支えで、そして――最後の最後まで、私を守ってくれた」
言葉に込めた想いが、言外ににじんでいた。
「神って、大体二万年生きるの。
あの方も、もう終わりが近いのは分かっていたと思う。
でも……あのとき、私が――」
言葉が、ほんの一拍、途切れる。
「……抑えきれなかったの。
怒りと焦りで、自分を制御できなくなりそうで……」
悠真は、静かに目を細めた。
「……それでも、神だろ?何かいけないことでもあるのか?」
問いというより、疑問の形をした手探りだった。
フィリスは、その問いを真っすぐに受け取った。
「――あるの。
神が、自らの力を制御できずに放ってしまったとき、それは“神の罪”とされる」
「罪……?」
悠真の声がわずかに揺れる。
日常の言葉では処理できない重さが、そこに含まれていた。
「そう。神の世界において、“罪”に問われるというのは、ただ罰を受けるという意味じゃない。
――“神の座”から追われるということ。
それは……存在を、失うということ」
悠真の表情が、初めてはっきりと動いた。
「……それって……死、ってことか?」
その声には、率直な戸惑いと、底知れない重みへの驚きがあった。
「……うん。神にとって、“座を失う”というのは、命の終わりと同じ。
消えてしまうの。どこにも、二度と戻ってこられない場所へ」
悠真は、ゆっくりと椅子に体を預ける。
目線は宙にあったが、その目は何かを追っていた。
「……それで、その冥神って人が……代わりに力を使ったんだな」
「私が暴走する前に、限界を超えてくれた。
私が罪を背負わないように――命を使って、止めてくれた」
長い沈黙が落ちる。
その中で、悠真は手のひらを膝の上に重ね、そっと指を結んだ。
目を伏せたまま、ぽつりと漏れるように言葉が落ちた。
「……感謝しないとな」
それだけだった。けれど、その言葉にはすべてがあった。
驚き、痛み、そして深く静かな敬意。
語りすぎず、けれど確かに残る、想い。
フィリスは、それを受け取るように、小さく目を閉じた。
ふたりの間に、沈黙が戻る。けれどそれは重くはなかった。
お互いに、言葉よりも確かな何かを、置き終えた感覚だった。
やがて――
「悠真」
名を呼ぶ声が、先ほどより深く落ちた。
新一は顔を上げる。
「……あなたに、冥神を継いでほしいの」
その一言に、空気がふたたび静まり返る。
悠真は返事をせず、ただ目を細めた。
わかりきった拒絶でも、すぐに飲み込む覚悟でもなかった。
「……俺に?」
「うん。あなたは、“冥童”。
この神域に来られたことが、その証明」
「冥童……それが、どうして俺なんだ」
「あなたの魂が、それに選ばれていたから。
私は、その魂を……見守っていた」
悠真はゆっくりと息を吐いた。
「冥童ってのは……俺だけじゃないのか?」
「うん。世界に散らばっている。
でも、その大半はまだ目覚めていない。冥神の視点がなければ、見つけることもできない」
少しの間を置いて、新一が言う。
「……じゃあ、もしその中に――篠森さんを救える力を持ってるやつがいたら?」
フィリスは、目を見開いた。
「……そんな、こと、考えたこともなかった」
「お前、全部ひとりで抱えてたんだろ、仕方ないよ」
静かに、でも確かに。
悠真の声が、次の扉を押し開けた。
「本当に、よく、頑張ったな……」
治療室にはしばらく沈黙が訪れた。魔力が静かに流れる音だけが聞こえる。沈黙を破ったのは、悠真だった。
「分かった。俺が冥神になる。そのための訓練も、継承も受ける」
「……!」
「でも、それは“俺が望むから”だ。誰かの代わりじゃない。罰でも、義務でもない。俺が、選ぶからだ」
「悠真……」
「だから、お前も、その間ちゃんと“お前自身”でいろ。フィリスでも、悠月でも、どちらかに縛られなくていい。そのどちらも抱えて、苦しんで、それでも“お前として”――ここにいてくれ」
言葉はまっすぐだった。
誰かになれ、とは言わない。
誰かを捨てろ、でもない。
“ありのままの自分”を生きていてほしい――それだけだった。
悠月は――いや、フィリスとしての彼女も、
その言葉を受け止めて、静かに目を伏せた。
「……うん」
小さく、けれど確かな声。
それは、二つの名前を持つ彼女が、ひとつの想いを選んだ瞬間だった。
静けさが満ちた治療室。
悠真とフィリスが言葉を交わし、ようやく互いの想いが重なったその時――フィリスがふいに隣のポッドへ歩み寄った。
その横顔には、少しだけやわらいだ表情が戻っていた。
「ミヴァ」
小さく、けれど確かな声で呼びかけると、ポッド内で微かな反応があった。
「ん……」
ゆっくりと瞼が持ち上がり、フィリスの顔が映った瞬間、ミヴァの目が大きく見開かれた。
「フィル……!」
「大丈夫。……私も、悠真も」
「……本当、よかった……」
ポッドが自動的に開き、ミヴァが身体を起こす。
その腕をフィリスが支えながら、視線を交わす。
「お願い、力を貸して。これから、冥界へ向かう」
ミヴァの目が一瞬揺れたが、すぐに頷いた。
「……継承を?」
「ええ。悠真が、自分の意思で選んでくれたの」
ミヴァは一度悠真へ視線を向け、そして短く礼をするように頭を下げた。
「――わかりました。お二人とも、ついてきてください。《ソルネラの座》へ、ご案内します」
転移陣の輝きが室内を包み、光が空間を捻るようにして消えた。辿り着いたのは、深く荘厳な静寂に満ちた円形の神域。
冥界の核にして、継承の儀が行われる唯一の場所――《ソルネラの座》。
天井からは淡い光が静かに注ぎ、空間には冥神直属の眷属たちが控えていた。
彼らの視線が、三人に集まる。
「……主が、変わると?」
ひとりの眷属が、静かに問いかける。
フィリスは一歩前に出て、胸元に手を当て、深く礼をした。
「ええ。この方が、新たな冥神となります。私の代わりに、“境界”を護る者として」
その言葉に、眷属たちはざわついた。
「しかし……前任の冥神は……」
「――もう、還らない」
ミヴァの静かな声が、その場の空気を引き締めた。
「だからこそ、彼がその意志を継ぐ」
悠真がその名を呼ばれる前に、一歩進んだ。
「俺の意思で、受け継ぐつもりだ。だから……どうか、受け入れてほしい」
しばしの沈黙の後――ひとりの眷属が、机の上に置かれた小箱を手にした。
「先代が、この場に残していかれました。“次が現れたときは、これを託せ”と」
蓋が静かに開かれる。
中にあったのは――漆黒に輝く神のネックレス。
紋章石が微かに脈動し、まるで意志を宿しているかのように輝いていた。
悠真が手を伸ばす。その瞬間――
ネックレスがひとりでに宙へ浮かび、紋章から閃光が放たれた。
「……!」
光は悠真を包み、首元へ吸い寄せられるように――静かに、けれど確かに、首に“宿った”。
その場の全員が、息を呑んだ。
そして――
「――冥神さま」
「新たな主、おめでとうございます」
全眷属が、いっせいに膝をついた。
深く、静かに、けれど確かな敬意とともに。
悠真は胸元のネックレスを見つめながら、ゆっくりと拳を握る。
「……これが、神の……重さか」
フィリスとミヴァが、彼の隣で静かに微笑んでいた。