9:ウェルカム・トゥ・ジャングルじゃない方
二階へ戻った二人は、黒須からの報告書と口頭説明を、ノアと共有した。
ふむふむ、と小難しい顔でそれを聞いていた彼は、最後にパッと顔を輝かせた。
そしてテーブルに置かれたすごろくを、高々と掲げる。
「うふふっ。なんだかこのすごろく、『ジュマンジ』みたいだね!」
そして二人が言い淀んだことを、遠慮なしに言った。
やはりオバチャンに、遠慮の言葉は無縁であるらしい。いや、オジチャンであったか。
顔を見合わせて、ユージンとキリエは肩を同時にすくめる。
呆れ顔の部下に怒るでもなく、ノアは二人へ身を乗り出した。
「ねぇねぇ。これ、ちょっとやってみる?」
「嫌ですよ。『ジュマンジ』みたいに途中で止められない仕様だったら、どうするつもりですか」
ワクワク顔のノアを、うんざり顔のユージンが一蹴した。ソファに座りなおしたキリエも、それに同意する。
「そうっすよ。すごろくで残業とか、嫌っすよ。ウチって残業代ついた時、めちゃめちゃ小言言われるじゃないっすか」
「残業以前に、すごろくで編纂室が倒壊して、今まで封印した呪具が流出……なんて事態にもなりかねないぞ」
ユージンの冷静な指摘に、キリエが青ざめる。
「ひえっ……マジもんの『ジュマンジ』じゃないっすか!」
なお上記作品のすごろくでは、ゾウやらワニやら、ハンターの爺さんが出現していた。そんな連中が徒党を組んで編纂室で暴れたら、封印なんてへったくれもないだろう。
なにせ魔術で生み出された存在である。
ためにユージンが、ノアからすごろくを奪い返した。
「というわけで、さっさと封印して保管庫に入れましょう」
カツン。彼の声に被さるように、何か硬質なものが落ちる音がした。
三人は音の出所を目で追いかけ、そしてテーブルすぐ脇の床を見下ろした。
床を跳ねて転がるものは、白く塗られた木製の正六面体――つまるところ、サイコロであった。呪いのすごろくの箱から、いつの間にか転がり落ちたらしい。
全員の体が凍り付き、呼吸も止まる。
ユージンが抱きかかえるすごろくから、魔力がじわじわと漏れ始めた。
しかし誰も、彼のミスをとがめない。
何故なら呪具では、こういった不幸な出来事がよくあるのだ。
勝手に動き出すことなんて、呪具ではよくあること、なのである。
だからこそ、それに抗う力を生まれつき持ち合わせている、攻性魔術持ちが封印に当たっているのだが。
ユージンをなじる代わりに、キリエは力なく天を仰いだ。
「あちゃー……先輩って、こういう引きの良さだけは天下一っすよね。巻き込まれ体質ってヤツっすか?」
「縁起でもないこと言うな! ――室長!」
サイコロの出目が決まる前に、ユージンが叫ぶ。抑えきれなくなったすごろくの魔力が、光となって箱から漏れ出ている。
「よし、僕に任せなさい!」
力強く宣言すると同時に、ノアは魔術を作動させた。
時間停止魔術である。
天井を見つめるキリエが、彼へ向かって叫ぶユージンが、その姿勢のまま固まる。
床を跳ねるサイコロも、宙に浮かんだままになっている。
そして慌てることなく、ノアはユージンの手からすごろくを引っこ抜き、それを広げた。
ごくごく一般的な、マス目の並んだすごろくである。
しかし三人が危惧した通り。
書かれている内容は「落雷で命を落とす」や「天から血の雨が降って、疫病が流行る」など、救いようのないものばかりだ。
もう少し、可愛げがあってもよさそうなものなのに。
「知らずにこれを始めた子供たちは、よく怪我で済んだわねぇ……ビギナーズラックかしら?」
首をひねった彼は、その中にある数少ない、何も書かれていないマス目の順番を数える。
「よし、五マス目だね」
そして床を跳ねるサイコロをかすめ取り、五の目に合わせてテーブルに置いた。
準備万端となったところで、時を再び動かし始める。
床を転がっていたはずのサイコロが、テーブル上に移動したことに驚いて、すごろくの魔術が一瞬乱れた――ような気がした。
しかしすごろくの駒は、小刻みに震えながらも大人しく五マス目に進んだ。
ホッと、ユージンとキリエが息を吐く。
「やっぱ室長の魔術は、便利っすね!」
「時間を止めたら、その分僕だけ老けちゃうから、いいこと尽くしじゃないけどねー」
キラキラ目を輝かせるキリエへ、ノアは笑って肩をすくめる。
「室長、ご迷惑をおかけしてすみません」
頭を下げるユージンへ、いえいえ、と彼は手を振った。
「呪具が勝手に動くなんて、よくあることだからね。さあ、さっさと上がっちゃおう」
「はい、了解です」
「うっす」
キリエもうなずき、三人でソファに座りなおす。
そこからはサクサクと、クラッカーの食感がごとき軽やかさで進んでいった。
キリエの駒も、ノアの駒も、全てノアの魔術が支配する。
途中で彼がマス目を数え間違い、ユージンがピラニアに噛まれるという珍事も起きたものの、おおむね平和な内にすごろくは終了した。
呪いがほぼ不発に終わり、渋々沈黙したすごろくに、ユージンが封印魔術を施す。
そして肩から、力を抜いた。
「これで無事完了だな」
「先輩……まだ頭、かじられてますけど」
恐々と身をすくめながら、キリエがユージンの後頭部へ視線をめぐらせる。ユージンがつられて腕を這わせて、ピラニアにたどり着いた。
む、と顔が不機嫌に歪む。
「……何か痛いと思ったら」
「血も出てるわよ、ユージン君……もうちょっと敏感になりましょうよ」
キリエと手をつないで身を寄せるノアも、彼女同様の怖いものを見た顔だ。
「猫に変身して以来、痛みに鈍感なんですよね」
「すっかり痛覚も猫ちゃんになってるのね……」
青ざめる彼に笑いながら、後頭部に噛みつくピラニアをひっぺがす。魔術で作られたかりそめの命は、すぐに霧散した。
白い霧となったピラニアを、惜しむようにキリエは見つめている。
「あ、消えちゃった……ちょっと食べてみたかったんで、残念っす」
「……俺をかじったピラニアなのに、いいのか?」
「そうっすね。先輩が死んだわけじゃないんで、セーフかなと」
勝気な美少女顔をひまわりの笑みに変えて、ほがらかに言い切るキリエ。
「怖いよ、お前の倫理観が」
今度はユージンが青ざめる番だった。