悟の覚悟と変化
ドアの前でネームプレートを確認してから僕は一つ深呼吸をした。
『龍崎一颯・諏訪望』その隣に設置されているインターホンがやけに遠くに感じる。
祝宴の後、僕は一旦自室に戻り身を清めるつもりで冷水を浴びた。
12月初旬に何をやっているのかと我ながら呆れた行いだと思うが、鏑木氏との決着は今の僕にとって合気の試合前と同じ心境だったから。
滝に打たれる感覚でシャワーの出力を全開にして目を閉じ呼吸を整える。真白にした頭の中で対峙する相手を据えてから互いの呼吸を合わせ一気に畳掛けるイメージ。なのだが・・・・今回は、僕から鏑木氏への宣戦布告。
「篠崎さんを誰にも渡したくない」僕は鏑木氏にそう告げようと思っている。今の僕の正直な気持ちだ。自分がこんな感情を抱くとは思ってもみなかったから自分自身に対するケジメでもある。
他人の彼女を奪おうとする行為で、それは技術を盗むのと何ら変わらないと思う。僕の中で篠崎さんを強く想う感情と罪悪感とが拮抗していた。
だから、冷水を浴びた。これは僕自身の醜い感情を含めて現実を直視する覚悟を持つための儀式だ。冷水を浴びながら細く長く息を吐ききった所で僕は目を開けた。
僕はもう一度、大きく息を吸い目の前のインターホンへ右手を伸ばした。
チャイムの音と同時に「どうぞ~」と諏訪さんの声。音もなく開いたドアの先に「よく、来たね」と微笑みを向ける龍崎さんが佇んでいた。
――――リビングに通されると諏訪さんお気に入りのアールグレイの香りが漂っていた。
「悟も飲むだろう?」
リビングソファに鏑木氏の姿がない事を確認してから僕は諏訪さんの誘いに呼応する。
「はい、頂きます」
龍崎さんは「入れ直そうか」と諏訪さんからマグカップを受取りキッチンで茶葉の入った缶を数種棚から取り出した。
「悟、座ったらどうだ?」
キッチンの龍崎さんをボーっと見つめリビングの入口で佇んでいた僕は諏訪さんの言葉にピクリッと反応する。
「まぁ、悟の事だから冷水でも浴びてきたんだろう?」
リビングソファにゆったりと腰掛けている諏訪さんがやれやれといった顔を僕に向けた。確かにその通りなのだが、諏訪さん以外にも僕はそんなに分りやすいのだろうか?
龍崎さんへ視線を向けると脳内アナウンスのショウが機能していない場所でも僕の思考は読み取られている様で
「悟は素直で正直だから」
と、またしても微笑みを向けられた後、宿舎内を移動してきた割には僕を招き入れたと同時に室温が下がったところからの推測だと言い
「緊張をほぐす時間はたっぷりあるから安心していいよ。史郎は30分ほど遅れるそうだから」
龍崎さんは茶葉のブレンドを終えたポットにコポコポと湯を注ぎながら、僕にリビングソファへ座る様目配せをした。
「失礼します」
僕は一言挨拶をしてからソファに腰を下ろし大きく息を吸った。
淹れたてのアールグレイの香りを漂わせたウェッジウッドのティーカップをトレイに乗せて運んだ龍崎さんは諏訪さんの隣に腰を下ろした。
「一颯、カップ&ソーサーにしたのか」
「ああ、悟の勝負どころだろう?」
そう言えば先ほどもこの間も諏訪さんが手にしていたのはマグカップだった。『勝負どころ』ではティーカップになるのか?正式な場と言うことだろうか?
