川ジジイと僕
机に座って朝の会のチャイムを待っていると、かっちゃんと目が合った。かっちゃんは嬉しそうな含み笑いのまま近付いて来る。川ジジイが出たんだなと僕は思った。
「川ジジイが出たぜ!」
僕は全然驚かなかったけど「マジで!?」と一応驚いたフリをしておいた。
「マジだって! 今日の朝みたもん。川ジジイが橋の下で座り込んでぼーっと川の方見てたんだ」
「ヒゲもあった?」
「あったあった!」
川ジジイは近くの橋の影に、薄緑のテントと一緒にたまに出没するホームレスのおじさんで、仙人みたいな長い灰色のアゴヒゲをしていて頭は少しハゲていた。いつもゆったりと川を眺めていたり河川敷にねそべったりしていて暇そうだけど、顔立ちはどことなく自信に満ちているし、全体的に仙人みたいなすごそうな雰囲気を纏っている。だから学校の間では川ジジイはちょっとした有名人で、川ジジイが出没した日なんかはクラス中が川ジジイの話題で持ち切りになるのだった。
でも川ジジイに対する考え方は人それぞれ違っていて、長崎君のグループなんかは面白おかしい芸人みたいな扱いをしているし、女子は大抵気持ち悪がっているか話題にするのを避けているし、普段はかっちゃんと仲がいい長田君に至っては川ジジイの事を「川クソジジイ」と呼んで見下しているので、川ジジイが出没した途端にかっちゃんと仲が悪くなってしばらく絶交状態になってしまうのだった。
そんな中で多分一番変わっているのは僕とかっちゃんの川ジジイへの考え方だ。僕たちは川ジジイの事をヒーローみたいな扱いをしていた。僕もかっちゃんも、つまらないキレイゴトばかり言う大人たちが大嫌いでうんざりしていたので、そういうキレイゴトでも救えないし、多分救われたいとも思っていない川ジジイの存在は、道徳の教科書を破り捨てているみたいでとてつもなくカッコよく見えたのだった。そういう訳で僕とかっちゃんは普段はあんまり話さないけども、川ジジイが出没した時だけはよく話すようになるのだった。
「川ジジイって普段何食べてるんだろうなー」
かっちゃんが言った。僕は少し考えて適当に返した。
「仙人だから何も食べなくていいんじゃない?」
「仙人かあ……それもすごいけど、俺は神様かも知れないって思ってるぜ」
「川ジジイが神様かあ……だとしたらすごいねえ」
とか言い合っていたら、委員長の山下さんが睨んで来た。
「二人とも! 大人の事馬鹿にするのやめりーよ!」
「はあ? バカにしてねーし!」
僕はおどおどするばかりだったけど、かっちゃんが言い返してくれた。
「お前の方が馬鹿にしてるだろ! 川ジジイのこと!」
「してませんー! そういうジジイとかいう言い方が馬鹿にしてるやん! 可哀そうだと思いまーす!」
「はあ!? 可哀そうとか言う方が可哀そうやろ! そういう偉そうなこというならお前が川ジジイを自分の家に住ませてやればいいんじゃないですかー?」
「…………」
「俺はそんなことしねーし! だって川ジジイは絶対、川以外で暮らしたくない奴やもん! お前の方が川ジジイの事馬鹿にしとるやん!」
山下さんは悔しそうな顔で何か言い返そうとしていたようだけど、チャイムが鳴ったので席に戻って行った。かっちゃんは「ざまあみろあの馬鹿ブス女」とか言っていて、僕も少しはざまあみろと思ったけど、でも僕は山下さんの言う事にも一理あるという気もしていた。
僕は確かに川ジジイの事をヒーローみたいに思ってもいるけど、でも同時に馬鹿にしているのも確かだった。カッコいいとは思うけども、ああいう大人になりたいとは思えなかった。すごいとは思うけども、大人たちの前で「川ジジイはすごい人です!」なんて言う気にはなれなかった。多分それはかっちゃんも同じで、図星を突かれたからあんなに山下さんに怒っている所もあるかもしれない。そもそも川ジジイがすごい人で道徳の教科書を破ってくれるというのも僕らが勝手にそう思っているだけで、本当は誰かに助けてほしいのかも知れなかった。なんか昔の歌舞伎役者の芸がすごいと言われていたけど、差別もされていたとかいう話を授業でやっていたけど、それと同じように僕もかっちゃんも川ジジイをすごいと言いながらも差別している所があるかも知れなかった。それが僕は何となく嫌だった。
それから休み時間の度にかっちゃんと川ジジイの話をしたり、ちょっとゲームの話をしたりしていたけど、僕は川ジジイ差別の事を考えていてずっとぼーっとしていた。そしてかっちゃんが堀君に呼ばれて一人になった時、僕はある計画を思いついたのだった。それは川ジジイに直接会って話してみると言う計画だった。かっちゃんを誘ってみようかと少し迷ったけど、かっちゃんは川ジジイを神様みたいに思いすぎているので、そのあたりが僕とはちょっと考え方が違った。ぼくは川ジジイを人間だと思っていたし思いたかったので、あんまり神様扱いはしたくなかったし、差別もしたくなかった。だから川ジジイと会って僕と同じ人間だという事をどうしても確かめたくなった。
