第一章《目覚め》
……ぬるい光が瞼の裏で揺れている。
水中で眠っているような感覚だった。温度のない体温、重さのない四肢、そして――鼓動の気配が、どこにもなかった。
それでも、自分が“自分”であるという認識だけは、やけに明確だった。
言葉がなく、時間も流れず、何かが終わったあとに残された静寂のような場所。
――ここは、どこだ?
疑問は浮かぶが、声にするための“喉”も、息もなかった。
あるのはただ、意識の浮遊。
やがて、その無音の世界に、ひとつの音が差し込んだ。
「ようこそ」
言葉だった。
不思議とその声は、耳ではなく胸に届いたような感覚だった。
続いて、温もりとともに――視界が開いた。
まぶたが開いた感覚すらなく、気づけばそこには、滑らかな光の天井が広がっていた。
白と金で統一された室内。石造りのようでありながら、どこにも冷たさはない。
“起き上がる”という動作に、自分の身体が反応した。
――そうか。俺は、死んだんだ。
最後の記憶が断片的に蘇る。
静かな病室。もうろうとする視界の端で、誰かが自分の名を呼んでいた。
その声を確かめたくて、手を伸ばしたけれど……もう、あれは届かない過去。
「立てますか?」
声の主に振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。
淡い銀髪に、薄く光を帯びた衣。背は高く、どこか中性的な雰囲気を纏っている。
「ここは、冥界です。……あなたは、死後の魂として目覚められました」
冥界――その言葉を聞いて、悠真は思わず眉を寄せた。
「天国でも地獄でもない……そんな場所ですね」
「……冗談みたいな話だな」
「けれど事実です。あなたは、神々の管理する死後世界の一つ――《ミュルフィア領》に召されました。管理神は、フィリス・シャーマノイド」
「フィリス……?」
「神の名です。ここのすべてを治める者。そして、あなたの魂の管理権を持つ存在」
現実感はなかった。だが、否定もできない。
身体がなく、痛みもなく、それでいて思考だけが異様に冴えているこの感覚は、確かに“生”とは違っていた。
「あなたは“冥童”として選ばれました。魂の構造が、神の力を理解し、保持できる素質を持っていたのです」
「……俺が?」
「はい。ですので今後は、神の言葉――“神詞”を学び、この世界の理を知っていただきます」
戸惑いはあったが、不思議と混乱はなかった。
むしろ、悠真の中には、どこかで「理解している」自分がいた。
彼は探偵だった。与えられた状況から論理的に構造を割り出すことには慣れている。
状況は異常だが、辻褄は合っていた。
「案内いたします。まずは、滞在いただく部屋へ」
青年の背に続いて、廊下を歩く。
空間は滑らかに曲線を描き、床は白磁のように柔らかく光っていた。無音の中に、悠真の足音だけが落ちていく。
途中、わずかに開いた扉から、微かな気配が流れた。
無意識にその方向へ目を向けた瞬間、悠真は息を止める。
――そこには、誰かが眠っていた。
ゆるやかに波打つ髪。鋭さを秘めた眉の形。
見間違えるはずがない。
(……篠森さん……?)
