満月の夜に
煮詰まった時の僕の対処法は2つ。まずはトコトン目の前の事に向き合う。向き合っても解決策が見当たらない時は、目の前のコトから一旦離れてみる。
技術研究に携わっている者はだいたいが同じような行動を取ると思うが、目の前のコトから離れた後の行動は様々で、僕の場合は水辺に足を運ぶ。
TCS㈱の工場にいた頃は玄関口の噴水の前に設置されていたパラソル付きのベンチがその場所だった。
「さて、どうしたものかな?」
僕は一通りの状況を諏訪さんに報告を兼ねて相談をしてから研究所を出た。
池の畔に立ち寄ろうかとも思ったが、すっかり暗くなった外を見ると、11月中旬を過ぎた少し強めの風が木々を揺らしていたから寒さを覚えて身震いをする。
一旦、宿舎に戻って上着を取ってきてからと思い自室に向かった。池に向かう回廊の出入口に差掛るとやけに辺りが明るく感じて上空へ目を向ける。
満月だった。
青白い光が柔らかく池を照らしている。人工物とは思えない美しさに上着のことなど忘れ、僕の足は自然と池の畔に向かう回廊へと進んだ。
シャッと扉が開くと冷たい風が頬を撫でる。思わず両手で身体を包むが、目の前の光景に息を飲んだ。
夜空に浮かぶ青白い満月が池の水面で揺れている。天と地で柔らかい光を放つ青白い満月は濃紺の世界に幻想的な光景を創り出していた。
そういえば、着任日に案内してくれた時に鏑木氏が言っていた。満月の夜は絶景が観られると。僕はあの時、鏑木氏が案内してくれたベンチへと向かった。
ギクッ!誰もいないと思って近づいたベンチに誰か座っている?気配を全く感じさせなかったから近くにくるまで気付かなかった。
サァァァァ・・・・と吹いた風に長い黒髪が揺れるのが目に入った。篠崎さん?僕は周りの景色に溶け込む様にベンチに座わる篠崎さんの後ろ姿に吸い寄せられる様に近づいた。
「篠ざ・・・・」
声を掛けようと名前を呼んだ時だった。
ババッバッ!!
シュッ!
ドサッ!!
僕は首元を掴まれ、ベンチ横の地面に仰向けに押さえ込まれた。左ひざで僕の右腕の動きを封じ、右ひざは立てて反撃に備えている。小刻みに揺れる篠崎さんの黒髪が僕の喉元をくすぐった。
ああ、そうだった。やってしまった。鋭い目つきで僕を睨みつけている篠崎さんに僕たちの出会いを思い出した。
あの時と同じ「はぁはぁ」と呼吸は乱れ、篠崎さんの目には僕は映っていない様だ。違いは周りに人気が全くないことと、月明かりだけの暗闇。僕は応戦覚悟で僕の首元を掴んでいる篠崎さんの左手首にそっと触れた。
ビクリッ!!
案の定の反応だが、そこから戦闘態勢に入る様子は見られない。僕はできるだけ篠崎さんを刺激しないよう声を落として名前を呼んだ。
「篠崎さん、山吹です。山吹悟です」
ピクリと小さく左手首が反応した。声は・・・・届いたか?僕は少し音量を上げてもう一度、名前を呼んでから僕を認識してもらおうと思った。
「篠崎さん?山吹悟です。篠崎さんと同じチームの山吹悟です」
僕の首を掴む力が徐々に緩んでいく。もう少しだな?
