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夏の空とアゲハチョウ

作者: 大宮聖

 あの時に戻りたい――

 全てが上手くいっていたあの日、あの時。月日は進み、風景は回りだし、何かが陰り出す。

 些細すぎる、ありふれた願い。

 願いは叶わない。


 散らかった部屋がおれの全ての瑕疵を訴えている。何処にも逃げられず、おれは段ボール、レジ袋をかき分けて、僅かにカーペットが覗いている場所に移動し、あぐらをかく。割れたクリアファイル――授業の資料と自分が描いた絵が溢れていた。明日は友達に会いに行く予定だった。でもやめた。理由は分からない。ここ和歌山県の田舎から友達がコンサートに参加する岡山まで行くには五時間以上かかる。そしてコンサートで彼女は演奏し、おれは客席で見ていることになるだろう。行けたとしても、殆ど友達とは会えないはずだ。

 だとしても、休日に特に遊ぶ相手もいないおれにとっては、大学生活で今後あるかわからない貴重な機会だった。この日のためにわざわざバイトの休みまで取ったのに、行くのをやめた。友達にLINEを送って、行けない旨を伝え、それで終わった。

 中学三年生の時に、どういうわけか作ることが出来た唯一の女の子の友達だったので、なんとか行ってあげたかったが、お金もぎりぎりなんだから、どうすることも出来なかった。

 コンサートに行かないことを決めたのは一昨日。残金は一万五千円。ネットで調べた交通費を考えると、本当にかつかつだった。今日は八月一日。奨学金が入るのが八月十日。おれは迷っていた。行くなら十日までは満足なものは食べられない。買いだめしているスパゲッティやグラノーラで、しのぐ必要がある。ネットオークションで自分の欲しい本やゲームも買えない。いかないと決めてからおれはすぐに一万円をネットオークションで使い果たした。狭い机の上に置いてあるパソコンを開く。有線マウスは机の上の紙や消しゴム、コップが邪魔でうまく動かせない。微かな苛立ちをため息に変え、おれは机の上のメモ用紙を端に寄せる。メモ――居酒屋の酒の入れ方。生ビールはグラスに描いてある赤いマークまで。思考がすぐに厨房にいるときに逆戻りする――嫌気が差した。

 居酒屋でバイトを始めた。もうすぐ二十歳を迎える中での、初めてのバイト。結構怒られる。おれは暗くて臆病で、仕事が遅いからなおさらだ。週二回のシフトは同級生からすればたいしたことは無いだろう。数限りない叱責に、おれは疲弊しきっていた。それでも耐えることは出来る。バイトを始めて1か月が経っていたが、おれは無断欠勤をすることなく通っていた。

 バイトがある日も無い日も、おれはいつも疲れていた。

 大学生として当たり前の日常――なら何がこんなにしんどいのか。

 友達のコンサートについては何ヶ月も前から誘われていて、そのことでずっと迷っていたが、行かないと決めてからは不思議と気持ちが落ち着いていた。

 外がだんだん明るくなってきた。最近では久々に目にする、晴れだった。日曜日だから大学は休み。いつもなら十分に休むことが出来て、昼まで眠り続ける。午後はパソコンでひたすらネットサーフィンをするか、スーパーや本屋を何も考えず巡るか。今日もそのどちらかなのだろう。おれの送る日常は緩慢で、何事もなかった。そのあまりの緩やかさに、生きているという事実すら見失いそうだった。

 ただ、今日は日曜日にしては起きるのが早い。なにかの予感か――あまりにも些細すぎて信じられない。

 今週はバイトがない。岡山へ行く予定のためにキャンセルした。それでもおれは行かなかった。なぜ。分からない。靄に包まれた思考は何も生み出さない。金がなかった――そうであってそうではない。めんどくさかった――結局これなのだ。

 何もかもがめんどくさい。何も分からないからだ。何も分からないから、何をやっても意義すら分からず、空虚さだけが身体の芯で根を張っているのだ。

 何かを知るには――何かを経験しないといけない。おれは消極的だった。新たな予感すら身体の奥底が拒んでいた。

 とりあえず洗濯機を回した。脱ぎ散らかしていた服を全て放り込んだだけでも部屋は大分ましになったように思えた。

 着信音――LINE。電源ボタンを押し、ロック画面を指でなぞり、誰からのLINEなのか確認する。中田からだった。小学四年生の時に転校していった、おれの一番の友達。小学校時代は毎日のように遊んでいた。空地の自転車に自分の自転車を繋いで乗り回す。空地に放置されている大きなゴミ収集車の荷台にあがり、飛び降りる。草木をドーム状にして秘密基地にする。今なら問題になるようなこともたくさんした。あいつが転校して以降も年賀状を送る程度の関係は続いていた。最初は親の携帯からお気に入りの玩具についてのメールを送り合っていたのだが、いつの間にかお互いにやめていた。それすら遠い昔のことのようだった。

 おれも高校生になってスマートフォンを貰えた。高校三年生の時にLINEのQRコードが彼から年賀状で送られてきて、そこからまた付き合いが始まった。おれは中学以降小説を書くようになっていた。話したところ彼も小説を書いていた。おれたちは気が合うんだ、本当にソウルメイトなんて存在しているんだと、孤独だったおれは救われた気がしていた。LINE画面の文面に目を滑らせる。

 フクロウの涙を見て感動したー。久しぶりに何か書こうかな笑

 フクロウの涙――流行のアニメ映画。たまに近くのコンビニに行くと、宣伝用のチラシが貼っているのを見た。映画館で見たことは無かった。見に行くつもりも無かった。たまたま本屋で見たCMで風景が綺麗なアニメだと思った程度の認識しか持っていなかった。以前大ヒットした映画の監督なので、今作もかなり流行るだろう――ぼんやりとそう感じていた。

 そんなよかったんか! そろそろボクー先生も新作書くか⁉――おれはLINEを返した。ボクー先生――中田の小説投稿サイトでのペンネームだ。ちなみにおれは後藤英俊だった。

 余りにも堅苦しい、ユーモアの欠片もないペンネーム――自分で決めておきながら、おれは自分がつまらない人間になり果ててしまったことを察した。再び、文面に視線を戻した。