誰かに似ていた。それは錯覚か、何かの記憶の投影か。
けれど、悠真の心は確かにざわめいた。
「こちらです」
案内役が振り返り、微笑む。その視線に促されるようにして、悠真は再び歩を進めた。
用意された部屋は静かで、天井が高く、古い図書館のような落ち着いた空気に満ちていた。
書架には見知らぬ文字が並び、机の上には白いノートが整然と置かれている。
「神詞の学びは、後ほど。今は、どうかご自分を取り戻す時間を」
そう言い残して、青年は部屋を後にした。
悠真は一人、室内を見渡しながら、ゆっくりと息を吐いた。
何もかもが異質で、何もかもが静かだった。
けれど、一番気になるのは――あの扉の向こうだった。
時間の流れがわからなかった。窓から見える空は淡い金色で、雲のようなものがゆっくりと揺れている。けれど、太陽はなく、昼とも夜ともつかないその景色は、まるで絵画の一部のようだった。
悠真は室内を歩いた。棚の本は、どれも見慣れない文字で書かれている。けれど、触れた瞬間に意味がじんわりと頭に染み込んでくるような不思議な感覚があった。
(……神詞、ってやつか)
思考の隅で、“冥童”という言葉が引っかかる。自分は何のためにここにいるのか。誰がそれを決めたのか。フィリス・シャーマノイド――名だけを聞かされても、何も見えない。
ドアがノックされた。
「どうぞ」
返事をすると、そっと扉が開く。姿を見せたのは、柔らかな気配をまとった少女だった。赤に近いオレンジ色の髪がふんわりと揺れ、瞳は深く澄んだ色をしている。年齢は十代の後半か、二十代のはじめにも見えるが、どこか現実味のない空気をまとっていた。
「こんにちは。あなたが“久遠悠真”さん、ですね?」
「……ああ」
「私はミヴァ・セントリア。フィリスさまの眷属です。今日からあなたに神詞の初歩をお教えするように命じられました」
「眷属ってことは……部下か?」
「そう思っていただいて構いません。ただ、私は“フィル”の親友でもあります」
「フィル?」
「フィリスさまの呼び名です。……ここでは、皆そう呼びます。親しみを込めて」
その声には誇りと優しさが同居していた。悠真は彼女の表情を観察する。嘘をついているようには見えない。むしろ、長く誰かを見守ってきた者だけが持つ、信頼と静かな敬愛が感じられた。
ミヴァは机の横に歩み寄り、数冊の本を並べた。その背には銀糸のような文字が刻まれている。
「ここは、少し特殊な場所です。言葉は“読めない”けれど、“理解できる”。神詞というのは、そういうものです。音ではなく、概念を伝える……そう捉えてください」
「つまり、イメージに近いってことか?」
「ええ、かなり近いです」
悠真はひとつのページを開いた。そこに書かれているのは、螺旋を描くような文様。けれどその形を見たとたん、“守る”という概念が頭の中に浮かんだ。
「……すごいな。これが全部、意味を持ってるのか」
「あなたには素質があります。フィルは……いえ、フィリスさまは、あなたの力をとても高く評価しておられます」
「……面識があるのか? その神と、俺は」
「記憶にはないかもしれません。けれど、フィルはずっとあなたのことを見ていました。あなたが何を守り、何を選んできたか……」
言葉の端に、なにか含みを感じた。だが、ミヴァはそれ以上語らず、やわらかく微笑んだ。
「神詞は、あなた自身を映す鏡にもなります。何かにぶつかったとき、理解できなかったとき、そこにあるのは“あなたの心”です」
「……そういうもんか」
悠真は再びノートを手に取り、いくつかの文様に目を通す。そのひとつひとつが、奇妙に心を揺らした。“探す”“離れる”“還る”――言葉ではなく、感情の塊のように迫ってくる。
ふと、彼は目を上げて言った。
「ひとつ、聞いてもいいか?」
「どうぞ」
「その……フィルってのは、どんな奴なんだ?」
ミヴァは少しだけ表情を緩めて、けれど真剣な目で答えた。
「正直で、まっすぐで……人間を、とても大切にする神です。決して上から支配するような神ではなくて、隣に立って寄り添うような、そんな在り方を選び続けています」
「……」
「でも同時に、とても頑固で、譲れないことには一歩も引かない。だから時々、傷つくことも多い。でも、それでも……手を離さない人です。誰かを、最後まで信じる人です」
