第2章 沈黙の神-その2
どうにか身支度を終えると、花水木はホテルを後にした。
ちなみに、二日目のコーディネートは若草色の着物に草履。コーディネート by 師匠 である。
「あの人、俺をどうしたいんだ?」
荷物はホテルへ送ると言われたので、ほぼ手ぶらで山を降りた花水木だが、昨夜チェックインして絶句した。
なんとキャリーバッグが四つも届いていた。着替えその他もろもろ一式が、一日ごとに詰められていたのだ。
中身を改めたところ、すべて着物。かさばるわけだ。花水木だとわからないように変装しろとは言われたが、着物なんて目立つ格好でうろうろしていたら逆効果だと思う。
いっそ自腹で服を買うか、とも考えたが、変装方法は師匠の指定が条件だ。バレたら破門もあり得るので、諦めるしかなかった。
「こんなところで金使うぐらいなら、スマホぐらい使わせてくれよなあ」
修行中は使用禁止のため、三年前に入山したとき契約を解除している。山にこもっていたら使うことはないので不便に思うことはなかったが、山を降りたら不便この上なかった。
「えーと、こっちか……」
メモした住所を頼りに道に立っている地図で道を確認し、花水木は横断歩道を渡った。
花水木が向かっているのは、昨年山を降りた兄弟子、間咲正樹が住職を務める寺だった。
一体どこで聞きつけたのか、花水木が山を降りると知って「絶対顔を出せ」と連絡をしてきたのだ。
「来なかったら、お前の名を呼びながら泣いてスネる姿を、各種動画サイトにアップするからな!」
そんなもの師匠に見つかったら、みんながいるときに本堂で公開されるに決まっている。何が何でも阻止する必要があった。
「相変わらずだよなぁ……」
花水木はそうつぶやくと、自分の手に視線を落とした。
血まみれの両手。
今朝の夢は三年前の現実だった。いや、幻覚だとわかっていたが、現実としか思えなくて、毎日手がボロボロになるまで洗い続けていた。
「そんな洗い方じゃ、血は落ちないぞ」
そう言って自分の手を取ってくれたのが兄弟子の間咲正樹だった。バカばかりやってる人だが、花水木を救ってくれた恩人だ。連絡がなくても顔は出すつもりだった。
「わっ!?」
「おっと」
手を見ながら歩いていたせいで、曲がり角で出合い頭にぶつかってしまった。
「わ、わわっ……」
足がもつれ、体がフラリと傾いく。足を広げて踏ん張ろうとしたが、着物のせいで広げられない。「あ、やばい倒れる」と身構えたが、ごつい手が伸びてきて支えてくれたおかげで倒れずに済んだ。
「失礼、お嬢さん。大丈夫かね?」
「す、すいません」
謝罪しつつ、支えてくれた人を見上げてギョッとした。
オールバックにサングラス、口髭、派手なシャツに黒スーツと、「いかにも」な男だった。
そんな男が「おや?」という顔をしたのを見て、花水木は「しまった」と口を押さえた。見た目が若い女で、出てきたのが男の声だ。性格悪いやつなら絶対に絡んでくるだろう。
「ふうん」
男が花水木をジロジロと見た。絡んでくるのなら先手を打って叩きのめしてやろうか、なんて考えたが、かろうじて自制した。
この男、昨夜叩きのめしたヤンキーどもとはわけが違う、マジモンの気がした。
そんな男とトラブルなんて面倒以外の何物でもない。できればこのままやり過ごしたいところだった。
「いやいや、華やかでいいねえ。お茶の稽古か何かかな?」
ほう、ほほう、なんて言いながら、男は花水木をいろいろな角度から眺めてくる。花水木が思わず両手で体を隠すようにして一歩下がると、男は「おっと失礼」と大笑いした。
「すまんすまん、警戒させちゃったな。いや、綺麗な着物が汚れてないかと気になってな」
「……いえ、その……ありがとう、ございます」
黙っているわけにもいかず、花水木はできるだけ高い声でお礼を言った。男は「いやいや、こちらもよそ見してたから」と鷹揚に笑ってくれた。
「それじゃ、気を付けてな。お嬢さん」
くそ、やっぱ気づいてるな。
嫌味ったらしく「お嬢さん」を強調した男は、そのまま悠々と立ち去っていった。
「ああもう。ケチらずタクシー使えばよかった」
とりあえず何事もなくてよかった、と胸をなでおろすと、花水木は踵を返し、兄弟子が待つ寺へと向かった。