 めちゃ内容よかった! でも成熟してしまうと子供の頃と違って純粋に感動できんから残念である……。一応感動はめっちゃしたで笑

 何かおれの中でこみ上げるものがあった。今度はノンストップで返した。

 それは残念やな。昔見たらもっと感動出来たってのは映画とかに限らずいろいろあるよな。

 それだけ書き残し、おれはスマートフォンから手を離した。スマートフォンの画面は見ず服を着替えた。スマートフォンをポケットに入れて玄関に向かう。靴を履いて、アパートの階段を駆け下り、自転車に乗った。

 荷物も持たず自転車をそのまま走らせた。何で急に――分からない。そんなこと、おれに分かるわけが無い。近所の畑を横切って、ひたすらペダルを漕ぐ。大きな畑だが、少し走っただけですぐ端っこまでたどり着く。通り過ぎる。

 行き先――さぎのせ公園。おれの自宅からはだいぶ離れたところにある大きめの公園。そこに行くまでの道のりを自転車で走りながら、おれは横目で広がる景色を眺めた。

 青い空だけが途切れること無く白い雲を携えて伸びている。温もりに満ち満ちたそんな晴れも今日は寂しかった。

 駅を過ぎ、右折する。反対側の歩道に面しているスーパーを横目に、坂になった道をペダルに力を込めて上がっていく。その横を、おれの漕ぐ自転車とは比べものにならないスピードで車が連なり、駆け抜けていく。足に力を込め、踏ん張る。ペダルを漕ぐというより足を押し倒すという感じで、おれは坂道を上がっていった。ふいに力が抜けた――坂を越え、平らになっている歩道に乗り込んだ。

 登り切ったら坂は下りだ。おれは自転車で駆け下りた。ここから公園のすぐ手前までずっと歩道を直進していけば到着する。複雑な道のりではないので、景色を眺めながらぼんやりと進むことが出来た。自転車でこの距離を走るのはなかなかの重労働だったが、原付や車の免許を持っていないから仕方が無かった。車で送って貰えるほど親しい友人は大学にはいない。散々遊具で身体を動かして疲れ切っている中での帰りはかなりしんどい道のりだったが、身体を動かすには最適だった。おれは小さい頃からアスレチックが好きで、今でも公園に雲梯などの遊具があるとついぶら下がって遊んでしまうタイプだった。そういったタイプの遊びが出来る公園はあそこしか無かったのだ。近所の公園は小さく、遊具もおれの背丈では足がついてしまう鉄棒とブランコ、滑り台が申し訳程度に設置された淡泊なものだった。近くを探す限り公園は何処も同じようなものだった。だから、本格的にトレーニングをしようと思えば、さぎのせ公園まで自転車を走らせなければならない。

 四時に出発して五時ぐらいに着くのが定石だ。その時間帯になると子供達は帰り出す。流石に、本来の公園の対象である幼稚園児や小学生を差し置いて遊具で遊ぶわけにはいかない。でも、今日はいつものように遊具で身体を動かしに行きたいわけでは無かった。

 さっきのLINEでのやり取り――びっくりするほど些細なもの。それでも、おれは悲しくなってしまったのだ。

 あの時。おれたちが一緒にいた、いられると信じていたあの時。遠い昔のささやかな時間に、おれは静かに想いを馳せた。

 小学校のときおれは何処までも内気だった。学校に行くこともままならず、送り迎えを終えて教室に連れて行かれる際にはいつも泣いていた。中田と出会ったのはそんな幼い日常でだった。初めて何を話したのかも分からない。ただ、彼が雨の日に帰る際、黒い傘を差していた。小学生の傘は、皆オレンジか黄色だった。おれにとって彼の黒い傘はとてつもなく奇異に映った――はずだ。おれは中田を「黒い傘オバケ」と茶化して追いかけるた。彼もそれに乗ってくれ、雨の日の追いかけっこが始まった。学校に行くときは顔をしかめてみっともなく泣きわめいていたくせに。何がおれをそこまで大胆にしたのか。黒い傘の何がそんなに気になるのか。何がそんなに楽しいのか。考えてみても分からないが、おれはそのときそれを選んだ。何処まで一緒に帰ったか。何処で分かれたか。全ては朧で、頭の中にあるけむい雨に吸い込まれていく。それがおれたちの出会いだった。おれの全てだった。

 それからおれたちは一緒に帰るようになった。恐竜の話、虫の話、玩具菓子のほねほねザウルスの話。おれたちが遊ぶ約束を常日頃するようになるのも当然の成り行きだった。

 中田は四年生で転校した。おれは中田と別々の五年生に進級した。小学校で四年間も過ごしていれば、二年ごとのクラス換えを経て上級生になっても知り合いがいる程度のコミュニケーション力ならおれも身につけていた。それでも中田はいなかった。毎日のように遊ぶ相手は見つけられなかった。

 信号の色が変わったのを確認して、地面を蹴り上げ、再び自転車を走らせた。長い歩道。街並みは何の新鮮味も感じられない。大分進んだはずだ。ホームセンター、車屋、自転車屋、飲食店、コンビニ、本屋、TSUTAYA――いろいろな建物の横をすり抜けていく。公園に近い道になってきたと感じたら、おれは左折し、横道に入った。歩道の外へ外へと進んだ。曲がりくねった道をそのまま進んでいくと、青々とした雑草に覆われた、川沿いの一本の道路に通じる。そこにおれは自転車を走らせる。道路の左端に自転車を入れる。情景が青に変わる。太くて濃い青をした紀ノ川が眼下に飛び込んできた。音になってすらいないような乱雑な鳥の鳴き声と、自分の全身を包む蒸し暑さと対照的な涼しげな薄い空の色と微かに吹き込む風がどうしようもなく夏と自然を感じさせ、おれの顔の筋肉を緩ませた。川とその近辺を包む緑の木々を視界の隅で捉えながら、おれは道路の端を自転車で走り続けた。熱さと涼しさが寄り添っている、夏特有の空間。あの時もそんなことを考えていたはずだ。

 中田が転校して、友達を失ったおれが次に知ったのは恋だった。

 小学四年生の時点でおれは恋を知っていると勘違いしていた。度々話したクラスの学級委員長を好きになった――勘違い。ただの親近感を恋だと勘違いしていた。実際はただ単に彼女の容姿が綺麗だったから目にとまっただけだった。本当に好きな人を見つけ、自分の思いに気づいた瞬間委員長のことは全て色褪せた。