その言葉のひとつひとつが、胸に響いた。誰かに似ている――その感覚がまた、悠真の中でざわめきを広げる。
「……会わせてくれないか? そのフィルって神に」
ミヴァはすっと目を伏せた。
「それは、まだ叶いません。けれど、お姿なら……少しだけ、お見せできます」
そう言ってミヴァが手をかざすと、空間が揺れた。浮かび上がったのは、モニターのような立体映像。その中に、一人の女性がいた。
淡い緑色の髪が、光を受けて揺れている。波打つ天然のパーマが肩を包み込み、静かな声で眷属らしき存在と話している。神衣をまといながらも、どこか儚い印象を与えるその姿。
悠真は、思わず息を飲んだ。
(……見覚えが……ある)
その目のかたち、肩の線、指の動かし方、そして――雰囲気。
けれど、それは記憶の中の誰かとは、完全には一致しない。思い出しそうで思い出せない。感情が名前を追い越して先に走っていく。
その瞬間、映像の中のフィルが、突然頭を押さえてしゃがみ込んだ。
「……!」
ミヴァが、思わず声を上げた。
「フィル……?」
悠真の心臓が、どくりと跳ねたような錯覚を覚えた。
(この姿……)
目の前でうずくまる彼女。その姿は、どこかで何度も見たことがある。夜の病室。白い枕元。声もなく、ただ頭を抱え、痛みに耐えていた……あの子。
フィル――神さまが、苦悶するように頭を抱えていた。
映像越しでも、あまりに生々しいその姿に、悠真は息を呑むしかなかった。
ミヴァの横顔が曇る。彼女は目を伏せ、そっと映像を指先で消した。
「……ご心配をおかけしました。フィリスさまは、ときどきあのような発作を起こされます」
「発作って……病気なのか?」
「はい。ここでは“魂性神経炎”と呼ばれるものです。肉体的な痛みではありませんが、魂に深く刻まれた傷が、波のように神経を襲います」
「そんなのが、神さまにもあるのか」
悠真の声には驚きと、どこか納得のいかない色がにじんでいた。
「神さまは万能ではありません。人と同じように、傷つき、迷い、間違えることもあります。ただ……そのすべてを抱えたまま、それでも他者を守ろうとする存在。それが神さまなのです」
悠真は黙って、椅子に深く腰をかけた。頭の中に、いくつもの記憶の断片が流れていく。
病室でうずくまる、あの小さな背中。
名前を呼ぶだけで痛みに顔をしかめ、それでも笑おうとする顔。
「神さまって、何なんだろうな」
ぽつりと漏らした言葉に、ミヴァは少しだけ目を細めた。
「神さま……フィルは、苦しみながらも人に近づこうとする存在です。どれほど傷ついても、自分の魂を削ってでも、“人の願い”を見つけて叶えようとする」
「……それって、神ってより……人じゃないか?」
悠真の皮肉めいた声に、ミヴァはふっと微笑んだ。
「そうかもしれませんね。けれど、それが彼女の選んだ神のかたちです」
「……」
言葉を返せなかった。
神という存在に対して、今まで“崇高で遠い”というイメージしか持っていなかった。けれど、この神さまは、あまりにも身近で、どこか切なさすら感じさせる存在だった。
それはまるで――
(……誰かに、似てる)
名前が出ない。けれど、心のどこかが騒ぎ始めていた。
「……さっき、俺が見た部屋に……」
悠真は思い出したように口を開く。あの、ほんの一瞬覗いた扉の向こう――静かに眠っていた男の姿。
「篠森……蒼士に似た人がいた。もしかして、神さまは、魂を集めてるのか?」
「その方の名は申し上げられませんが……はい。ここには、“必要とされた魂”が保護されています」
「保護……?」
「フィリスさまが、必要と判断した魂は、記憶を凍らせたままこの領域に保管されます。外の世界ではすでに亡くなったことになっていても、こちらでは“眠っている”状態にあるのです」
「……じゃあ、あの人も……」
ミヴァは肯定も否定もせず、静かに本を閉じた。
「フィリスさまは、あなたに無理をさせるつもりはありません。ただ、あなたが必要なことに気づいたとき、そのときこそ、フィリスさまは姿を見せるでしょう」
「必要なこと、か」
悠真は天井を見上げた。
この部屋は穏やかで、心が落ち着く。けれど、それが逆に不安をあおる。
今、自分が立っているのは“真実の外”なのか、それとも“真実の中”なのか。
(……俺はここで、何をするんだ?)
