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第百四十五話 金鯱落焼を読む

作者: 山中幸盛

 「北斗」の当号で『竹中忍著「金鯱落焼」特集』が組まれたので、何とかなるだろうと、一石二鳥を狙う(二兎を追う)ことにした。


 『金鯱落焼』の中には、「不滅」「断たれた物語」「金鯱落焼 前史・幼年時代」「忘れがたき無名の人たち」「懐旧また苦さあり」「畏友の涙 私のハンセン病」「蕨摘み」の七編が収められている。

 「不滅」は「東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故に驚愕して創作した」と『あとがき』にあり、社会派小説家としての面目躍如たるものがある力作だ。

 だが、私個人の嗜好としては、作者が「実体験を基にしようと決めた」という以下の作品群の方を、よりおもしろく読むことができた。

 「金鯱落焼 前史・幼年時代」は、作者の恐るべき記憶力を活かしての物語だ。例えば幼稚園に上がる前の記憶で「今までどうもなかったのに冷たいプールの水につかった途端に神経が刺激されてお腹が鳴り始めた。トイレに行く間もなくプールサイドで、浮輪をしたままの恰好で海水パンツの中に洩らしてしまった。」との描写では、いやでもその情景が目に浮かんでくる。

 作者はこの作品の『エピローグ』で断りを入れている。「過去の情動を正確には把握できない。本作でも自分を大きく見せていようし、家族や登場人物を善人に描いているだろうし、部分的には露悪的に過ぎよう。自分が可愛いからだ」と。


 「忘れがたき無名の人たち」は作者が二十四歳の時に「特殊団体の主事として、知多半島の半田市にある事務所に赴任した」際にめぐり会った人たちの話で、『あとがき』には「貧しい社会生活の中で、少しでも善を貫こうと闘った人たちに出会った。市井に暮らす人は、自分が非凡な努力をしたとか特殊な経験をしたと思わないし、書かない。」と。

 ここでも作者の記憶力に驚かされるが、私はこの作品を読了した時、十八歳の時に読んで感動した山本周五郎の『季節のない街』を連想した。その時はまだ自らが小説を書くことになろうとは露ほどにも思っていなかった時期で、やがて小説を書くことに挑戦し始めた際に目標にしたのが、「人の弱さや狡さが渦巻く貧民街。その街で懸命に生きる住人を描いた、不朽の名作十五編」とアマゾンの宣伝文句にある『季節のない街』だった。それゆえか、『金鯱落焼』の七編の中ではこの作品が一番好きなので、ザッと紹介する。

 直属の上司である横田業務課長は、知多半島先端にある町の庄屋に生まれた。弁が立つ上に驚くほど内外の文化に通暁して英語が堪能、外国の申請者に流暢な英語で対応した。反面、実務者としては奇妙にも及第とはいかなかった。

 管理課に所属する梶田さんは四〇代、押し出しの良い人だ。ボイラー系統を中心にした設備保守の技師長で、風変わりなところがあった。かつては大きな病院の設備保守をし、看護師と結婚した。年度途中でこちらに転職したのだが、梶田さんはあまりありがたくない存在でこれ幸いと病院側は話に乗ったらしい。つまり、労働組合の闘士だった。

 新所属長は名古屋に住むので、四月初旬に付き合えと言われて駅前地下街の小料理屋で酒を盛んに注がれて色々と聞き出された。例によってこちらは宿命論者の虚無主義者なので、どうなっても構わぬとの心境以上に狙いを見抜いた上で事実を語った。前所属長の統率力のなさをはじめ角突き合わせる両課長や個性的な面々の姿を、少々脚色した笑いを誘う小説仕立てにして話した。もちろん、両課長からも聴取したに違いないが、一般職員の目による下からの評価も知ろうとしたのだろう。後に所属長本人から聞いた。「事務がうまく回らない状況と部下の在り方がいっぺんに理解できたよ。大した人間観察力だ」付け加えて「君も言い過ぎだったがな」と、笑った。

 榊原さんは、「軍隊の考えちゅうものはないだが、こげんなことがあっただね」と、ネクタイのゆがみを直す。「武漢郊外に駐屯して、食料が乏しくなると三人ばかりで徴発と言って農民から奪いもしたが、相当する軍票を払い、生活できるだけの物資も残した。駐屯地の隣に畑があって中国人親子の三人が耕していた。若い娘は日本では見たこともない美人で、中国にはあんなクーニャンがいるのだといつも見ていた。兵士の間でも話題だった。ところがある日、二人の兵士がやってしまってね」

「犯した、というのですね」

「怒れてね。可哀そうで仕方なかった」

「犯した二人は、今は何をしているのですか」と、答えるはずないだろうと思いつつ尋いた。

「一人は校長になったか教育委員だか、学校の先生でね、一人は現役の市会議員だ、な」と、意に反して正直に教えた。

 老市会議員から見合いを勧められる場面で竹中さんは、「当時の私は体調もさりながら生きるのに悩み、小説も方向性を見出せずに生涯を通して大きな小説を書きたいとの虚しい夢を見るばかりだった。とても結婚できるとは思えず、同じ愛の飢えに苦しむ人妻との展望のない逢瀬を繰り返した」と、さらりと告白して読者を楽しませることを忘れない。


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