 今となっては、ただの一度も思い出すことは無い。

 小学校五、六年の時のクラスメイトだった橘夏実。今でもおれが未練を捨てきれない、初恋。

 いつから恋していたのか、好きになってしまったのかは忘れたが、五年生の時に席替えをして隣になったことが喋るきっかけになったことは確かだった。

 細部すら思い出せない、青春と呼ぶには余りにも淡くおぼろげな、あの日々――

 おれは夏実と学校でいろんな話をした。おれが話すのは専ら殆どがYouTubeなどの動画サイト、学校生活に対するしょうもないツッコミ、インターネット上で使われるくだらないスラングの受け売り、くだらない自虐ネタばかりだった。人見知りで人生経験も少ないおれが出来る話と言えばその程度のものだった。それでも彼女は笑ってくれた。喋ることすらぎこちないおれには、そもそも彼女にきちんと伝わるように話せていたのかすらも分からない。不器用だと思う。下手くそだと思う。

それでも、自分の若さに対して呆れるより羨む感情の方が強かった。あの頃は全てが真新しかった。

体育の授業でも、おれは夏実と話し続けていた。

 鉄棒の授業。踏みしめている砂場が靴底に熱をもたらす。クラスメイトの成川がおれと彼女が話している所に声をかけてきた。

「夏実、最近いつも高川と話してんな」

「え? だって高川面白いじゃん」

 嬉しかった。彼女をもっと笑わせたいと思った。

 運動が出来ないおれが話せることと言えばたかが知れていた。狭い世界だった。それでも彼女はおれの話で笑ってくれた。

 もっと話したい。知りたい。笑ってほしい。いつまでもこうしていたい。そう思う頃には、既に彼女を好きになっていた。

 彼女は大人びていた。おれはそんな彼女に憧れていた。賢くて、強くて、男子にも平気で混ざることが出来る。

 夏実ともっと話したかった。彼女は漫画が好きで、いろんなことを知っていた。おれがブラックジャックを借りてきたら、「見せてよ」といい、昼休み中おれの机で読みふけていることもあった。

 夏実はおれよりずっと本や漫画に詳しかった。おれが元ネタを知らずに使ったスラングに「それスラムダンクだよ」と突っ込みを入れながら笑われたこともあった。彼女は図書室によく通っていた。図書室の先生とも打ち解けており、よく喋っていた。おれも彼女と一緒にいたくて、漫画を読むのにかこつけて彼女のすぐそばに座って彼女の会話を聞いていた。そして昼休みが終わって掃除に向かうまでの道中、彼女と喋った――そのためにおれは図書室に行っていた。ささやかだけど何よりも熱い昼休み――この感情を誰にも打ち明けたくなかった。

 授業中におれはノートの端っこに漫画を書いて見せた。コマ割りもなにもあったもんじゃない、字も汚い、キャラクターもほぼ棒人間の、くだらない作品。彼女は興味津々におれの漫画を読んでくれた。そして笑ってくれた。時にはちょこちょこイラストを描き込んでくれたりした。

「字が綺麗だったら漫画家になれるよ」

 そう言われた。今振り返れば、漫画のふきだしはパソコンなどで入力するから字は関係ないはずだ。それでも――彼女がおれを認めてくれた。それが全てだった。

引っ付いた席の上で行われた、密談。二人だけの時間。二人だけの話題。それ以外におれは何もいらなかった。

 夏実との、小学校での僅かな日々――何もかもが拙くて、何もかもが新鮮だった。おれは運がよくて、三回夏実と隣の席になった。一度夏休みを挟んで席替えが無くなったため、実質四回分彼女と隣だった。「また一緒だね」彼女が笑った。おれも笑った。内心飛び跳ねたかった。このまま席替えなんかしたくなかった。

 好きになっていた。夏実といつまでも一緒にいたかった。それは今でも変わらない。

 高川って面白いじゃん――幼いが故の素直な言葉。それだけのために、おれはあそこにいた。

 そして知っているんだ。これからの人生でおれは、もう誰にも、そんなことを言ってもらうことが出来ないなんて。

 小学校で一番大きなイベント――修学旅行。キッザニアでの職場体験。人見知りなおれはあまり好きでは無かった。男子同士で組まされたくだらない班。一日とは言え一緒に寝泊まりをするわけだから、当然、おれと夏実が班を組める訳がない。自分たちの個室でやったのはくだらないことだった。カードゲームをしたり、テレビを見たり、自分のちんこを見せたり。本当にくだらなかった。二日目はまたバスに乗った。法隆寺に行くバス。おれはたまたま席の関係で隣に人がいなかった。おれの斜め後ろあたりに座っていた夏実が声をかけてきた。

「高川一人席やん」

「まあな」

「いいやん。特別やで」

「そういやそうだな」

 おれは彼女の方を向いて笑った。しばらくしておれを羨んだやつに席は取られた。

「一人席取られたじゃん」

「残念だよ」

 また笑った。

 法隆寺など一通り巡り終わり、バス内は宴会のようになっていた。みな思い思いに喋り、二日間の旅行に思いを巡らせ、あるものは熱を感じ、ある者はこの旅行が思い出になることを惜しんでいる。

 あたりは薄暗くなり、修学旅行の終わりを告げていた。バスに付いているTVから流れるアニメを尻目に、おれと彼女は談笑していた。

「おれはなり損ないの原石だ。ダイヤモンドの原石と違って磨いても光らない」

 また、くだらない自虐ネタをおれは彼女に口にしていた。脈絡は覚えていないし、覚えていたとしても今のおれには幼稚すぎて理解できないだろう。彼女はそんなおれをたしなめて、容易く口にする。

「いや、おまえはもしかしたらすごい天才かもしれないぞ」

 それから間もなくして、バスは学校に着き、彼女はおれより先にバスを降りた。運動場は既に真っ暗で、金色のバスの照明すら眩しかった。おれは高揚感を内に秘めたまま、迎えに来た母と共に帰った。


 また目を開けた。顔にかかる風がくすぐったくて、目を閉じては開くことをさっきからずっと繰り返している。余りにも間抜けな動作に、おかしくて思わず笑い出したくなった。頭の中に浮かべていた、高揚感に激しく輝いてみえる夜とは対照的な、穏やかに視界を塗りつぶす、何処までも続く青い空。あのときのことばかり空想させる、温度を感じさせる夏の日差しが象徴的だった。世界中を包む青い絹にぽっかりと空いた、光の穴――頭の中で掠める、訳の分からない喩え。使いたい言葉だけが先行して、今ひとつイメージが沸いてこない。すこし、浸りすぎだな。おれは苦笑した。