「今日はもう、ここまでにしましょう」
ミヴァが立ち上がり、柔らかな笑みを浮かべる。
「神詞の読み方は、きっとあなたの中に自然と刻まれていきます。急がず、焦らず。神さまもそれを望んでおられます」
「……」
ミヴァが出口に向かう背中を、悠真はしばらく黙って見送った。
「なあ」
扉の前で、彼はようやく声をかけた。
ミヴァは振り返る。
「神さまってさ……どんな顔で笑うんだ?」
その問いに、ミヴァはしばらく黙ったまま、やがて――少し寂しそうな目で微笑んだ。
「……とても、やさしい顔です」
そして扉が閉じる。部屋に再び、静寂が戻った。
悠真は机に置かれたノートを開き、けれどすぐに手を止めた。
何も書かれていないページを見つめながら、ゆっくりと目を閉じる。
(あの顔、あの表情……見たことがある気がする)
(けど、どこで……?)
心が、何かを思い出そうとしていた。
けれど、それはまだ霧の中。
悠真は窓の外に目を向け、冥界の空を見上げた。
空は、淡い緑と金の混ざりあった色をしている。どこか現実離れしたその景色の中に、微かに誰かの声が聴こえた気がした。
――はるま。
「……」
かすかに眉を動かし、口元がわずかに揺れる。
けれどまだ、思い出せない。
ただ胸の奥に、あたたかくて、切なくて、消えない想いが揺れていた。
夜の訪れを告げるような変化は、冥界にはなかった。
けれど、悠真はどこかで時間の流れを感じていた。
身体に刻まれていた“地上の感覚”が、それを教えてくれるのかもしれない。
誰も訪れない部屋の中で、悠真はひとり、静けさと向き合っていた。
神詞のノートは閉じたままだった。
今は、言葉ではない何か――感情や記憶が胸の奥でざわめいていて、それがすべてを塞いでいた。
神さまの姿を見たとき、頭の中にいくつもの記憶が蘇った。
あの髪の色、うねり、声の調子、そして――苦しみを隠そうとする微笑み。
(……本当に似ていた)
彼女の名前を出すのは、まだためらわれた。
だが、心のどこかではもう、その可能性を否定できなくなっていた。
静かに立ち上がり、窓辺へと歩く。
ガラスのないその窓からは、冥界の空が広がっていた。
深い緑と金の滲む空は、どこか懐かしさを誘う。
(こんな色――昔、病室で見た、あの夕焼けに少し似ている)
ふいに、胸が締めつけられた。
悠月のいた、あの部屋。
白く整えられたシーツ、薬の匂い。
いつも窓際に座って、ぼんやりと空を眺めていた彼女。
強くはない身体を、精一杯に起こして――それでも、苦しさを隠そうとするように笑った顔。
(あの時も……何もできなかった)
発作のときは、ただ見守ることしかできなかった。
頭を抱えて小さくうずくまるその姿に、呼びかけるしかなかった。
手を伸ばしても、痛みを代わってやることはできなかった。
神さまの姿は、あまりにもそれと重なっていた。
(でも、まさかな……)
自分にそう言い聞かせようとして、言葉が喉の奥で止まった。
もし、本当に――
窓の外に視線を向け直す。
その空の向こうに、彼女がいるのかもしれない。
記憶の中でしか動かなかったその笑顔が、今もどこかで息づいているのかもしれない。
答えはない。けれど――
悠真は、深く、長く、息を吐いた。
そして、どこへともなく届くように、けれど誰にも聞こえぬように、ただ、ぽつりと呟いた。
「……悠月」
名前だけが、静かに、そして確かにこの空間に落ちた。
まるでそれに応えるように、どこからか微かな風が吹いた。
この世界では感じないはずの、かすかな気配。
あの頃、彼女の傍にいたときに感じた、あたたかな風とよく似ていた。
悠真は目を閉じた。
まだ何も確かではない。
けれど、この感覚だけは、間違いなく――“本物”だった。