愛憎という感情
「ねぇ、悟」
左拳で胸の真ん中を押さえる僕を手招きして隣に立たせてから、ここから見える景色は僕の目にどう映っているのか?と尋ねられた。
どう映っているか?質問の意図が読み取れず戸惑う。ただ単に目の前の景色の感想を問うているのではないことだけは判るが。そういえば、入社当時に禅問答の様な問いかけを諏訪さんからよくされたことを思い出した。
「どう、映っているか・・・・ですか?」
僕は一つ大きく息を吸ってから目の前の景色に意識を集中させた。黒曜石の採掘場跡だと説明された地下空間に地上と同じように存在する光、太陽だ。最初はホログラムかと思ったが、池の畔に立った時に熱を感じた。夜には月も昇ると鏑木氏は言っていた。森林もそうだ。鳥のさえずりが聞こえ、風が抜ける。木々の匂いもするから全ては現実のものに違いない。
技術的なことは今は除外するとして、地上よりも心地よく感じるのは視覚対象物の調和バランスが絶妙なことと機械的な音が一切しないことだ。僕は景色から目を離さずにこう答えた。
「心地よく、映っています」
「そうか、心地がいいか。どうだ?胸の痛みは解消されたか?」
僕はハッとした。鏑木氏の姿が浮び覚えた胸の痛みを忘れていた。そういえば、さっきもそうだった。医務室の椅子に意識が集中して、鏑木氏と篠崎さんのことがスッポリ頭から抜け落ちた。あの時は素材が気になってのことだと思っていたが、視覚的な調和バランスと音の効果か?僕は諏訪さんに視線を向けた。
「嘘のように、解消されています」
諏訪さんは緩やかな微笑みを向け「少し、陰陽の法則について話しをしようか?」と備え付けのリビングセットを指し示した。
―――宿舎の自室は80㎡程の広さで、バスとトイレ以外は仕切りが一切ない広々とした空間だった。天井と壁面が透明な状態だとまるで宙に浮いているように感じる。
家具は社宅マンション同様、全て備え付けられているから引越し準備は楽なものだった。業者に依頼をしたのは衣類や書物などで段ボールが片手で収まる数個ほど。その荷物はベッド脇に置かれていた。
南向きに配置されているリビングソファに座るよう促される。見た目は随分と違うが、このソファの素材も医務室で見た椅子と同じものを採用しているのだろう。腰を下ろすと全身が包みこまれた様に感じてほっと息が漏れる。
諏訪さんが北側にある8㎡程の対面キッチンでゴソゴソしているから、何をしているのかと振り返ると湯気が立つマグカップを2つ手にして目の前の小さな丸テーブルに置いた。
「風の里で栽培、加工しているジャスミン茶だ。悟の好みにしてある」
僕の隣にそっと腰を下ろすと香りを愉しむ様にマグカップを揺らしている。いつの間に湯を沸かしたんだ?沸騰音など聞こえなかったぞ?僕は立ち上がり対面キッチンを覗き込んだ。
「ああ、ドリンクバーの要領だ」
ドリンクバー?自室に?諏訪さん曰く、自室では4種までの飲み物が選択可能になっているそうで、日替わりで調整が可能。気分に合わせて色々試してみればいいと事も無げに告げられた。
「さてと、悟も喉を潤せ。話はそれからだ」
そう言うと諏訪さんは僕の手にマグカップを握らせた。思えば、一度止まったSAで水を一口二口飲んで、その後は飲まず食わずでいたことに気づく。僕はジャスミンの香りを大きく吸い込んでからマグカップに口をつけた。
一杯目を飲み終えると諏訪さんから「もう一杯どうだい?」と誘われる。僕が誘いに応じると二杯目のジャスミン茶を入れに諏訪さんはリビングソファから立ち上がった。
「悟は太陰太極図、もしくは陰陽太極図を知っているかい?」
2つのマグカップを手にした諏訪さんが、僕を見下ろし問いかけた。