 おれの好きなひとと過ごしたあの時の夏の風景と、今視界の真ん中を占めるこの光景が繋がっている気さえした。それだけ空は普遍的な青だった。

 ――おまえはもしかしたらすごい天才かもしれないぞ。

 夏実の言葉。強く思い出せる言葉にはっきりとした脈絡は無い。あの瞬間、夏実はおれにとって絶対となった。

 小学校の修学旅行は最高の記憶として、今でもおれの記憶から離れない。その全ては、夏実がもたらしてくれたものだった。

 おれは天才かも知れなかったのか。少なくとも彼女の中では、面白い高川として輝けていたのだろうか。おれの可能性を教えてくれる彼女に夢中だった。おれのことを面白いと言ってくれる彼女のことばかり考えていた。おれの話で笑ってくれる彼女が好きだった。そのときのおれは、自分が彼女の中で翳り出すなんて考えもしなかった。

 あの時、おれがもっと違う答えを出せていれば――今でも考える。

 あるとき、おれはいつものように彼女とその友達と、教室前の廊下で駄弁っていた。話を終え教室に戻ろうとすると、前橋に話しかけられた。前橋――野球をやっていて身長と声の大きな、クラスで目立つ存在。

「おまえ、夏実のこと好きやろ」

 図星だった。図星でしか無かった。ただでさえ人見知りだったおれは、自信を丸裸にするその一言に、打つ手が無かった。

「夏実かわいいわ。なあ高川」――前橋はそれ以降おれと彼女を茶化すようになった。校外学習のバスの中でもそれは同じだった。

「おれめっちゃ夏実好きやで。高川と同じように」

 おれを茶化して笑う前橋。頬を熱くし、言葉を発することも出来ないおれ。何も言わない彼女。

 修学旅行と同じような、彼女と話せる楽しみな日――おれたちの間には何もなかった。前橋の茶々と、それに言葉を返せないおれの反応が彼女をよそよそしい態度にしたのは間違いなかった。いつもなら彼女と談笑する、バス待ちの集合時間。女友達と話し、こちらには目もくれない彼女。所在なげに俯き、誰とも喋れずリュックの持ち手を指でいじるおれ。こんなはずでは無かった。

 おれの期待していたことは校外学習には何一つとして現れなかった。それ以降、彼女と教室で話すことは無くなった。

 卒業式の直後、皆で卒業アルバムにサインを書き合った。彼女からのサインは無く、ねだれることも無かった。よそよそしくなった彼女――以前のおれたちとは全く違う。今までのおれたちなら貰えたはずだった。おれたちはサインを書き合うはずだった。二人の間には何もなかった。それが小学校生活の終わりだった。

 クラスメイトの冗談に、教室の隅で顔を見合わせて笑っていたおれたち。図工の時間に自分の絵について茶化され、「主役なのに自分が一番小さい」と冗談を返すおれ。笑う夏実。修学旅行のバスの中でのやり取り。あまりにも鮮やかすぎた壊れた世界。人付き合いが苦手で内気なおれにとって、彼女は世界の全てだった。彼女との出来事を思い浮かべてはやりきれない感情が込み上げた。おれは全てを失った空っぽのまま小学校を卒業した。


 本当に好きだった。このことを誰かに話すつもりは無い。何で告白しなかったんだよ――そうたしなめられることが明らかだから。確かに、おれにそんな度胸は無かった。でも、おれは彼女と付き合いたいわけでは無かった。ただ、あの場にいて、あの空間を壊したくなかっただけなのだ。何か特別なことがなくても、おれと彼女は既に特別な存在として輝いていた。

 今でも、おれにとって特別な夏実。彼女は違ったのだろうか――虚に思う。夏休み、彼女と会えない中で、おれは寝室のクーラーの涼しさに触れながら、彼女もおれと同じ気持ちを持っているんじゃ無いか、もしかしたら夏実もおれのことを好きなんじゃ無いか――そんなことを考えていた。余りにも幼稚な、笑ってしまうほど無防備な若いおれ。暗闇の中で青い光を浴びながら揺蕩うおれの姿は、思い出そうとすればするほどに朧だった。

 考え知らずで青くて弱いだけのあのときの自分を、今でもおれは笑い飛ばすことが出来ない。


 空を見上げた。眩しくて目を背けた。太陽と目が合って、おれがそらしてしまったみたいに思われた。よく整備されていない、河川敷すれすれの道路の端を自転車で駆け抜ける。車の距離が近い。よけて進まなければならないので、思うように自転車が走らない。公園までの道のりは長い。もどかしかったが、そこまで急ぐ必要はない気がしていた。

 橘夏実――結局おれは彼女を名前で一度も呼ぶことが出来なかった。口にするとおれたちの関係が壊れてしまいそうで、怖かったのだ。夏美、夏美、夏美!――頭の中では毎日のように呼んだ、語りかけた。今でも思い出を捨てられず叫び続けているのというのに。

 何一つ彼女に伝わることはない。

 おれたちの関係――学校の中のごく僅かな時間でだけの、薄い夢のような関係。おれにもっと度胸があれば何かが変わっていたのか。思い出すには余りにも淡すぎる、夏の思い出。

 しかし――おれと彼女がより親密になれたとして、まだ小学生。そのままいつまでも同じ時間を過ごせるはずが無い。

 それでも――おれが何かアクションを起こせていれば変われたのか。彼女とまだ、何かの縁が続いていたのか。後悔が張り付いたままの今の人生を送ることは無かったのか。それともそれはおれと彼女の別れを早めるだけのものだったのか。考えても今更どうにもならない。

 全ておれが選んだこと。おれに勇気が無かっただけのこと。おれは彼女との仄かな関係に対して何もしなかった。それは彼女との関係が自然消滅することを受け入れたと言うことだ。壊すのが怖かった。それでも、彼女との関係が惜しいなら、何かを起こすべきだった。おれは彼女との日々に溺れ、溶けて、甘えていただけなのだ。

