第2章 沈黙の神-その4
「はっはっは、いやーすまん、つい取り乱した。ほれ、こっちこい。もう何もしないから」
服装を整えて戻ってきた間咲正樹は、部屋の隅で震えて泣いている花水木をヒラヒラ手を振って招き寄せた。
「あ、あんた、これ犯罪だからな! 警察に訴えられてもおかしくないからな!」
「悪かった悪かった。悪ノリしすぎた」
用心しながら、花水木は机を挟んで兄弟子の前に座る。出されたお茶を飲むとようやく落ち着いた。
「ま、なにはともあれ元気そうで何よりだ」
「たった今、精神力ガリガリ削られましたけどね」
「それは大変だ。どれ、抱き締めて慰めてやろう」
「……次はタマ潰しますよ?」
「おおう、それは怖い♪」
肩をすくめておどける間咲正樹を見て、花水木は「相変わらずだなあ」と呆れつつ、なんとなく安心するものを感じた。
住職として寺へ行くことになった。
去年の夏の終わり、間咲正樹は要請を受けたとのことで、山を降りた。バカなことばかりする困った兄弟子だが、実力はピカイチ。師匠の一番弟子として誰もが認めていた人だけに、まさか山を降りるとは思わなかった。きっとこの人はずっと山にいて、そのうち師匠の後を継ぐのだろうと思っていただけに、花水木のショックも大きかった。
しかし、考えてみればそれは当たり前のことだった。
修行それ自体は目的ではない。修行で培った力で世のために役に立つのが目的だ。そうであれば、力のある人こそ山を降り、その力を振るうべきなのだ。
寂しくなかったといえば嘘になる。しかし、間咲正樹が僧侶として世の役に立つのであれば、弟弟子としては自慢すべきことだろう。
「正樹さん、檀家に迷惑かけてないでしょうね?」
「大丈夫だっての。俺の読経、すげーイケボだって檀家には好評なんだぞ」
「あー、そういや、ムダにいい声してましたねー」
「檀家の人に法話会とかやってたらな、俺の声が評判になって、近所の人も集まりだしたんだぜ」
間咲正樹が近況をいろいろと話してくれ、真面目にお坊さんをやっているらしいとわかった。不肖の弟弟子の分際でおこがましいが、どうやら心配ないようだ。
「なんかスゲエっすね。ちゃんとお坊さんしてるんだ」
「まあな、ここで生きてかなきゃいけないからな」
「あー、俺、そういうのちゃんとできるのかなあ」
「ん? お前も寺に入るのか?」
「まあ、いずれはそうなるんじゃないかなあ、と思ってますけど」
「あれ、お前の家、寺だっけ?」
「いえ、違いますけど?」
花水木の両親も祖父母も、会社員なり公務員なりで、お寺関係の者は一切いない。しかし山で修行を終えた者は、たいていどこかの寺へ赴任している。花水木もそのうちそうなるのだろうと考えていたのだが。
「いやいや、違うぞ。俺は家が寺だから僧侶になっただけだぞ? 修行を終えたら僧侶、てわけじゃないからな」
「え? だって山って、仏教の修行場ですよね?」
「は?」
「え?」
花水木の言葉に、間咲正樹が目を丸くして驚いていた。
「いやいや、あそこは違うぞ? 寺関係のやつがわんさといるが、仏教関係ないからな?」
「はぁっ!? マジっすか!?」
「え、お前、そんなことも知らないで三年も修行してたの?」
「いや、だって毎日お経あげてるし。理趣経とかめっちゃ勉強させられたし。あれ、真言宗のお経ですよね?」
「あー……あー、そうか、お前、俺と一緒にいたから、勘違いされたかぁ」
いやまいったねこりゃ、と間咲正樹が頭をつるりと撫でた。
「あそこは過去にいろいろあって、今では宗派関係なく人が集まって修行している場でな。統括しているのは、仏教じゃねえんだ」
「え、じゃあ何の宗教なんです?」
「宗教と言えるのかどうか……まあ、一応、神様はいるけどよ」
聞いて驚け、と前置きをして、間咲正樹は至極真面目な顔で花水木に告げた。
「あそこを統括しているのは、世にも珍しい、ナマコを神と崇める一派だ」