「学習しなくてすみません。また、驚かせてしまったね」
首を掴む力と右腕を押える力が一気に緩んだと思ったらポタポタと温かいものが、僕の冷えた首元に伝った。
「・・・・ごっ・・・・ごめんなさい・・・・」
乱れた呼吸の合間合間にやっと言葉を絞り出す様に呟いて、篠崎さんはそのまま脱力する様に僕の胸に顔をうずめた。
どれだけの時間、ここにいたのだろう?僕の胸に触れる篠崎さんの額はとても冷たく感じて、僕はそっと篠崎さんの後頭部へ左手を乗せた。
「大丈夫ですよ。こう見えて受け身は得意なんです」
篠崎さんが落ち着くまで、このままでいようと思い空を見上げた。
青白い満月の柔らかな光が僕らを包みこんでいる様な、何とも言えない穏やかな気持ちを僕は抱いた。
―――どのくらい、そうしていただろう?僕の胸に顔をうずめる篠崎さんがポソリと呟いた。
「・・・・ごめんなさい・・・・あの・・・・」
何かを言い淀んでいる様子に満月を眺めていた視線を篠崎さんに向けた。うん?起き上がれないのか?顔を上げるのを躊躇っている様に見える。
「どうしました?どこか痛みますか?」
僕の声に顔を上げることなくふるふると首を振り「鼻が・・・・」と消え入りそうな声が聞こえた。ああ、そうか。鼻水がシャツについたのか。
こんな絶景を前に傍から見たらこの状況はどう見える?仮に僕が目撃したらお邪魔をしてはいけないと、早々にその場から離れるだろうな。けれど実際は投げ飛ばされた挙句のシャツに鼻水。
「ぷっ・・・・」
込上げてきた笑いを抑え、僕の胸はプルプルと上下に揺れた。胸の上で顔をうずめる篠崎さんの額が突然に熱くなる。
「・・・・くっくっくっ・・・・」
ダメだ。抑え込もうとすればするほど笑いが込上げてくる。徐々に揺さぶりが増す僕の胸に溜まりかねた篠崎さんが勢いよく起き上がった。
「もう!山吹さん、酷い!」
そこには僕が惹かれた篠崎さんがいた。ぷぅと頬を膨らませ、酷いと言いながらもポケットから出したハンカチで自分の鼻水より先に僕のシャツを拭っている。その姿を目にしたら堪えていた笑いはピタリと止まった。
風の里で再会してから担当ブースは同じでも宿舎ではなるべく顔を合わせない様にしていたから、こんなに間近で顔を見るのはあの日以来だ。
僕は身体を起こしシャツを拭う篠崎さんの顔をまじまじと見つめた。青白い満月の光に照らされて長い黒髪が輝いて綺麗だ。だけど
「篠崎さん、先に・・・・顔を拭いたら?」
涙なのか?鼻水なのか?混ざっているよ?それでも君は自分のことは後回し、そういう人だ。
「いやだ、もう、見ないでくださいよ」
恥ずかしそうに顔を拭う篠崎さんが、あのランチをした日に『魂の片割れかも』と言った篠崎さんが、今、僕の目の前にいる。
笑いのかわりにこみ上げてきた、このとても暖かい感覚は紛れもなく愛おしさだ。そのことを自覚した途端、僕の頬を熱いものが伝った。
―――今までに付き合った人がいなかったわけではない。
学生時代からそれなりに彼女はいた。付き合えば相手を尊重したし、大事にもしていたと思う。
「えっ!山吹さん!どうしました?」
でも、優先順位はどうかと問われれば、一番は自分の興味関心があるコトだった。
「あっ!もしかして!頭を打たんじゃ?」
だから、決まって言われた『技術以外に興味がない人間味の薄い人。他人の気持ちが解らない偏った存在』一緒にいてもつまらないなんて事も言われた。
「聞こえてますか?山吹さん!!」
思えば相手からの好意で始まる付き合いばかりで、自分から想いを寄せたことはなかった。付き合っていく過程で愛着が湧いたのだと思う。
「山吹さん!!」
そう。愛着だ。愛情じゃなかった。だから、別れを告げられても、そんなものかだったし、引き止めたいとすら思わなかった。
「どうしよう!!山吹さん!!!」
だから、篠崎さんへ抱くこの胸が張り裂けそうな程の熱を感じる想いは初めてのことだ。
「山吹さん!!!」
涙を流しながら内観する僕を気づかい篠崎さんが伸ばした左手を思わず握った。
「山吹さん?」
僕の顔を必死の形相で見つめた篠崎さんの握った左手を僕は自分の胸に押し当てた。
「胸が痛みますか?!」
その声も、仕草も、たまらなく愛おしい。僕は篠崎さんを抱き寄せ、こみ上げてくる熱い想いを告げていた。
「好きだ!胸が張り裂けそうなほどに・・・・君が、好きだ!」
青白い満月が夜鏡の池に姿を映した少し肌寒い夜のことだった。