 すごく我が儘なことを望んでいる。それも分かっている。今のおれが、当時の夏実に出会えていたら、どうなっただろうか――

 あの時より上手くやる自信はある。それでも、今のおれを夏実は歯牙にもかけない気がした。何の根拠も無い。この仮定に限った話じゃ無い。

 夏実のこと好きやろ――小中学生特有の、くだらない茶化し。些細な冷やかしに、為す術なかったおれ。彼女との日々は簡単に断ち切られてしまった。もともと、クラスでよく話すというだけだった女の子だ。その程度で断ち切られる関係なら元々無かったのと同じだ。おれたちの間には元々何もなかった。振り返れば、少し仲がよかった異性のクラスメイト――文字にするとおれと夏実の繋がりは驚くほどありふれたものだ。

 分かっていても、そのまま夏実との思い出を切り捨てることが出来ない。その程度の関係の中で恋をしてしまったおれはとんでもないまぬけだった。

 今のおれなら――意味の無い仮定。面白いおれ、と言う彼女の中の像の賞味期限が切れてしまった。それは出来損ないの魔法のようなものだった。もし、前橋の茶化しにおれが黙ってしまわず、軽く流すことが出来たら。彼女の中で、「面白い高川」で居続けることが出来たら、あんな終わりかたじゃ無かったのだろうか。おれが中学生になったとき、彼女との関係はもう少しだけ続いた――というより、残滓を啜っていただけというべきか。帰りに彼女と話す機会があった。雨の日、不釣り合いな大きな黒い傘を差して帰るおれ。

「小テストどうやった? おれ全然だめやった」

「わたし満点だったよ。

「ていうか、傘大きくない?」

「おれは身長小さいのにな」

 それだけの会話。彼女は校門から真っ直ぐの道を、左側。おれは右へ帰る。そのときは何も変わりない、彼女だった。

 中学校二年生で同じクラスになった――願いが叶った。それなのに、おれたちが会話することは殆ど無かった。席替えでまた彼女

 あの時と同じ、隣の席になることが出来たのに、おれたちの間にはよそよそしい空気が流れるだけだった。数学の授業でペアで読み合うときもおれと彼女はきちんと音読をせず、うやむやにして終わった。あそこで話しかければ、あのよそよそしい空気をおれが打ち破っていれば!

 彼女の態度を変えることが出来たのに。また、あの日々に戻れたかも知れないのに‼

 何でこうなってしまったのか。変えることは出来なかったのか。小学生の時に戻れる方法があったんじゃないのか。一年生のとき、たまに会って普通に喋れていたじゃないか。今でも考える。意味の無い仮定をして苦しむ。

 一度、おれは班でノートを交換する授業の際に自分のノートの隅に落書きをして彼女に渡した。あの時と同じ漫画の絵。彼女なら気づいてくれるはずだった。彼女はおれの書いたキャラクターをハンマーで殴るキャラの絵を描き込んでくれた。

 おれは喜んだ。それでも、その絵について彼女に質問することが出来なかった。あれが最大のチャンスだった。彼女がくれた。おれは流した。だから関係は元に戻らなかった。からかう前橋はクラスにいなかったのに。

 一年の時前橋とは同じクラスだった。前橋は夏実のことでおれを冷やかしていたのを忘れているようだった。間中というクラスのどうでもいい女のことを好きだろうと同じことで茶化してくるだけだった。おれは真顔だった。

 前橋にとってはその程度のこと。それでもおれと彼女の関係は壊れた。前橋を憎んではいない。おれが選んだのだ。何もしないことを選んだのだ。結局、おれは臆病だった。尻込みした。だから彼女はおれの元から離れていった。

 おれがだめになった理由は分かっていた。中学生になって環境が変わった、周りの人間が変わった。孤独になった。もしかしたら急に独りになったわけでは泣く、元々独りだったことが可視化されただけなのかも知れない。それでも小学生の時は気にならなかった。彼女に酔っていた。孤独になって混乱した。居場所を作るために、必死に周りに合わせた。クラスのサッカー部の連中の乗りに付き合って、暴れて、授業中ひねくれたことを言ってみたりした――媚びを売った。大学生になった今、彼らの中に連絡を取り合う連中は一人もいない。

 二年生になってもおれはサッカー部のノリを続けた――周りに合わせるしか生き方を知らなかった。

 国語の授業でインターンシップの発表をする場面があった。そのテンションのままグループ発表を彼女に行った。満点が付けられた職場体験用の冊子を見せながら、「職場体験で学べたことは企業の人はおれらのことなんか全然真面目に考えてないということでーす」――そう言った。彼女が浮かべていたのは悲しいほどの失笑だった。小学生のころおれに向けていた顔とは全然違う。自分があの時の面白い自分で無くなっていく。彼女に認めて貰えたおれが消えていく。

 チャンスはあったのに。階段の掃除当番の時、彼女と同じ班だった。三人でもう一人の男子とはお互いに会話することも無かったので、いつでも喋れたのに。おれはここでも臆病だった。自分を守った。

 結局、おれは彼女に以前のように話しかけることが出来なかった。そして一年が終わった。

 三年でも同じクラスに――おれは願った。もう少しだけ、チャンスが欲しかった。小学生の時と同じ関係に戻りたかった。願いは叶わなかった。それでも諦めきれなかった。彼女をただの一時期の友達として記憶の片隅に片付けておくには、余りに彼女は色濃すぎた。

 彼女が下校する時間を見計らって彼女が二年生のとき読んでいた本を抱えながらうろついた。声をかけて貰えないか、話のきっかけにならないか――微かな期待を胸に一人で歩きながら彼女のことを窺っていた。

 おれには趣味がなかった。何にも知らなかった。おれは本を読まなかったし、それどころか漫画も殆ど知らなかった。音楽も中学校の一年生になるまで、聴かなかったし、好きだった食玩も遊んだらすぐに壊すか、なくしてしまった。

 そんなもの必要なくても気にならなかった。今はそれなりに金がもらえて、欲しいものもその範囲内なら買えて。音楽、漫画、小説。いろいろなものを知った。インダストリアル、テクノ、海外文学、青年誌。中田との思い出である、ほねほねザウルスを買い直し始めた。丁寧に棚に飾り、なくすことはない。喋ることも出来、それなりに人をいじれ、いじられ、談笑することも出来る。昔のようにすぐに突っ込まれたら、恥ずかしさの余り押し黙ってしまうことはない。今のおれは昔のおれよりあらゆる面で大きくなっていた。それでもなぜ、おれはあの時の自分がうらやましくてたまらないのか。