そして次の日の土曜日になって、僕は計画を実行に移す事にした。スーパーで川ジジイの好物だと噂になっているジャムパンときゅうりを買って入れたビニール袋を揺らしながら、かっちゃんに見つからないようにあたりに気を付けて川ジジイの橋に向かった。結局かっちゃんには川ジジイに会う話はしなかった。もしバレたら絶交されてしまうかもしれないので僕はかなり怖かったけど、それよりも僕だけで川ジジイに会いたい気持ちが強かった。
河川敷は風があってちょっと寒くて、そのせいもあってか僕は川ジジイに会うのが怖くなって来た。川ジジイの事をお母さんに話した事はなかったけど、川にいるホームレスに一人で会いにいく、なんてお母さんに言ったら絶対に反対されるというのは分かっていた。実際、川ジジイはすごく怖い人かもしれない。もしそうだったら、僕は川ジジイに誘拐されて殺されてしまうかもしれない。そう考えたら怖くて緊張して仕方なかったけれど、それでもやっぱり僕は川ジジイに会ってみたかった。どうして川ジジイをやっているのか聞いて見たかった。
そして電波塔を抜けたあたりで、川ジジイの薄緑のテントが目に入った。川ジジイの姿は無かったけど、川べりの方に下りていくと雑草の影にいた。川ジジイは川の方に横向きで寝そべって、腰の辺りをポリポリかいていた。ヒゲは見えなかったけど、あのカッパみたいな禿げ頭は間違いなく川ジジイだった。思ったより背が高そうだった。
僕はビニール袋が音を立てないように気を付けながら、じっと立っていた。川ジジイの方が気付いてくれればいいのにと思ったけど、中々気付いてくれる気配がなかった。仕方ないので勇気を振り絞って声をかけてみることにした。
「あの……こんにちは」
んああ、という気の抜ける掛け声とともに、寝そべったまま川ジジイの顔が僕を向いた。思ったより若そうで、やっぱりヒゲが仙人みたいで、遠くで見るよりずっと大きな目だった。
「なんだ? 俺に何か用か?」
ひょうきんそうな声も言葉遣いも思っていたのと違って僕はかなりショックだったけど、何とか気を取り直した。
「あなたが……川ジジイさんですか?」
「川ジジイ? 俺が……?」
言ってから気付いたけど、川ジジイというのは僕たちが勝手に呼んでいるだけで川ジジイは自分が川ジジイと呼ばれている事を知らない筈だった。僕は川ジジイが怒りださないか怖くて焦ったけど、川ジジイは目尻に皺を作って静かに笑うだけだった。
「俺が川ジジイねえ……。ハハハ。でもな……残念だけど坊主、俺は川ジジイじゃねえよ」
「他に本物の川ジジイがいるんですか?」
「ああ。そりゃあいたさ」
「聞かせてください。川ジジイのこと」
僕がそう言うと、川ジジイが口をすぼめて変な顔になった。目を尖らせてぼくのビニール袋をじっと見ているようだった。僕は川ジジイが言おうとしている事が分かって、ビニール袋を差し出した。川ジジイは袋をひったくると早速きゅうりを取り出してパキパキと音を立てながら齧って噛み潰して行った。なんだか見ていて気持ちが良かった。ジャムパンは後で食べるみたいで袋に入れたまま脇に置いていた。
「ありがとよ。うまかったぜ。……まあ、座んな」
僕が雑草の上に座ると、川ジジイも砂の上に胡坐をかいた。川岸が砂浜みたいになっていて、そこだけ見ると海みたいな感じもした。川ジジイは大人が昔の話をするときによくするような偉そうな目をしていた。
「あれは俺が小学5年くらいの頃だったかな……とにかくお前と同じくらいの頃だ。その頃にな、この川に川ジジイがいてな。白っぽい長髭を生やして、どこか堂々としてたよ。学校でも噂になっててな、仙人だっていう奴もいたし、ただの浮浪者だって見下す奴もいた。そして、俺は見下す方だった。あのジジイの顔を見ていると、何だか無性に腹が立ってな。社会の落伍者のくせに堂々としてやがるのが、どうしても気に喰わなかった。……だからさ、俺はあんなふうにならないように、勉強しまくって、いい会社に入って、嫁さん貰って、幸せになって、あのジジイに全部見せつけて、思いっきり悔しがらせてやりたいって思ったんだ。まあ表向きは見下したりはしなかったさ。ジジイが川を下ってきたらキュウリとかおにぎりなんかを差し入れてやったりしてさ、表面上は仲良くしてたよ。ジジイは川を眺めてばっかで、ほとんど何も話さなかったがな。……今思うとジジイは俺に見下されてる事に気付いてたのかも知れないが……とにかく俺は絶対にこいつにほえ面かかせてやるってずっと思ってさ、そういう気持ちを糧にして必死に勉強しまくったさ。それで高校も成績一位でいい所入って、大学も一流のに入ったし、入ってからも遊びもせずに勉強しまくったよ。経済学とか波動関数とか……今思うと下らない事を必死になってやってたな。その頃になっても、ジジイを見かけたら差し入れ持って行って一緒に川を眺めてさ、その時のジジイの穏やかな顔といったらな……本当に腹が立って仕方なかったぜ」