「そうか、一颯のその心配りが悟に勝機をもたらす」
「そうだと喜ばしいな」
諏訪さんは優雅な手つきでソーサーを手に取ると香りを愉しむ様にカップを口元に運び、一口すすってから僕に視線を向けた。
それはまるで親が子に向ける視線で何だか気恥ずかしい。着任日の11月に30歳を迎えた僕に向ける目ではないように思うが、入社当時から世話になっている諏訪さんから見れば僕は子どもみたいなものなのかもしれない。
「悟も飲んだらどうだ?気が休まるぞ」
諏訪さんが僕に向ける目に感謝をしつつカップを口に運ぶ。
「いただきます」
僕は胸いっぱいにアールグレイの華やいだ香りを吸い込んだ。
―――口に含むと一段と香り高く感じて、龍崎さんが言う様に僕の緊張をほぐしてくれる。僕は今夜この場をお膳立てしてくれた2人に鏑木氏に何を伝えるかを話しておこうと思った。
ソーサーをテーブルに置く。カチャリと陶器が触れ合う音に2人の視線が僕に注がれたからタイミングを逃さず頭を下げた。
「諏訪さん、龍崎さん、今夜、鏑木さんと話しをする場を設けて下さりありがとうございます」
御礼を述べて顔を上げると2人は揃ってまたあの親が子を見守る目を向けていた。その目に気恥ずかしさよりも安心感を与えられた様な気持ちになる。勢いづいた僕は
「鏑木さんに私が今、篠崎さんに抱いている気持ちを正直に伝えようと思っています」
一息に伝えた僕に2人は微笑みを向け、その先の言葉を待っている様だったから
「篠崎さんのことを私は何も知りません」
そう。今の僕は彼女の事を何も知らない。でも
「それでも同じブースで一月を共にした」
そうだ。一月一緒に仕事をすれば人となりを知るには充分だ。
「今日、箱庭にシズカを納入して改めて強く感じました」
僕は僕自身の気持ちを自覚した。
「篠崎さんを誰にも渡したくない!」
そうなんだ。僕にとって篠崎さんは唯一無二の存在だと自覚した。だから、例え目の前に大きな障壁があったとしても乗り越える事ができる。
「鏑木さんがどんなに素晴らしい方でも篠崎さんを渡したくないんです!」
僕は小刻みに震えている両手拳を膝の上でぎゅっと握りしめた。
「「・・・・」」
2人は暫く無言で僕の様子を窺っていたが、続きの言葉がないと見ると諏訪さんが口を開いた。
「そうか。悟、ここに来て一月弱、凄まじい自己変革だな」
「へっ?」
この期に及んで、諏訪さんの禅問答が始まるのかと身構えた僕は素っ頓狂な声で呼応していた。
僕の反応に諏訪さんは「心配するな」とカップへ視線を戻した。
「悟はこの一月で自分の感情と向き合い、受け入れる事を体得したんだ」
諏訪さんはTCS㈱では得られない成長だと思うぞと付け加えて
「一颯はどう思う?」
僕は話しを振られた龍崎さんへ視線を向けた。研究所の医務室管理者で医者でもある龍崎さんは僕を診察するかの様にじっと見つめてから
「そうだな。今の悟になら話しても問題ないだろう」
と、心なしか嬉しそうな表情を見せた。2人の言葉のやり取りは時折、僕には理解できない内容が含まれていると感じる。
何と表現するのが妥当なのか分からないが、言葉だけでない暗黙知とでも言おうか?2人の間だけでしか汲み取りない呼吸の様なもの。
「一颯も同感なら、史郎を待つ間に楓の話しをしよう」
「へっ?」
思いもかけない諏訪さんの言葉に僕はまた、素っ頓狂な声を上げてしまった。鏑木氏の話しならまだしも篠崎さんの話しとは何だ?
「史郎のことは史郎本人が話すだろう」
またしても思考を読まれているかと思う諏訪さんの言葉に思わず「うっ!」とうめき声が漏れた。
諏訪さんは「うめき声を出せれば上等だぞ」と微笑んだかと思うと今まで見せた事がない厳しい表情を僕に向けた。
「楓の名は楓の兄の名なんだ。本来の名は葉月、篠崎葉月が彼女の名だ」
諏訪さんの言葉を理解するのに僕の脳は数分間、その機能を停止した様に思えた。