 自宅の机の上に飾っているほねほねザウルスを頭に浮かべる。今更あの時の名残を手に入れても、あの時の自分と日常は帰って来るわけでは無いのに。

 橘夏実を好きにならなければ、中田と出会わなければ、おれはどうなっていたのだろうか。振り返る思い出すら無く、失意のままに日々を溶かしていくだけの存在になるのか。それとも、名残惜しいものを羨まず、喪失感や未練を抱かず、何の葛藤もせず生きていくことが出来たのか。

 どうかしている。遊べるときは毎日のように遊んでいた中田を忘れられないのはともかく、夏実との接点は学校にしか存在していない。プライベートで遊んだことも無い女子を好きになるなんて――

 学校の中での僅かな時間に全てを集約していたおれ。なんでそこまで好きなのか。何でそこまで忘れられないのか。

 紀ノ川の脇道を自転車で駆け抜け続ける。走っても走っても先があるような気さえしてくる。一番遠くに見える、吸い込まれそうな青い空から、しばらくおれは目を離せなかった。海や川とは違う、柔らかさを湛えた青がそこにはあった。言葉が追いつかないほどの澄んだ青が、無限に広がっている。何でこんなに空は青いのか。何であの時はもっと空を見なかったのか。目の前にもっと夢中だったひとがいたからだ。おれは没頭していた。一番の友達も好きなひとも、全ておれの手をすり抜けて届かないところに行ってしまう。

 彼女がおれの家から一番近い桜木高校に進学したことは知っていた。おれは高校生になっても彼女を追い求めていた。下校時間が早いときに、桜木高校の前まで行って彼女と出くわさないか待っていたのだ。おれは高校で友達なんかいなかった。暇を持て余していた。何かが抜け落ちてしまったかのようだった。吹き付ける風がきつくなり、あたりが明るさを失うところでおれは帰った。彼女にもう一度笑って欲しくて、おれは彼女に受けるだろう話題をメモ帳に片っ端から書き殴っていた。彼女に会えるかすらも分からないのに馬鹿だった。本気だった。もはや頭の中で概念と化した彼女を孤独な高校生活の中でおれは病的なまでに追い求めていた。自分の人生の寂しさの見返りを全て彼女に押しつけているのではと思うほどの期待――おれは待ち続けた。

 そんな日々が何ヶ月も続いたある日、いつものようにおれは来るかも分からない夏実を待ち続けていた。いつものように自宅を通り過ぎ、地下道を通って桜木の前まで自転車を走らせる。桜木高校の対岸から、彼女と思しき人を待つ。待ちぼうけに終わる日常――その日も半ば諦観の匂いを張り付かせながら、おれは桜木高校への道中を自転車で走っていた。道路の対岸に視線を流す。男子が数人で連なって騒いでいる。その後ろを走る自転車に乗った女。鬱陶しそうだなあ――雑念がよぎったのは一瞬だった。道路の対岸に走るその女は夏実だった。中学校以来話すことも叶わなかった夏実が、いたのだ。おれは目を疑ったが、すぐに道を引き返し、地下道へ潜り、彼女を追いかけ、声をかけた。

「久しぶり」

「びっくりした」

 未練がましく、ずっと回想していた夏実がここにいた。おれは安堵が体内を巣くっているのを感じていた。

「身長伸びた?」

「ああ、まあね」

 彼女の問いは唐突だった。彼女の自転車を走らせる速度はおれの予想と違っていて、戸惑った。思わずペダルを踏んでいる足に力が入った。

「普段見たこと無いけど、ここ通らないよね? おれは結構ここ通るけど」

 今度はおれが問いかけた。

「そうだよ。いつもはもっと違う道」

 併走しながら、近所のスーパーに二人で自転車を止める。高松桜木高校――彼女の自転車に貼り付けられている、緑のシールを眺めて一人腑に落ちる。彼女は桜井高校のオープンキャンパスに来ていた。二年生の終わり頃。おれはここでも彼女と話せなかった。女友達と固まって談笑する彼女を、ただ、日差しを受けながら黙って見つめていた。桜木高校をおれは成績の関係で目指せなかった。余りにもおれは勉強に対して不真面目すぎた。

 彼女は近くのスターバックスコーヒーに行くと話したので、おれも付いていった。

「これからスタバ行くんだけど来る?」

「行くよ」

「来るんだ」

 夏実は意外だという顔だけ残して、スーパーの奥のスターバックスコーヒーに行った。彼女の足が意外に速くて、少し焦りながら後に付いた。

 レジカウンターに並んでいる間、おれはずっと、夏実に言おうと思っていたことを浮かべて、足がすくんだ。何度も夢の中で、思い描いてきたこと――

「LINE交換しない?」

 おれは勇気を出して持ちかけた。声が震えているかもしれなかった――構わなかった。

「ごめん多分携帯持ってない」

 彼女はパフェの様な食べ物をストローで吸いながら席に着いた。おれは何も頼まずに彼女の向かいに腰を下ろした。全身の重心を奪う落胆――言い出せるわけもなかった。

「嘘ついてるとかじゃなくて本当に携帯持ってないわ」

 夏実はしばらく自分の鞄をまさぐってそう言った。彼女が本当にスマートフォンを持っていなかったのか、それともおれと交換したくなかったから嘘をついたのか――分からなかった。

「あんまり携帯持ち歩かないのは珍しいね。高校生ならだいたい毎日スマホ持ってるけど」

「そう? 桜木では普通だけど」

 なんでそんなことを聞かなければいけないのか自分でも分からなかった。

「まあ、次会ったら交換しようよ」

「会ったらね」

 それから他愛ない話が続いた――おれは必死に喋った。彼女に注目して欲しかった。もう一度あの日常を取り戻したかった。どう勉強してるの? 結構女の人って大変そうだよね。おれ全然知り合いいなくてさ――重いとは裏腹に、おれの口から出るのは哀れになるほどのつまらない言葉だけだった。彼女は余り笑わなかった。おれが思い描いていたリアクションは得られなかった――あの時のそれとはかけ離れていた。あの時の思い出の欠片を拾い集めようとして必死にまくし立てるおれは、干からびて痛々しいに違いなかった。