川ジジイは寂しそうに川を眺めていた。
「今も腹が立ってるんですか?」
川ジジイは口を尖らせたまま軽く首を揺すって答えをひり出そうとしているように見えたが、結局何も答えてはくれなかった。
「……どこまで話したっけな」
「大学に入ったところです」
「そうそう。大学に入ってから必死に勉強したって話だったな。そんで俺は一流企業に内定をもらってな。親なんか涙を流して喜んでくれたよ。でもそんな事どうでもよかった。俺が見たかったのは川ジジイの悔し涙だけだった。……でもな、肝心の川ジジイを見かけなくなっちまった。半年に一回は見かけてたのが、一年待っても見かけなかった。ジジイに何かあったんじゃないかって不安になって、川の上流までさかのぼって、必死でジジイを探し回った。そん時初めて大学をズル休みしたよ。そして、上流にいなかったんで下流までいってみて、探しまくってやっと見つけた。川べりで横たわってる川ジジイを……俺は見つけた。青い顔で腹を抑えて苦しそうにしてたよ。今にも死にそうだった。俺は言ったよ『おいジジイ! 大丈夫か? 救急車呼ぶか?』だがジジイは首を振った。金なら俺がいくらでも払ってやると言っても、ジジイは首を横に振るだけだった。『頼むから……なんでもしてやるから病院にいってくれ! 金ならいくらでも出す! 頼むから病院に行ってくれ!』ジジイは……何も言わずにただ川を指さしやがった。どういうことか分かるか?」
僕はいたたまれない気持ちで首を振った。川ジジイは少し笑ってゆっくり首を振った。
「まあ、俺も未だに分からねえよ。でもな、とにかくジジイは川を指さしたんだ。そして梃子でも動かないつもりらしかった。……それで……俺はもう我慢がならなくなった。もう全部ぶちまけてやったよ。お前の事をずっと見下してたとか、お前を悔しがらせる為に努力して来たとか、もう思ってた事を全部ぶちまけてやった。だから……頼むから死なないでくれって、俺はジジイに縋り付いてた。……その時のジジイの顔は、何度死んだって忘れる気がしないね。憐れむような表情だったぜ。……笑えるだろ? 死にかけの浮浪者のジジイが、一流企業に入社するっていう前途明るい若者を憐れんでるんだぜ? ……こんな笑えることがあるか? ……まあ、当時の俺は笑える筈がなかったさ。俺はもう気が狂ったようになって河川敷を走りまくった。走り過ぎて腹が痛くなって、少し歩いて、また走りまくった。ジジイより腹が痛くなって、死んじまえばいいと思って走りまくったさ。そんで家に帰って、その時に気付いたんだな。……もう何もかも全部どうでもいいって。そして大学も辞めて内定も辞退して、親元でプー太郎してたら追い出されて、気付いたらこうなってたって訳よ」
「川ジジイは死んだんですか?」
「知らねえけど、まあ死んだんだろうな。あれからジジイにはあってねえし」
川が音も無く流れていた。目を凝らすとすこしだけ波があって、川の進んでいる方向がわかった。前の川ジジイが死んだときも、それよりずっと前も、川はこんなふうにずっと流れていたのかもしれない。
「こんなこと言ったら失礼かもしれませんが……僕にとってはあなたが川ジジイなんです」
「ハハハ……ありがとよ坊主。……でもな、俺はあんなに出来た人間じゃねえんだ。俺はまだまだ川ジジイには程遠い。死ぬまでになれたらいいんだがな。……まあ、こんな俺でもな、一つだけ分かってきたことがある。それはな、金持ちだって浮浪者だって大して違いは無いって事だ。最後には、誰だって同じように死んでいくんだからな」
川ジジイはいつの間にか川の方を向いて寝そべっていた。
僕も川ジジイの真似をして寝そべってみる事にした。黒ずんだ川がゆっくりと流れて、どこか知らないところへ向かっているようだった。そんな川を眺めているうちに、やっぱり川ジジイは人間なんだなと僕は思った。
「あなたはどうして川ジジイをやってるんですか?」
川ジジイは何も答えなかった。何も答えずに、ただ川を指さしていた。