タイインタイキョクズ?インヨウタイキョクズ?聞いたこともなければ、文字すら思い浮かばない。
ただ、陰陽の法則の話しをすると諏訪さんが言っていたからインヨウタイキョクズのインヨウは何となく陰陽の文字があてはまるのではと推察はできるが。
僕は首を左右に振り「知らないです」と正直に答えた。
―――二杯目のジャスミン茶を入れたマグカップを手に、リビングソファに戻った諏訪さんはエアモニターを開いて「これが、太陰太極図だ。陰陽太極図や陰陽マークとも呼ばれている」と見覚えのある紋様を見せてくれた。
円の中央がS字型の波紋で仕切られていて、左は白地で波紋の膨らんだ部分の左下方に黒丸が描かれている。対する右は黒地、左下方の黒丸と対角線上の右上に白丸が描かれていて、何となく円の中に白黒の勾玉が絡み合っている様に見える紋様だった。
「見たことはあるだろう?」そう、問いかけられて僕は頷いた。
「いつ、どこで見かけたかは覚えていませんが、見覚えはあります」
「そうか」諏訪さんはゆったりとした口調でこの紋様の謂れを語ってくれた。
吉祥グループの『里山プロジェクト』は陰陽五行の思想を取り入れた運営を行っている所から話しは始まった。
陰陽五行は古代中国の自然哲学思想を起源としていて、この紋様は道教と儒教に由来するシンボルだそうだ。「陰陽道の言葉は聞いたことがあるかい?」諏訪さんは途中途中で僕に問いかけつつ進めていく。
僕は都度都度の問いかけに簡単な「はい」か「いいえ」としか返答ができずに諏訪さんの話しに耳を傾けた。この話しが分身の製造に必要で重要であるからこそ、諏訪さん直々に説明をしてくれているのだと直感したからだ。
僕の返答と反応を確認しながら話は進んだ。万物の陰陽は表裏一体であり、天地万物は陰と陽のバランスによって成り立っていることを意味した紋様が陰陽太極図で、陰と陽、相互依存と変化、円と波紋、などの相対する要素が相互に影響し調和とバランスを保つことを表したものだというところで、諏訪さんはエアモニターを指し示した。
作用と反作用、物質と反物質のようなものか?と僕なりの解釈をしつつ、僕はエアモニターに浮かんだ陰陽太極図を眺めた。
―――諏訪さんはジャスミン茶を口にしてから「陰陽の法則は陰陽太極図を体現しているものだ」と言い、呪文のような言葉を呟いた。
「陰は陽を引き、陽は陰を引く。陰と陰、陽と陽は反発する。陰は陽に変化し、陽は陰に変化する。陰は陽を生み、陽は陰を生む」そして「陰と陽は対立するのではなく、相補的なものなんだ」と付け加えてから僕の顔を見つめた。
「悟、君は今日、陰陽を体感したんだよ」
僕の返答に向き合う様に身体を僕へ向けてから「ここでね」と胸の真ん中に人差し指を押し当てた。
僕は何の話しをされているのか?理解ができずに首を傾げ諏訪さんの顔を見返すと「悟は解っているはずだ」と微笑まれた。
何のことだ?ここ?諏訪さんの指が置かれたままの胸の真ん中に目をやった瞬間、篠崎さんと鏑木氏の事が頭に浮かんだ。胸に激痛が走る。
「うっ・・・・」溜らず、身体を丸めた。
諏訪さんは僕の両肩へ手を置き「心配ない」と丸めた僕の身体を起こさせて「悟は愛憎を知ったんだ」と言った。
愛?憎?僕の胸の痛みはこの言葉を聞いて緩んでいく。諏訪さんは続けた。僕が篠崎さんに好意を抱いていた事は報告で上がっていた。それはそうだろう。面談時に指摘されたのだから。
プロジェクトに参加するための措置とはいえ、諏訪さんに私的な事を知られていたと思うといい気分ではない。僕は諏訪さんから視線を逸らした。
「悟、愛憎は咎められることでも、醜いことでもないぞ。それは人の感情の根源だ」
