2:魔術史編纂室の朝
地方コミュニティ紙をにぎわせたデビュタント事件から、一年が経っていた。
その日も、魔術史編纂室の朝はゆっくりとしていた。
魔術管理局の敷地の隅に立つ、一見すると山小屋のような素朴な建物が、「もっとも苛烈な閑職」として有名な編纂室の事務所だった。
他部署では、すでに局員が全員揃う頃になってようやく、そこに動くものが現れた。
最初に編纂室へ出勤したのは、白黒模様のオス猫だった。
彼は編纂室事務所の横に植わった、サクラの木まで枝伝いでたどり着くと、そのまま飛び降り、音もなく鮮やかに着地する。
着地した体勢のまま、しゃがみこんでいた猫の姿が揺らぐ。
瞬く間に、猫は人間の男性に変わった。
柔らかな黒髪の、どこか神経質そうな細面の男性である。年の頃は二十代後半から三十代前半か。
年の割にパーカー姿という、いささかラフ過ぎる服装である以外、各段変わったことは――あった。彼の耳だ。
そこだけは猫に変身していた時から変わらぬ、大きな黒い三角耳だった。
男性こと鬼丸ユージンは、パーカーのフードを被って、その耳を隠す。
そしてズボンの後ろポケットから鍵を取り出し、編纂室の玄関扉を開けた。
ステンドガラスがはめられた、飴色の扉だ。
地上部分、地下部分共に三階建ての室内に入ったユージンは、使い込まれた木の廊下を軋ませて歩を進める。窓も開け、換気も行った。
建物が古いためか、それとも保管庫や書庫があるためか。室内はいつもどこか、ほこりっぽいのだ。
窓を開けて空気を入れ替えながら、パーカーを腕まくりした彼が雑巾がけを行う。
事務室に三つある机の上や、棚の中を念入りに拭いていく。見た目通り、神経質で潔癖な性格であるらしい。
「なぜいつも俺なんだ」
と、彼がぼそり、と不機嫌な声で呟いた。次いで、九時十分を指し示す壁掛け時計をにらんだ。
「始業時間は九時だぞ。室長もキリエもたるんでる。たまにはあいつらも、掃除すべきだ」
ぶつぶつと恨み言をこぼしつつも、ユージンの手は止まらない。
そんな彼の猫耳が、入り口に向かってぴくり、と傾いた。ユージン本体もかすかな音の出所へ視線を走らせる。
ドタドタした小走りの、少々鈍臭そうな足音が近付いて来た。
「ごめんね、ユージンくーん!」
小太りの、何故かアームカバーをした中年男性が、事務室の扉を全開にして駈け込んで来た。
むっつりと、ユージンは彼を見る。
「十分――いえ、十一分の遅刻です。室長」
茶色の七三頭を撫でつけて整え、室長――芥場ノアは両手を合わせて謝罪。
「ごめんってばー。出勤前にお腹が痛くなっちゃったんだよ」
「朝から牛乳を飲むのは止めるよう、俺、前にも言いましたよね?」
ノアの、下痢によるトイレへの籠城ならびに遅刻は、もはや恒例行事でもあった。そして、その原因が朝一番に飲むコーヒー牛乳であることも。
不機嫌そうに眉を寄せるユージンへ、てへ、とノアが舌を出す。
「だって牛乳飲まないと、今度は便秘になっちゃうんだよ。いいのかな、僕が便秘で痔になって、ドーナツ型座布団のお世話になっても?」
ユージンは金の瞳を、静かに細めた。
「俺のケツではないので、痛くもかゆくもないですね」
「ユージン君、冷たい!」
赤ん坊のように丸い手が、テシテシとユージンの肩をぶつ。
「止めてください。パワハラで訴えますよ」
「ユージン君が言うと、本気っぽいから怖いね」
実際本気であった。やる気満々の目と視線がかち合い、ノアは両手を背に隠す。
彼はようやく、まだ二人しかいないことに気付く。
残る一人の机を、ノアは見た。
「ところでユージン君。キリエ君は? トイレ?」
「室長と一緒にしたら、さすがに怒ると思いますよ。遅刻しているので、同じ穴のムジナと言えばそれまでですが」
じっとりと、ユージンも散らかった机をねめつける。
「まあまあ。キリエ君はほら、低血圧だから」
「それでも連絡ぐらいはするべきです」
正論を言い放つユージンを、福福しい笑顔のノアがなだめている時だった。
爆発音が、事務所入り口からしたのは。
二人の動きが、ぴたりと止まる。
しかしそれは恐怖や驚きによるもの、ではなかった。
現にユージンの皮膚の薄いこめかみには、青筋が浮かび上がっている。
彼は廊下へ飛び出しながら、大音声で吠える。
「……キリエ! 何度ドアを壊したら気が済むんだ、お前は!」
怒りで反り返った耳のまま、爆発によって埃や粉塵が舞う廊下を、ユージンは進軍した。口元に手を当て、コホコホむせながら、ノアが続く。
と、そこでアームカバーをしたままであることに気付いたらしい。
「きゃっ」
小さく可憐な悲鳴を上げ、慌てて花柄のアームカバーを外した。
一瞬だが、うんざり顔のユージンがその光景を見下ろす。
しかし成分不明の埃あるいは煙の向こう側に人影が見え、彼の顔はまた険しいものとなる。
人影は煙を飛び越え、木くずだらけの金のショートボブを揺らし、頭を下げる。ショートパンツ姿がよく似合う、引き締まった体型の少女だ。
「すんません! 遅れたっす!」
「『遅れたっす』じゃねえよ! それより先に謝ることがあるだろうが!」
口調がやや乱暴になったユージンが、再度吠える。
爽やかさすらたたえる青い瞳をまたたき、周囲を見渡し――もうもうと立ち込める埃と粉塵によって、周囲の見渡しは最悪だが――、あ、とキリエは声を発した。
そしていたずらっ子のように、鼻の下を指でこすって、はにかむ。猫目が可愛らしく細められた。
「すんません。またドア壊しました!」
「ちょっとは悪びれろよ、お前は!」
怒鳴り過ぎて頭痛がしたのか、側頭部を押さえてユージンが首を振る。
それを見て、キリエは慌てる。
「先輩、大丈夫っすか?」
「俺のことはいいから……お前な、もうちょっと魔力の制御は出来んのか?」
「努力はしてるっすよ。でも、先輩の教え方が小難し過ぎて、あたしにはさっぱりっすね」
「俺のせいかよ!」
あっけらかんと笑う彼女に、ユージンはとうとう両手で頭を覆い、叫んだ。
「正しくは、先輩とあたしの学力の差、ですかね」
「……それで、学力に問題のあるお前は、何枚のドアを壊したら気が済むんだ?」
「自分にも分かんないっすね! でも、そこにドアがある限り、壊し続ける気がします!」
「するな! 自重しろ!」
たった三人しかいない室員(内一人は室長)の、二人が遅刻し。
そしてその内の一人が玄関扉を、魔術で誤爆する。
これが魔術史編纂室の日常であった。