 こんなはずでは無かった。おれは彼女を笑わせた記憶を頼り、メモ帳に会話のネタを書きためていた。もう一度あの時と同じ顔でおれに微笑んで欲しかった。

 彼女は変わっていた。おれも変わっていたことに気づいた。彼女を思い出す日々で、おれは自分はあの時のままだと信じていた――錯覚だった。もうあの時と同じように笑い合うことは出来ない、許されないんだ――そのとき悟った。溜まらなく寂しかった。それでも――おれは今でも彼女を忘れられなかった。おれにとって彼女は概念だった。おれの中にいるあの時の彼女の存在が消えない限り、今の変わった彼女への執着も消えないのだ。

 途中まで自転車で彼女に付いていった。おれは場を――彼女をつなぎ止めようともう何を言っているのか分からなかった。彼女に聞こえているのかすらも自分では判断が付かないほどだった。彼女の家の付近まで走ったとき――

「ここで曲がるわ。じゃあね」

 幕切れは余りにも唐突に訪れた。返事をする間もなかった。彼女を乗せた自転車が遠ざかる。

 おれは道路を渡り、近くの池沿いに自転車を止めた。おれは芝生の上に座り込みしばし呆然とした。日が暮れてから帰った。誰にも打ち明けずに眠った。それからの日々はまたいつもの待ちぼうけに溶けていった。次会ったら交換しようよ――余りに些細な、口約束ですらない言葉におれは縋った。それはもはや呪いだった。

 結局、彼女と合うことはなかった。おれは第一志望に落ちて、県外の私立大学に行くことになった。ますます彼女は遠ざかった。受験が終わってからから間もなくして、中田から年賀状が送られてきた。LINEを交換し、おれたちは再び意気投合した。中田と再び繋がることは出来ても、彼女は何処までも遠かった。当たり前だ。元々、クラスでよく話すだけの女子でしか無かったのだから。


 道路の脇を走り続けていると、大きな木が見えてきた。おれの行く手を阻むように枝がガードレールにかかっている。おれは自転車を止め、ガードレールを足で越えた。ガードレールにもたれ掛かり川沿いを見下ろすと鳥居があり、小さな祠の様な物が置いてある。おれに覆い被さる木の枝とまとわりつく蒸し暑さをものともせず、おれは急な斜面を下っていく。

「小学校の時のことは全然覚えてない」

 他愛ない会話の中で夏実はそう言った。全ての会話は覚えていなくても、その言葉は確かに覚えている。おれがどれだけ彼女を

 おれは今でも夢を見る。場所に脈絡は無い。場面場面が唐突なことすら夢の中では気づかない。彼女と会う。談笑する。LINEを交換する。目が覚め、虚ろになる。

 中学校の同窓会のグループ。彼女のアカウントは入っている。おれは追加する勇気がもてずにとどまっている。追加したかった。あの時の自分と彼女に戻りたかった。受験前に会ったとき、もうそれは叶わないのだと気づいた。気づいているのに願うことはやめられない。

 ぴんと張られた糸がおれの行く手を阻む。枝と葉を縫うように蜘蛛の巣が張られていた。おれは糸の中心を凝視する。巣の主が見当たらない。この巣の大きさと張り具合からして、まだ持ち主は生きているはず。そして、かなり大物だ。巣の中心にいない、警戒心の強い種――オニグモ。多分間違いない。オニグモなら巣のそばで足を折りたたんで、獲物が引っかかるのを待ち伏せているはず。巣の四隅を探る。リュックの中に詰めていた、虫かごを取り出してオニグモを探す。おれはあの時と同じように、虫取りを続けていた。あのときのおれはもういないのに。中田と遊んだ幼き時代と違い、取った虫について、誰かに話して聞かせることも出来ないのに。

 しばらく木の葉を捲って裏まで見ることを繰り返したが、オニグモは見つからなかった。おれなど存在していないかのように、緑の葉を大勢携えてたわんだ枝は、風に己を委ねて揺れていた。その動作によって起きる、涼しげな風――おれの顔を突き刺した。


 坂を上がり、ガードレールを越え、草むらから黄色い切れ端が顔を覗かせていた。凝視する――道路にアゲハチョウがはみ出していた。指でつまんで、掌にのせてみる。死んでいた。あたりまえのことだが、アゲハチョウはどれだけ長生きする個体でも、秋までは過ごせない。通り過ぎる夏に追いつくことは出来ない。

 今は八月だ。このアゲハチョウの羽には赤と青の模様がついている。それでいて、羽自体は余り大きくない。多分、これは春型のアゲハチョウだ。アゲハチョウには春型と夏型があり、名前の通り春と夏に活動する。夏型の方が身体が大きいが、春型の方が羽の模様が綺麗になるという特徴がある。このアゲハチョウが春型ということは、結構前に死んだはず。それなのに、アゲハチョウは綺麗だった。千切れてこそいるが、羽は飛んでいたときの鮮やかな黄色のままだった。

 大学生になって半分が経つ頃のいまなのに、なぜ小学生時代の夏のことばかり思い出すのか。

 おれの思い出は殆ど夏にあったからだ。夏はおれの人生の象徴だった。夏に中田と空き地で虫取りをした。秘密基地を作った。夏実に会えない夏休み、クーラーに当たりながら彼女に対する思いについて考えた。

 おれだけが知っている。おれだけが悔やんでいる。おれだけが取り残されている。

 あの輝かしい日々は本当に存在していたのか――馬鹿馬鹿しい疑問が浮かんでくる。あの時のことの大部分が、今ではリアルさを殆ど失っている。それを今でも夢に見ている。夢から覚めると本当の現実リアルの冷たさに立ち返って虚ろになる。

 鮮やかなのに透明さすら感じさせる空と手足を心地よく包む温もり。まるで夏のような感覚だ。

 おれは過去のことを惜しみ、悔やみ、焦がれながら生きていくしかないのだ。本当のおれは過去にしか生きていないのだから。さっきみたアゲハチョウと同じだ。通り過ぎる夏の思い出に追いつくことは出来ない。それなのにおれは通り過ぎ、ただ月日に身を任せた。そこには何の意味も無いのに、抜け殻のまま生きてきた。

中田がいたから輝けた。夏実がいたから輝けた。二人が離れた今、おれには何の輝きも残っていない。

 大学二年生ももうすぐ終わる。おれに出会いは何もない。これからもない気がしていた。それは予感では無く近い未来にある現実なんだと、おれは確信していた。

 そうこうしているうちに日が沈んでいた。空には赤が滲んでいる。真昼の青い空の穏やかさを感じていると、この光景は永遠なんだとおぼろげに感じたりもしていたが、いざ日が暮れるとなると要する時間は本当に僅かだった。