諏訪さんは僕に視線を戻すよう促すと両肩から手を離し「胸の痛み、解消されただろう?」と微笑み話しを続けた。
正直なところ、諏訪さんが何を言いたいのかが解らない。確かに胸の痛みは解消されたが、このモヤモヤとした感覚は初めてのことだ。
「悟は、どうしたいのだい?」
諏訪さんに問いかけられた言葉にドキリとした。異動の取り消しということだろうか?赴任初日にこの有り様だ。取り消しだと言われても仕方がない。今度は背中に痛みが走った。
「悟、君は分身チームの大切な一員だ」
やっぱり。諏訪さんには隠し事も誤魔化しもできない。異動の取り消しはないとほっと息を漏らした僕は次の諏訪さんの言葉に耳を疑った。
「担当ブースは楓と一緒だ。史郎はここへ来ることはほとんどないぞ」
「・・・・はっ?・・・・な・なにを・・・・」
僕は両耳の下、リンパ腺の辺りに熱を感じてゴクリと生唾を飲んだ。
統括管理部に所属する鏑木氏は、研究・開発施設エリアへは異動者の案内以外はほとんど立ち寄らない。住まいは統括管理部本部棟に隣接する居住区で、ここはチームメンバーだけの宿舎だと諏訪さんは付け加える。
「陰は陽を引き、陽は陰を引く。楓に魂の片割れと言われたのだろう?」
リンパ腺の辺りに感じた熱が頭頂へ向かい上ってくる。眼球からドクドクと心音を感じて僕は思わず両手で両耳を塞ぎ
「止めてくださいっ!」
諏訪さんに向けて大声を上げていた。
両耳が熱く瞬きもままならない。全身が小刻みに震え続ける感覚を僕は初めて体験していた。
「悟、君は今、感情を制御しているんだ。いや、押さえつけているといった方がいいか」
諏訪さんは両耳を塞ぐ僕の両手をそっと外しにかかった。ビクリッ!と全身に緊張が走る。
「大丈夫だ。安心しろ。いや、悪かった。悟に危害を加えるつもりはない」
まるで子どもをあやす様に諏訪さんは僕の正面で屈んで、ガクガクと上下に振える膝の上にゆっくりと両手を乗せてくれた。
「悟を追い詰めたいわけでも、危害を加えたいわけでも、困らせたいわけでもない」
徐々震えが収まってくると、そう呟きながら元いた僕の右側に腰を下ろし呟いた
「・・・・楓も君に好意を抱いているようだ・・・・」
諏訪さんの呟きに収まってきた震えが復活した。なんなんだ?これは?僕は一体どうしたんだ?
膝の上に置いた両手が上がり、耳に近づけると「抑え込む必要はない。自覚し、受け入れるんだ」と諭す様に言われた。
何を抑え込んでいるのかさえ、解らない状態で自覚?受け入れる?僕はこの状況でも禅問答の様な話し方をする諏訪さんに怒りを覚える。
「そうだ、その調子だ」
なんなんだ!全く理解ができない!諏訪さんは何をしたいんだ?僕はここに、このプロジェクトに参加することを待ち望んでいたのに。
鼻先にツンッと痛みが走り両目の熱が一気にあふれ出した。こみ上げてきた怒りが哀しみに変わっていくのが解る。
誰にでもなく僕自身に対して。僕は僕自身が思っていた以上に篠崎さんへ想いを募らせていたのだろうか?一人のひとのことで、こうも人間は感情をかき乱されるのか?
感情がかき乱されているのか?思考が制御できなくなっているのかさえ解らない!そんな自分自身が情けなくて仕方がない!
気付くと僕は左手を額に当て、うめく様に涙を流していた。
右隣に座る諏訪さんが小さな声で呟いた。
「それが、愛憎から生まれた喜怒哀楽の怒りと哀しみだ」
僕の脳裏に諏訪さんの呪文の様な言葉が浮かぶ。『陰は陽に変化し、陽は陰に変化する。陰は陽を生み、陽は陰を生む』
「分身に必要な愛憎という感情だ」
諏訪さんの満足そうな声音とジャスミン茶をすする音が聞こえた。