第2章 沈黙の神-その5
ナマコ。
海に生息する、見た目はやや不気味な生き物。酢の物にしてコリコリとした食感を楽しむ他、乾燥させて漢方薬の材料として用いられることが多い。
なんにせよ、あれを初めて食べた人は尊敬に値する、と花水木は心から思う。
「ナマコの……何を崇めてるんすかね?」
「ま、詳しいところまでは俺も知らんが」
間咲正樹は真言宗の僧侶、ナマコ教(仮称)は興味本位でかじった程度だという。
「師匠いわく、激烈な生存競争の中にあって、ゆったりと生きている姿に王者の貫禄を見たらしい」
「……すげえ感性っすね」
「確かにな」
ナマコ教(仮称)に経典はなく、言葉で伝える教えもない。崇拝の対象たるナマコのように、何も語らず、あくせくせず、ゆったりとおおらかに己の生き様を示せ、というのが唯一の教えだそうだ。
「禅宗に不立文字の教えがあるだろう?」
「あー、そんなのありましたね」
「あれが近いっちゃあ、近いが……何も語らぬ沈黙の神、ナマコ。その姿を見て己の生き様を顧み、王者の貫禄を身につけていく、というのが修行になるらしい」
「それ、めっちゃ難しくないですか?」
「難しいな」
何事も正しいやり方というものがある。特に心の有り様を追求する宗教では、やり方を間違えるとその身を滅ぼし、周りに甚大な被害を与えかねない。
「それゆえ指導者は必須だが、残念ながらナマコ教(仮称)に教団と呼べるものはなく、弟子の育成法なんてノウハウはない」
だから、修行場を提供する代わりに、ノウハウを持つ人に弟子の育成を助けてもらう、という仕組みらしい。
「それ……托卵?」
「お、上手いこと言うな」
「そんなことしてたら、そのうち乗っ取られるんじゃないですかね?」
「そういう動きは何度もあったそうだが、歴代のナマコ教(仮称)の教主がすべて返り討ちにしたらしい」
「そうなんですか?」
「由房師匠の師匠に当たる先代教主なんて、鬼のように強かったらしくてな。武装した僧兵千人を相手に、かすり傷一つ負わずに完勝したと言われている」
「それ、バケモノじゃないですか」
神はナマコ、教主はバケモノ。なんだかすごい一派だな、と花水木は唸った。
「まあ、独特といえば独特な一派だな。ちなみにお前、そこの唯一の弟子という立場だぞ?」
「え、俺が!?」
「その驚きよう……やれやれ、本当に知らなかったのか」
どうしたもんかなこいつ、という目で間咲正樹に見つめられ、花水木は「てへへ」と笑ってごまかした。
そんな花水木を見て、間咲正樹は「ふむ」とうなずきつつ湯呑みを取る。
「……出会うべくして出会った、俺はそう思っているがな」
「そうなんすか?」
花水木が首を傾げると、間咲正樹はお茶をひとくち口に含み、コトリと湯呑みを置いて居住まいを正した。
「あくせくと生き急ぎ、感じたことはすぐに言葉にして叫ばずにはいられない」
間咲正樹の、静かだが力強い口調に、空気がピンと張りつめた。
「それが高じて、言葉で人一人殺してるお前だ。学ぶべきことはあるだろう」
「なっ……」
間咲正樹の目が、花水木を射抜いていた。思わず花水木が睨み返しても間咲正樹は微動だにしない。その視線だけで花水木は叩きのめされていく気がした。
これが年季の、そして覚悟の違いだった。
そのあまりの圧力に花水木は耐えられなくなり、気がつけば視線を落としうなだれていた。
「周りが勘違いしていたとはいえ、自分の居場所がどこなのか、三年も確かめなかったことは猛省に値すると思うがな」
「……申し訳ありません」
じわり、と涙があふれてきた。
三年も修行をしていっぱしの人間になれたつもりでいた。だが、兄弟子である間咲正樹から見れば、三年しか修行していない未熟者にしか見えないのだろう。
悔しくて、そして情けない。こらえようと必死になったが、とうとう涙がこぼれて落ちた。
「くぅ……」
すると、間咲正樹が妙な声を上げた。ビクリとなって恐る恐る視線を上げると、間咲正樹がくねくねと悶えながら、スマホを構えて花水木を撮影していた。
「そんなカワイイ顔で泣き顔……チョー萌える♪ やっべ、マジで嫁に欲しい」
……これさえなければ。
この人、ほんと尊敬できるのに、と花水木は深く大きくため息をついた。