 もう、公園に行くには時間が経ちすぎている。今から公園の遊具で遊んで帰ってくるとなると真っ暗になってしまう。それでも別にいいと思えた。おれは公園に行くために出かけたはずだったが、中田や夏実とのあれこれを思い出すうちにその気持ちは投げやりな物に変わっていた。むしろ最初から公園に行く気持ちなどなかったことに気づいていなかっただけなのかも知れない。日頃の怠惰な生活に慣れきった身体が自分の奥底を見つめる思考をどこまでも鈍らせていた。

 おれは来た道を引き返した。交通量は明らかに増えており、余計に自転車を進めづらかったが、急いでいるわけではないので、別にいい。しばらく進むと、来たときに左折してきた、町並みの側に戻る道が見えてきた。闇に包まれた通りが、様々な建物に照らされている。おれはそこには戻らず、川沿いの細い道路に入った。遠くに見える、橋に向かって一心不乱に走り続けた。橋に近づくにつれてだんだんと傾斜がきつくなる。足の力はすっかり無くなっており、上り坂を自転車で進むことは困難だった。それでもペダルを漕いだ。肩に力を入れ、進み続ける。

 なんでおれが出かけたくなったのか分かった。あいつからのLINEが来たからだ。昔ならもっと感動できたんだろうけど――あんな文面が送られてきたからだ。おれもそれに同意した。LINEの文面が示すことが出来る感情などたかが知れていたが、心の底からの同意だった。おれだって知っていた。もうあの時のような鮮やかな感情を持つことは出来ないんだと。色褪せたおれは化石のように暮らし、光を放っているあの夏の日々達を夢見続けるしかないんだと。それはおれの思い込みだった。おれはずっと一人で暮らしていた。だからあの日を二度と遅れないというおれの諦観は肯定も否定もされず、ただの独りよがりな考えとして頭の中にしまわれていた。それが明確に、おれ以外の人間によって肯定されてしまった。おれ以外の他人に。それも親友に。諦観は真実となった。それが指し示す現実に、もうおれは抗うことは出来なかった。取り戻せるものはもう何もないんだと、決定づけられてしまったんだ。

 おれは彼が好きだった。彼とまた会いたかった。彼と会えば、あの時の非日常を取り戻せるかもしれないと淡く空想していたからだ。彼によってそれは否定された。

 視界の中心に橋が飛び込んできた。橋を目指して坂を登ってきたのにいざ到達するとその光景はやや唐突に思えた。大きく骨太な橋の中を、自動車が物凄い早さで走り抜けていく。おれは歩道の適当なところで自転車を止めた。そのまま手すりに頬杖をついて、橋の下から紀ノ川を見つめた。数時間前は間近に見ていた川が今は真下にあって、遠い。さっきの場所からだいぶ移動したはずだ。にもかかわらず、川は終わりなど無いかのように、永遠に水を湛えて地平線の先まで途切れること無く伸びている。川がおれを追いかけてきたみたいだ。馬鹿げた考えが、頭に浮かぶ。川はとても大きく、黒かった。おれがオニグモを探していた場所よりも幅が広くなっていた。高さを確認する。川はそれなりに深さがありそうだが、落ちたら間違いなく死ぬだろう。日が沈みきったせいで、世界は薄暗い靄に覆い尽くされているようだった。薄暗い靄は橋の高さに対する恐怖を朧にしていた。僅かな明かりを感じて、おれは首を上に巡らせた。整った満月が空の高いところにあった。なんでこんな時に限って満月なんだ――意味の無い、疑問ですら無い感情が浮かんだ。薄暗さに包まれた世界の中で、おれは月が存在することに違和感を覚えた。満月なんて今まで何回も見てきたのに、今日に限っては空の中でそれが浮いている様に感じられた。

 今まで満月のことなど気にしたことも無かったのだ。今の今までそれに気づかなかった。

 おれは彼に会ったときの光景を雨が降っていたとか熱かったとか大まかな情報しか覚えていない。だから、一人でこれだけ集中して景色だけを見つめていたのは初めてだった。おれは思い出の中でいつだって好きな人を見つめていた。景色はその人を彩り、自分の五感を確かなものだと教えてくれる思い出の一部として鮮烈に焼き付いていた。今のおれから夢中になれる人々は遠いところへ離れて行ってしまった。景色だけは模様替えしながらも、今でもそこにある。今のおれは景色そのものをきちんと見つめることが出来る。それで何が面白いのか。それで何が満たされるのか。

 肌寒さが我に返した。昼間の日差しと蒸し暑さは嘘のように失われている。

 彼といつかまた会いたかった――さっきと同じことを考える。会えるはずだった。会えばまた、あの時が戻ってくると信じていた。あのとき過ごしていた、いつもの日々がまたやって来るという空想は彼のLINEで断ち切られた。おれたちはお互いに老いたのだ。彼女も彼もそれを受け入れる中で、おれだけが思い出に縋っている。老いることにおれだけが耐えられない。だから、おれは、死ぬんだ。

 何処までも暗くて透明な世界――その中で月だけがピントが合わさったかのように具体的だった。おれがあの日見た光景も、きっとどこかで同じように広がっている。

 おれは頬杖をつくのをやめて、手すりに上がった。立った。手足がぐらついた。平衡感覚が完全に失われる前に、飛んだ。

 おれは橋から落下した――世界に別れを告げた。一瞬風が巻き起こったと思えば、物凄い水しぶきの音と痛みに収斂していく。背中が叩きつけられたことがわかった。痛みは息苦しさに飲み込まれていく。

 冷たかった。寒かった。身体の芯がどんどん重たくなっていき、自由が失われていく。既に表皮は感覚を失い、ただ重さだけを伴って水底に沈んでいった。たまらず口を開けた。途端に物凄い質量の水が雪崩れ込み呼吸を奪う。手足を闇雲に動かした。呻きは泡にしかならず、おれは流れに運ばれてゆく。

 世界からおれが断絶する瞬間――景色はそれをどう見ていてくれるのか。灰色の雲が流れていく中、月だけはくっきりと輝いているはずだ。意識を失っていくおれにはもう見えなかった。

過去に対する未練を書き殴っただけなので、ストーリー性など全くありません。もはや小説とすら呼べない代物です。それでも書きたくなったのです。申し訳ない。

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